<空飛ぶ救命室⑤>
救急飛行のCRM


CRMはエアラインの安全確保という観点からはじまった。それが今や、航空界全般はもとより、医療の世界を含めて、さまざまな分野でおこなわれるようになった。その重要性は救急飛行についても例外ではない。



(2018年8月号)


きっかけはポトマック川の事故
 
    1982年1月、凍てついたワシントン・ナショナル空港をエアフロリダ90便のボーイング737旅客機が飛び立った。ところが高度100mほど上昇したところで降下に転じ、そのまま1キロ半ほど先の橋に衝突してポトマック川に突っこむ。原因は機体表面と翼面に貼りついた雪と氷。副操縦士は離陸滑走中に計器の異常に気がついて声をあげたが、機長は「分かっておる」と答えただけで助言を無視、そのまま離陸操作を続けた。
 このため旅客機に乗っていた79人中74人と、橋の上の車7台の中にいた4人が死亡した。さらにエアフロリダは経営が悪化して2年後に倒産する。
 その後、この事故をきっかけとして、パイロット訓練にCRMが取り入れられるようになった。CRMとは何か。本誌の読者には改めて説明するまでもないが、Cockpit Resource Management の略。cockpit は操縦室、resource は資源または財産、managementは管理とか経営の意味で、合わせると操縦室の人材管理といった意味になる。
 操縦室には旅客機の場合、機長、副操縦士、航空機関士などが乗り組んでいて、これらの技術者、すなわち人材が航空機をうまく安全に飛ばすための資源とみなされる。したがってCRMは航空機を操縦する上での人材活用といえよう。
 ところが、エアフロリダ機の機長は、副操縦士が計器の異常に気づいたとき、その助言を無視して離陸を中止しようとしなかった。そのために事故が起こったわけだが、これを「権威勾配」という。つまり機長と副操縦士というように、めいめいの立場に上下関係があると、上の人は下の人の意見を聞こうとしない。あるいは自分の意見を下の人に押しつける。
 実際にも当時、機長と副操縦士が乗り組む旅客機の事故は、機長の操縦していたときに発生することが多かったほどである。
 
 
 CRMの意義拡大
 
    このCRMのCを cockpit から crew に置き換えると、客室のキャビン・アテンダントなども含まれることになる。つまり航空機に乗り組んでいる乗員の全てを合わせた人材活用の意味に広がる。
 ドクターヘリでいえば、ドクターやナースをも含む意味になるが、そこに乗り組んでいるパイロットや整備士を運航クルーと呼び、ドクターやナースを医療クルーと呼んでいる。そして2種類のクルーが一体となって任務の遂行と飛行の安全をめざす。つまり、クルーの人材活用ということになろう。
 しかし航空機の安全を確保するには、クルーだけではまだ不充分。ヘリコプター会社や病院などの地上で働く人々も飛行の安全に留意しなければならない。地上職だからといって、自分たちは飛ぶこととは関係ないなどと思っていては、ドクターヘリの安全を保つことはできない。これが corporate resource management である。
 さらに下表のように考え方を広げてゆくと、Cという文字は community(地域社会)とか city にまで広がる。たとえばロンドンは混雑した大都市でありながら、市街地の至るところに救急ヘリコプターが着陸し、その場で開胸手術をおこなうなど、大胆な治療にあたっている。そんな路上の手術を、1日に2回も3回もすることがあるというから、ロンドン市当局を初め、消防、警察、そして一般市民までが、いかにヘリコプター救急について理解し協力しているかが推察できる。
 実際ロンドン・ヘリコプター救急は、ほとんどが市民(citizen)の寄付金によってまかなわれている。市民も、この事業は他人事(ひとごと)ではなく、市民による市民のための事業と考えているに相違ない。
 さらにCRMのCはcountry(国家)にまで拡大される。事実、安全施策が不充分な国は旅客機を他国へ飛ばそうとしても、相手国から乗り入れを拒否される例も少なくない。旅客機の相互乗り入れのための航空交渉は、単に経済的、行政的、政治的な問題ばかりでなく、航空の安全が不充分とみなされる国の旅客機は、たとえば欧州のEU諸国にも乗り入れることができないほどである。
 
 



 救急飛行の人材活用
 
    こうしたCRMを直接ヘリコプター救急に結びつけたのがAMRM(Air Medical Resource Management)である。文字通りの「航空医療人材活用」で、これにより救急飛行の効果と安全を高めていこうという考え方にほかならない。その実行のための訓練要領をマニュアル化したのが米FAAのAdvisory Circular(2005年)である。
 それによると、救急飛行にたずさわる組織の全職員が訓練の対象になっていて、パイロット、整備士、医師、看護師、救急隊員、運航管理者その他の地上支援者など、職種の異なった人材が一緒に同時に訓練を受け、お互いの職務内容を理解し合うことが重要とされている。
 その上で実務にあたっては、朝夕の待機任務の開始と終了の都度、関係者の全員が集まってブリーフィングをおこない、相互に問題点を出し合って解決策を確認する。これによって異なった職種の間の相互理解と協力態勢が強化されることになる。 
 ここで銘記しなければならないのは、患者には全く選択権がないということ。患者は、いつどこで、どんなヘリコプターで救急搬送をされるか、自分では選ぶことができない。
 すべては偶然に始まるわけだが、その偶然の結果が危険な事態につながってはならない。そのために関係者の全員が緊密に協力し合って、万全を期することがあらゆる意味のCRMにほかならない。
 
   
ロンドンのせまい路上に着陸できるのも市民の理解と協力のお蔭
 
  (西川 渉、月刊「航空情報」2018年8月号掲載)
 
 
 










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