中国にもの言えぬ

外務省不要論

 5月8日午後、中国瀋陽にある日本総領事館に北朝鮮の5人が亡命を求めて駆け込んだところ、それを追ってきた中国の武装警官が総領事館の内部にまで踏みこんで5人を連行するという事件が起こった。

 これは領事館の治外法権侵犯という重大な事態で、日本側は9日午前、竹光外務次官が武大偉駐日中国大使を呼び、「厳重に抗議した」らしい。先方はウィーン条約に違反したわけではないと受け流したようだが、たしかに武大偉などと如何にも強くて偉そうな名前である。対する日本側が竹光では初めから負けたようなもので、せめて武光さんか武討ちさんならば、いくらか勝負になったかもしれない。自今、次官の任命にあたっては名前もよく吟味すべきであろう。

 一方このとき国会では「有事関連特別委員会」が開かれ、朝から延々とコンニャク問答がつづいていた。有事とは何か、周辺事態とは何か、鉄砲を撃ってもいいのかなどといった愚にもつかぬ議論だが、現に瀋陽の事態こそ有事であり周辺事態ではないのか。

 領事館への侵犯という現実の有事を放置したまま有事の対応策について議論をしているのは、火事場にあって火の消し方を議論しているようなもの。これでは火を消せるはずがない。まずは水をかけるなり、建物を壊すなり、何らかの行動を起こす必要があるので、大使を呼んで抗議をするのは単なる形式にすぎない。小泉首相の好きなアメリカ大統領にならうならば、この際は目には目をの報復主義を取って、警察官を在日中国大使館に踏みこませ、証拠書類を押収するくらいの強行措置に出るべきであろう。

 もうひとつの方策は鈴木宗男先生にお願いして中国大使館や北京へ出向いてもらい、恫喝でも威嚇でも叱責でも、あるいは足蹴でもビンタでも得意の手を使って北朝鮮の5人を取り返してもらうことである。もっとも、まずいことに、この2か月ほど外務省は居留守を使ったり、永久極秘文書を公表したりして、ムネオ先生をソデにしてきた。いまさら、お前らの言うことなぞ聞けるかと怒られそうだが、そこは例によって土下座でも何でもして頼みこむべきだ。

 それが駄目なら、田中真紀子先生にお出ましいただくほかはない。北京でも瀋陽でも出かけて行って、舌鋒鋭い切り口上で相手を抑え込み、一方では日中友好の女神としてテキをたらしこむのである。しかし何たることか、この人の外相就任中も外務省はなかなか言うことを聞かなかった。じゃじゃ馬がおいそれと行くわけはないから、またしても目白御殿の門前に頭をすりつけるほかはなかろう。

 かくて、外務省は外交どころか内交でも手詰まりにおちいった。日本には外交がないといわれて久しいが、いよいよそれが表面化してきた。身から出た錆などといってはおられない。錆びた外務省などは要らない。直ちに解散すべきである。

 もともと外交などなかったのだ。ODAとか支援委員会などともっともらしい羊頭をかかげて、貧しい国へ狗肉を配るなどは外交でも何でもない。そんなことが真の外交だと思いこんでいる証拠は、これも8日の外務委員会における元コンゴ大使の発言である。

 なんでも「ダム発電所計画について、ほかの先生方は何にもしてくれなかった。唯ひとり予算を取ってくれた鈴木先生には足を向けて寝られない」そうで、こんな愚劣なせりふを臆面もなく吐けるとはどういう神経か。本来そんなコンゴウヤムヤ・ダムは不要だと思ったからこそ、誰も何もしなかったのである。この人は4年前のペルーで長期にわたって人質になっていた。その極限状況の中で頭もおかしくなったのであろう。

 逆に中国の某主席からは、多額のODA援助を出しているにもかかわらず、首相の靖国参拝に対して「許しがたい」などと高圧的なせりふを吐きかけられたばかりである。それこそ「日本には足を向けて寝られない」くらいのことは言ってもらいたいものだが、向こうが言いたくなけりゃ言わせるべきで、援助を打ち切るといえば、その一言で参るはずなのだ。

 今回の彼らの実力行使に対しても、ベースボールじゃあるまいし、抗議だなどと生ぬるい形式的なやりかたではなく、もっと厳しい申し入れと、場合によっては早速にも有事立法を適用して実力行使に出るべきである。

 今のような無力な外交をやっている限り、日本も遠からずしてチベットや新彊ウィグル地区と同様、中国の弾圧に屈し、植民地支配を受けるはめになるであろう。

(小言航兵衛、2001.5.10)

(表紙へ戻る)