<空飛ぶ救命室⑦>
ナースのお仕事


 日本のドクターヘリにはドクターのほかにナースも乗り組んでいる。多くの人があこがれるフライトナースだが、その任務と苦労はどんなものだろうか。



(2018年10月号)


国境を越えても
 
    いつぞや、もう10年ほど前のことだが、アメリカ東部の大きな病院を訪ね、ヘリコプター救急チームの待機室で話を聞いたことがある。そのとき気がつくと、フライトナースの1人が米語ではなく、英語をしゃべっている。 イギリス人の英語はアメリカ人のそれ――米語とは発音や言葉の調子が違うのである。
 そこで出身を訊くと、やはりイギリスからきたという。理由は、自分はフライトナースになりたかったが、同じナースでもイギリスにはフライトナースという仕事がない。だからアメリカで働いているのですと。
 なるほど、フライトナースとは国境を越えて移住したくなるほど魅力的な仕事らしい。日本でも早くからドクターヘリを運用している千葉北総病院で、筆者が結腸ガンの切除手術のために3週間ほど入院したとき、担当してくれた外科病棟のナースが目の前で飛んでいるドクターヘリを見ながら「私もあのヘリコプターに乗りたくて、この病院に就職したんです……でも、希望者が多くて、なかなかフライトナースにしてくれない」と不満げにつぶやいた。
 とはいえ、希望者が少なければ誰でもフライトナースになれるわけではない。先ずは地上の救急ナースとしての経験が必要だし、性格の面でも興奮しやすい人や慌て者はむずかしい。ただし、この人が慌て者というわけではない。人事というものは複雑であり、いろいろな都合があって―理屈通りにはいかないのである。
 話を戻すと、アメリカ東部の救急チームにいたフライトナースの別の1人は、この人は人なつこいアメリカ人だったが、自分の机の上から何冊かの本を持ってきて見せてくれた。空力や航法や気象の専門的な教科書である。ページをめくると、あちこちに細かい書きこみがしてあり、熱心な勉強の跡が見られる。こちらが怪訝な顔をすると、ナースでも「飛行任務に就く者は、看護学ばかりでなく航空学についても講義を聴き、勉強するんです」という。
 
 
 諦めてはならない
 
    ところがパイロットの中には、医療クルーのそうしたなまじっかな知識は、却って操縦上の判断に不信感を持たせるなどの弊害をもたらすと考える人もいるとか。無論これは偏見というもので、間違いである。
 筆者に教科書をみせてくれたフライトナースも、初めてこの救急チームに入って来たとき、自分はナースとして一人前のつもりだったという。ところが、先ず教えこまれたのは航空に関することばかり。たしかに「救急ヘリコプターに乗務するには、ドアの開け方や安全ベルトの締め方ばかりではなく、航空全般についても充分に知っておかねばならないのです」。
 しかも座学だけで修了というわけにはいかない。当分の間は先輩クルーの見習いとしてヘリコプターに同乗し、いわゆるOJT訓練を受ける。そうした訓練を受けているうちに徐々に飛行クルーの一員という自覚が出てくるのだ。といって、パイロットの技倆を云々するわけではない。自分たちはパイロットではないし、操縦に口をはさむには限界がある。
 むしろ相手の仕事を知れば知るほど、その専門業務を相互に尊重するようになる。相手のことを知って、なおかつ尊重する――これこそが「相互理解」というものであろう。医療クルーの航空に関する知見が増えれば増えるほど仕事もうまくゆき、安全性が高まるに違いない。
 救急飛行は早朝から日没まで、アメリカの場合は夜間も、不意の出動要請を待って待機していなければならない。そして、いざとなれば、患者の容態や現場の位置など具体的な内容も分からぬまま、数分でヘリコプターに乗りこみ離陸する。
 そんなときクルーたちはアドレナリンが体中を駆けめぐるのを感じる。といって興奮し過ぎてはならない。救急現場に向かうフライトナースは病院の手術室に勤務するナースとは異なる。むずかしい問題にぶつかったときも、誰かに頼ったり相談することはできない。危険の迫った患者を前にして、冷静に落ち着いて、いま何が重要か、何をすべきかを咄嗟に判断しなくてはならない。
 あるフライトナースはいう。「私の忘れられない患者の1人は全身やけどの小さな女の子でした。細い苦しそうなうめき声で何か言ってるようでしたが、よく聞き取れません。私は一瞬これはダメかと思いました。しかし考えられる限りの手当を続けた結果、女の子は命を取り留め、今では学校へ通えるようになりました。あの子の治療を途中で諦めないでよかったと思います。いいえ、私たちはどんなときでも諦めてはならないのです。神様が『この子は死んだ』というまでは……」
 そのナースの表情は、まことに誇らしげであった。
 
 

米スタンフォード大学の救急ヘリコプターに乗りこむ2人のフライトナース
ヘルメットの下になびく金髪がまぶしい



 家族への対応も重要
 
    日本のフライトナースも連日、困難な状況の中で仕事をしている。単にドクターの手助けをするばかりでなく、独立した立場で仕事をこなしていかなければならない。
 そのための基本条件はナースとして一通りの資格を持つと共に、5年以上の経験、うち救急ナースとして3年以上の経験をもっていること。そして現場ではドクターの治療処置を介助し、医療器具や医薬品を管理するのはもちろん、駆けつけてきた救急隊員と連携するほか、患者を心配する家族へも対応し、精神的な介護に努めるといった役割を果たす。
 さらに災害の規模が大きく、傷病者の多い現場では、ドクターの指示のもとに医療行為にもあたる。また他県から応援にくるドクターヘリとの間で相互の調整もおこなう。
 そのうえフライトナースには、飛行前の医薬品や器具の整備と管理、飛行中の患者の看護、飛行後の記録の整理など、休む暇のない業務が課せられている。
 もうひとつは仕事の舞台が航空という分野である。とりわけ救急飛行は正規の飛行場やヘリポートではない不整地の現場で離着陸しなければならない。そんなときフライトナースは運航クルーと一緒になって周囲の障害物を見張り、問題があれば声を上げることにもなる。
 人の命を助けに行って自分が命を落とすようなことがあってはならない。それだけにフライトナースの仕事は、救急飛行チームの他のクルーも合わせて、やり甲斐のある高貴な任務ということができよう。
 
   
搬送されてきた患者をドクターヘリから降ろす
 
  (西川 渉、月刊「航空情報」2018年10月号)
 
 
     
 






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