<日本の航空100年>

ヘリコプター事業の開発と展開

 

 今から7年ほど前、2010年秋に((財)日本航空協会から刊行された『日本の航空100年』という大部の本に書いたものを、ここに記録しておきたい。

奇蹟を演じるヘリコプター

 筆者がヘリコプター界に入ったのは今から半世紀前、事業としてはまだ揺籃期にあった頃だが、当時は関係者の誰もがヘリコプターこそは神の申し子であるかのような思いで、新事業の開拓に情熱を注いだ。いずれは、この申し子が奇蹟を起こすに違いない、と。

 民間事業の分野では、多少の例外を除いて、小型ピストン機ベル47(2〜3人乗り)が主力をなし、水田の農薬散布が緒に就いたばかりだった。背景には農業の近代化をめざす国家戦略があり、その尖兵としてヘリコプターも人も早朝から白い薬剤にまみれ、全国の田んぼを飛びまわり、米の増産と農作業の労働力軽減に奇蹟のような成果をあげていた。

 これより先の1950年代末、関西電力黒部川第四発電所の建設工事に際しては、朝日航空(現朝日航洋)のベル47が北アルプスの谷間を2年半にわたって飛びつづけ、資材・燃料・食糧の運搬、人員の往来、そして何よりも傷病者の搬送に、当時としては考えられないほどの威力を発揮した。

 というのも、この黒四ダムは総数171人という殉職者を出した難工事で、工事現場に近い大町に常駐したヘリコプターは、契約が始まった最初の半年間に16回の急患輸送をしている。

 切り立った断崖につくられた8メートル四方のジャンプ台で、複雑な乱気流の中、羽布張りのローターブレードを懸命に回すベル47で離着陸を繰り返すなど、今ではとうてい考えられない危険な飛行であった。それが、うまくいったのは奇蹟としか言いようがないが、しかしついに宮台英一操縦士と吉田英雄整備士という2人の犠牲を払わねばならなかった。

 神は奇蹟を起こすけれども、生贄をも求めるというべきだろうか。

伊勢湾台風の忘れられた奇蹟

 黒四ダムの飛行が終わって間もなく、これは民間機ではないが、ヘリコプターの能力を最大限に生かした奇蹟が起こる。1959年秋の伊勢湾台風のときであった。

 紀伊半島に上陸した暴風雨が記録的な低気圧となって伊勢湾を襲ったとき、ちょうど満潮時と重なって観測史上空前の高潮となり、海岸の堤防が決壊して大洪水が発生する。

 死者・行方不明者は、愛知県と三重県を中心に5千人余。負傷者4万人、被災者153万人という未曾有の被害となった。このとき、日本に駐留していたアメリカ軍と発足まもない自衛隊のヘリコプターが出動し、洪水のために濁流の中に取り残された人びと約5千人を救出したのである。

 そのもようを名古屋市の『伊勢湾台風災害誌』は特筆すべき事項として、数字はやや異なるが、「陸・海・空自衛隊ヘリコプターおよび米軍ヘリコプター(陸・海・空軍および海兵隊)が10月2日前後に実施した計40機による孤立被災者7千人の救出避難作業であろう」と書いている。

「最も顕著なものは、米第七艦隊と極東空軍の活躍で……空母ケアサージ号と空軍派遣のヘリコプター部隊は被災の翌朝から数週間にわたり、優秀な機動力を駆使して人命救助・医療・救急物資の輸送などに昼夜をわかたず協力、緊急事態収拾のため大きな功績を残した……」

 おびただしい死者の数とヘリコプターによる救出数がほぼ同じであることから、もしヘリコプターの奇蹟がなければ死者は2倍に達したかもしれない。

 次の奇蹟が演じられたのは、それから5年後の1964年夏、朝日ヘリコプター(株)のシコルスキーS-62による富士山頂気象レーダーの設置工事である。このとき神田真三機長の操縦するS-62は、直径9メートル、重さ600キロの鳥かごのような形をしたレーダードームを吊って4千メートル近い高度まで上昇、あらかじめ造成してあった山頂の土台の上に寸分の狂いもなく、鳥かごを据えつけた。

 この工事は前年夏から続いていたもので、のちに1966年のことだが、イギリスBOACの旅客機を一瞬にして空中分解させるような乱気流の危険を冒して達成された奇蹟である。

 このもようは、やがて新田次郎の小説『富士山頂』となり、NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX]の第1回放送でも取り上げられ、長く人びとの記憶に残ることとなった。

物資輸送と石油開発

 さて、ヘリコプター初期の働きぶりを、ここまでは「奇蹟」という言葉で書いてきたけれども、もとより、これらはそんな神がかりの文字だけで片づけるわけにはいかない。外見ではそう見えても、実際は黎明期のヘリコプター事業を何とかして軌道に乗せたいという人びとの情熱から発した気力と知力と能力によって実現したものである。

 1960年代、農薬散布によって裾野を広げたヘリコプター事業は、富士山頂の成功によって広く認識されるようになり、70年代改めて建設工事の分野に歩を進める。送電線の建設が主な仕事で、山の尾根伝いに延々何百キロもつながる高圧送電線を敷設するため、麓の基地から建設用の資機材や生コンをピストン輸送する仕事である。

 それまで、山中の工事は牛馬、人肩、索道などで資材を上げていた。それをヘリコプターに変えたことで、短期間に大量の物資輸送が可能となり、工期は従来の半分もしくは3分の1に短縮された。これで電力会社の投資効果は大きく向上し、ヘリコプターのすぐれた有効性が称揚された。

 当初は搭載量1トン程度のヘリコプターが使われたが、やがて3トン積みの大型機が導入され、条件によっては5トン近い吊り上げ能力を発揮するようになって、電力の増強に大きく貢献した。

 こうしたエネルギー供給の基盤整備が必要になったのは、わが国の経済成長に加えて、もうひとつ1973年と78年の二度にわたる石油ショックのためである。中東の産油国が原油の輸出を制限し価格を上げたことから、原子力発電の必要性が高まり、遠隔地で発電した電力を大都市まで送る高圧送電線の建設工事が進んだのである。

 石油ショックから立ち直るため、電力の増強に平行して、日本列島周辺の大陸棚では新たな石油資源の探査が始まった。結論的にはさほど大きな油層は見つからなかったが、長崎沖、対馬沖、新潟沖、磐城沖、秋田沖、釧路沖などで石油の試掘作業がおこなわれ、掘削リグと陸地とを結ぶ人員輸送にヘリコプターが使われた。

好機となった石油危機

 余談ながら海底油田の開発支援飛行は、世界のヘリコプター事業における最も重要な基盤である。メキシコ湾、アラビア湾、北海、そして東南アジアの海底に埋蔵された石油と天然ガスの開発に、ヘリコプターは欠かすことができない。

 というのは海岸から数十キロ、最近では200キロの沖合でおこなわれる洋上の掘削作業は、大規模な工事現場にも似て、きわめて危険な仕事である。しかも昼夜を分かたず続けられるので怪我人も多く、長期にわたって洋上の作業をしているうちには病人も出てくる。このような傷病者を、昔は船で陸地の病院へ搬送していて手遅れになることもしばしばだった。

 そのため海上の掘削現場に近い陸地にヘリコプターを待機させ、傷病者が出たときは直ちに迎えにゆく態勢が取られるようになる。むろん緊急時には夜間も飛ぶ。さらに、どうせ待機しているならばというので、石油技術者の往来や作業員の定期的な交替にもヘリコプターが使われるようになった。そのうえ長距離の洋上飛行であることから計器飛行も導入し、技術的には一種の定期旅客輸送に発展した。

 日本でも是非これをやりたいというのがわれわれの願いで、筆者もメキシコ湾や北海の石油プラットフォームを見学にゆき、小さなヘリコプターで遠い洋上へ飛んだりした。けれども、日本の周辺には石油が出ない。わずかに秋田沖数キロのところで細々とした採掘がおこなわれているだけだった。

 そこへ1970年代、石油ショックが起こって、にわかに石油開発が計画されるようになる。それが前述の各地でおこなわれた試掘作業で、石油公団はもとより、欧米からもシェル、ガルフ、エクソンなどの石油メジャーが乗りこんできて盛んに試掘をしたものである。

 これらは結局、ほとんどが空井戸に終わったが、ヘリコプター会社にとっては長年の夢を一時的にも実現させることになった。

 皮肉なことに、石油ショックは日本の経済活動を混乱させ、航空界にも燃料不足や価格高騰といった悪影響を及ぼしたが、ひとりヘリコプター事業にだけは却って好機をもたらしたといえるかもしれない。

海外進出と旅客輸送

 石油ショックはヘリコプター事業の海外進出も実現させた。日本近海の石油埋蔵量が乏しいことから、石油公団の資金と主導でアジア各地の油田開発が試みられた。

 各国政府と日本との合弁によって、インドネシア石油、ビルマのアラカン石油、バングラデシュのベンガル石油、アブダビ石油、イラン石油などの開発企業が設立され、さらに韓国、台湾、フィリピン、マレーシア、中国などで石油開発が盛んになる。

 これらのプロジェクトは資金の大半が日本から投じられたものだが、基本的な権益は相手国の方が強く、ヘリコプターの契約も日本の考え方だけで終わるわけではない。そのため契約獲得にあたっては米ペトロリアム・ヘリコプター(PHI)、英ブリストウ・ヘリコプター、カナダのオカナガン・ヘリコプターなど、当時の世界3大ヘリコプター事業会社などと直接競争になることも多かった。

 筆者は、しかし、現地で競争しながら逆に彼らと親しくなることもあって、共同運航や合弁会社なども実現した。結局、日本からヘリコプターを持ちこみ、相手国にとっても国家プロジェクトということから日本国籍の機体やパイロットの飛行許可を得て運航できたのは韓国、インドネシア、フィリピン、台湾、バングラデシュ、中国、マレーシアの7ヵ国である。

 これらの仕事は、当然のことながら、日本の開発投資が終わると共に終了し、1980年代後半から国内の景気が一挙に高揚し、円高が進むにつれて採算も難しくなり、引き揚げることになった。

 こうした石油開発のための人員輸送は、上述のように旅客輸送の基礎を習得する結果をもたらした。そこで1985年春から秋にかけて茨城県つくばで開催された科学万博に際し、東京から会場までのヘリコプター旅客輸送が半年間、実験的におこなわれた。

 その結果、翌年には運輸省がかたくなに拒んでいたヘリコプターの定期旅客輸送が解禁となり、1988年から成田〜東京ヘリポート〜羽田間の旅客輸送、シティエアリンクの運航が日本航空と朝日航洋との合弁で始まった。ほかにも各地の交通不便な地域でヘリコプター旅客便の運航が試みられ、伊豆6島を結ぶ東京愛らんどシャトルだけが今も続いているが、ヘリコプター旅客輸送の詳細は、本書別稿に譲ることとしたい。

なぜヘリコプターを使わないのか

 1980年代の好景気が泡のように消えたあと、神戸淡路付近で起こった大地震が日本中を震撼させた。1995年1月のことである。このとき激しく燃え上がる神戸上空を多数のヘリコプターが飛んだが、報道取材機がほとんどで市民の怒りを買った。

 伊勢湾台風の例でも見たように、ヘリコプターはこういう災害時にこそ活躍するはずだった。しかるに何たることか、市内の火災を消すこともなければ、がれきの中のけが人を搬送することもなく、政府も学者も何故ヘリコプターが使えないかを弁じ立て、言いわけに終始した。

 しかし新聞の投書欄には、炎上する神戸上空を騒音と共に飛び交うヘリコプターを見て「あのヘリは何しとんや。行ったり来たりするなら海から水くんででもまかんかいな。けが人のせて大阪まで運んだれや。用もないのにうろうろすな!」という悲痛な声が掲載された。地震から間もない2月1日付けの朝日新聞である。

 ふたたび余談になるが、取材記者の目の前で人が溺れているとき、記者は水中に飛びこんで助けるべきか、そのまま写真を撮り続けるべきかという昔からの問題がある。おそらくは記者たるもの事件の渦中に入らず、一歩離れて冷静に取材を続けるべしという報道関係者が多いのではないか。

 しかし人間として内心忸怩たるものがあるとすれば、2005年ニューオリンズを襲ったハリケーン・カトリーナのとき、被災地上空が飛行禁止となった中で、唯一代表取材を認められたヘリネット社のヘリコプターが取った行動を知るべきであろう。この小型単発機に、取材陣はカメラと一緒に非常食を積みこみ、洪水の中に孤立する人びとを取材しながら手渡していったのだ。

 日本では大災害が起こると、消防防災機ですら人を助ける前にテレビ・カメラを積んで現場の状況を撮影する。これを称して「ヘリテレ」という下手な用語があるそうだが、救助のためには先ず情報収集などとという屁理屈は、阪神大震災に出遅れた言いわけか、そうでなければ高見の見物というほかはない。

ドクターヘリ事業の誕生

 その言いわけがまさったせいか、阪神大震災の後もなかなか人命救護の方策は進まなかった。実は地震の半年前、このことあるを見越したかのように、日本エアレスキュー研究会が発足した。1994年夏のことで、救急医、看護師、救急救命士、そしてパイロットや整備士を含むヘリコプター関係者の集まりである。筆者も発起人の一人として、欧米諸国で日常的におこなわれているヘリコプター救急を日本に実現させたいという目的に向かって活動を開始した。

 この会は、のちに日本航空医療学会と改称したが、その運動は阪神大震災の後もなかなか取り上げられず、政府がようやく重い腰を上げたのは1999年、「ドクターヘリ調査検討委員会」が内閣府の内政審議室を事務局として設置されたときであった。

 その委員会の結論によって、ドクターヘリ事業は2001年4月、まさしく21世紀最初の年から正式に発足した。そのときの政府の配備目標は5年間で30機というものだったが、思いのほかに普及しなかったのは、ヘリコプターの運航費を国と地方自治体が半分ずつ負担することになったためであろう。

 財政難の自治体が新たなヘリコプターの導入に二の足を踏んだからで、8年たった2009年4月現在のドクターヘリ拠点数は18ヵ所である。

 しかし今、2007年7月に「ドクターヘリ特別措置法」が制定され、08年7月「骨太の方針2008」にドクターヘリの整備促進がうたわれ、同年11月には「ドクターヘリ推進議員連盟」が発足、2009年3月からは「特別交付税」が実施されるなど、ドクターヘリ普及のための基盤が急速に整備されてきた。

 この特別交付税は、地方負担分の半分以上を国が出すというもので、実質的な普及促進策となることは間違いない。厚生労働省は2009年度末までに全国24ヵ所の配備を予定しており、この趨勢からすれば2010年度末には30ヵ所に達するであろう。これで、2倍の期間を要したけれども、当初の目標が実現するわけである。

 その効果は、医師の不足、医療施設の閉鎖、救急車の受入れ拒否など、救急医療の危機的な現状を補完するばかりでなく、地上救急にくらべて死者を半減させ、社会復帰を倍増させる結果となるであろう。

 そうなると30ヵ所では不十分で、各都道府県に1ヵ所ずつとしても50ヵ所、理想的には2ヵ所ずつが望ましいところだが、ここに新たなヘリコプター事業が誕生することになる。

ヘリコプター事業の半世紀

 最後にもう一度、ヘリコプター事業の半世紀を整理しておこう。航空事業は顧客から飛行料金を貰って実施するものである。したがって安全性の高い商用民間機でなければならない。その民間ヘリコプターが史上初めて誕生したのは1946年5月8日、アメリカのベル47Bにヘリコプター初の型式証明が交付されたときであった。

 これで同機の量産が始まり、同年末量産1号機が出荷された。用途は農薬散布だったと伝えられる。

 日本に民間ヘリコプターが入ってきたのは、戦後7年の空白期間を経た1952年、産経新聞社が輸入したヒラーUH-12Bで、宣伝飛行や取材飛行に使われた。これは航空事業とはいえないが、当時の航空再開を受けて多数の航空会社が設立され、ヘリコプター事業も始まった。

 そのヘリコプター事後会社の一つが全日空(ANA)の前身、日本ヘリコプター輸送(日ペリ航空)である。1952年末にベル47D-1を買い入れ、翌年から事業に乗り出した。最初の事業は企業の宣伝飛行で、ヘリコプターの当時としては珍しい飛行ぶりを見せながら全国各地で航空教室などが開かれた。

 そして早くも、九州電力の鉄塔建設に使われたりして、日ペリの47Dは1年間で4機に増えた。また東北電力は英ウェストランド・シコルスキーS-51を自家用機として購入し、送電線巡視に使い始めた。これにならって東京、中部、関西、九州、北海道の各電力会社もヘリコプターで送電線の保守点検をするようになり、ヘリコプター事業の安定需要となった。

 1955年からはNHKが日ペリのヘリコプターをチャーターして取材に使い始めた。すると他の民放テレビ局も同じ年間固定契約でヘリコプターを使い、安定した事業基盤を形成した。

 広域の農薬散布が始まったのも1955年である。当初は北海道の風倒木が対象だったが、58年に神奈川県の水田散布がおこなわれ、その成功によって翌年から全国に広がり始めた。そのため農林省は1960年から指導と調整に乗り出し、散布料金も一律に定められ、69年のピークに向かって急成長を遂げた。一時は全国の水田の3分の1が空中散布を受けるなど、ヘリコプター事業の重要な基盤となった。

 1970年代は送電線建設を中心とする山岳地の建設協力が伸びつづけ、ヘリコプター事業の基盤強化と規模拡大をもたらした。併せて日本周辺の海域で油田探査も盛んになったが、大規模資源の発見はなく、諸外国に見られるような恒久的なヘリコプター事業とはならずに終わった。

 1980年代は、景気高揚の時期にあって、ヘリコプター数も急増した。1991年末には運輸省の登録数が1,201機の最高に達したが、これは81年の2倍以上にあたる。つまり10年間で2倍になったわけで、そのうち事業機は500機前後、警察、消防、海上保安庁などの公用機を除くと、半数近くが自家用機であった。

 それが10年後の2001年末には930機まで減少した。減少機のほとんどは自家用機で、中古機として国外に売却された。日本の中古機は手入れがゆき届き、信頼できるというので評判が良く、この時期「日本は世界最大のヘリコプター輸出国」などと揶揄された。いわゆる「失われた10年」はヘリコプターについても例外ではなかったのである。

 そして21世紀に入ると、ドクターヘリという新しい事業が始まった。これまで農業やエネルギー増強など主として産業界に尽くしてきたヘリコプターだが、これからは救急医療の現場で人命救護という人間的な奇蹟を演じつづけるであろう。 

(西川 渉、『日本の航空100年』、2018.2,23)

   

 

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