<空飛ぶ救命室③>
黄金の時間


 事故や急病のために緊急事態におちいった人の命を救うには、一刻も早い医療処置が必要。では実際に、事態発生からどのくらいの時間で救急治療がなされているのだろうか。



(2018年6月号)


救急治療開始までに50分以上
 
   「ゴールデンアワー」という言葉がある。といっても、ここではテレビの視聴率の高い時間帯をいうのではない。米メリーランド州立大学のアール・アダムス・カウリー先生(1917~1991)の提唱で、ベトナム戦争に際して「ジャングル地帯には電話も道路も救急車も病院もなかった。けれどもヘリコプターを投入しただけで、そうした不備の大半が解消された」という見方から、救急患者を助けるにはヘリコプターを使うなどして迅速な治療着手が必要。それが少しでも遅れると取り返しのつかない結果になってしまう。その時間をカウリー先生は「黄金の時間」と呼んだのであった。 
 この考え方は今や多くの人に共通の常識となった。では実際に、われわれはどれくらいの時間で救急治療を受けることができるのか。
 総務省消防庁の「平成29年版救急救助の現況」によると、平成28年中の救急出動件数は全国620万件であった。その救急車が患者のところへ到着するまでの時間は平均8.5分。救急車に乗ってきた救急救命士は現場で除細動、気道確保、人工呼吸などの応急処置をおこなうが、医師のような治療や薬品投与には制限がある。
 そこで急ぎ患者を病院へ送りこまねばならない。しかし患者が実際に病院へ収容され、治療を受けるまでの時間は全国平均39.3分。その都道府県別の差異を見てゆくと下表のような結果になる。
 つまり平均約40分といっても、早いところは富山県や福岡県のように30分程度で医師に引き継がれる。逆に最もひどいのは東京都で、なんと50分以上もかかる。それに次いで福島、新潟、千葉などの各県が44分台。これで「救急」といえるのか。とりわけ東京都が飛び抜けて長時間を要しているのは何故だろうか。むろん道路の渋滞、医師の不足、ベッドの空きがないなど、さまざまな理由があろう。だからといって放置しておいていいはずがない。トランプ大統領が選挙に使った宣伝文句のパクリに過ぎない「都民ファースト」などと虚言を吐く知事は、この実態をご存知だろうか。
 
 


 医師に近いパラメディック
 
    このような状況は海外ではどうなっているのか。たとえばドイツの場合、16州のすべてに「救急法」があり、それぞれに救急治療着手までの時間を定めている。「できれば10分以内、最大15分以内――目標95%」「原則として15分を超えてはならない」「原則12分、最大15分」「原則14分、へき地17分――目標95%」といった具合である。 
 つまり救急治療着手までの時間を法規で定めており、全体としてほぼ15分が制限時間になっている。これにより、やや古いかもしれぬが、2005年の実績はドイツ全体で15分以内の治療開始が84%、20分以内が94%、25分以内が97%であった。
 スイスも同じく、15分以内を基準にしている。といって4,000m級の高峰連なるヨーロッパ・アルプスの国である。山の上や谷の奥へ救急車がそんなに早く走ってゆくことはできない。そこでヘリコプター救急ということになるが、日本の九州と同じくらいの国土面積に13機のヘリコプターを置いて、山でも谷でも全国どこでも15分以内に医師を乗せたヘリコプターが飛んで行ける時間距離を考えて配備されている。
 イギリスでは救急治療開始までの「レスポンス・タイム」が8分。むろん間に合わぬこともあろうから、達成目標75%という緩和条件がつく。それでも、この基準は単なる建前ではない。その運用はなかなか厳しく、かつてイングランドやスコットランドと並ぶウェールズ地区で8分以内の治療開始が5割に達しなかったため、医療厚生担当の行政長官が辞任に追いこまれたこともある。
 ちなみにイギリスとアメリカはパラメディック(救急救命士)でも、救急に関しては医師に近い医療行為が認められている。無論そのための教育訓練も医師に近い。したがって救急車に乗ってきたパラメディックが現場に到着すれば、その場で治療を始めることができる。
 ロンドンの救急本部で見ていても、パラメディックが救急車ばかりでなく、オートバイや自転車の荷台に医療器具や医薬品を積んで出動する。これで現場に着くや直ちに治療を始めることができる。逆にドイツやフランスなどの大陸諸国は、パラメディックの医療行為を認めていない。その代わり医師が救急車に乗って出動する。
 
 

 矛盾した救急医療体制
 
    イタリアの救急治療着手は都市部8分以内、山村部20分以内と定められている。国の地勢は、北部にアルプスが迫り、長靴の形をした半島には背骨のようにアペニン山脈が連なる。そうした山の中でも20分以内に救急治療を始めるためにヘリコプターが多く使われる。そのうえミラノのような市街地でも、着陸できなければ医師が現場上空からホイストで降下することもある。
   
イタリア北部のロンバルディア州を担当する救急ヘリコプターAW139。
コモ湖近くに拠点を置いて、今出動するところ(2016年夏)
 
 他方アメリカでは、全国的な法規はないけれども、消防協会がパラメディックの現場到着8分以内、達成目標90%と呼びかけている。さらにシアトルには「777ルール」があって、パラメディックは7分以内に現場に到着し、7分で現場治療をおこない、最後の7分で患者を病院へ送りこむことになっている。
 日本には何故かこうした基準や規定がない。それでも救急車だけはほぼ8分で現場に到着し、国際的な水準に達している。しかし悲しいかな、救急救命士にはほとんど医療行為が認められず、救急車にも医師は不在という矛盾した体制になっている。結果として救急患者が治療を受けるまでの時間は、119番の電話をしてから全国平均40分という恐ろしいことになってしまった。これでは救われる人も救われないであろう。
 
   (西川 渉、月刊「航空情報」2018年6月号掲載)

 
 
「救急ヘリコプターで搬送してきたら、
あんまり速いんで、まだ
屋根から落ちたときのまんまの恰好です」







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