よみがえれ、航空ジャーナリズム

――『エアロスペース・ジャパン』への鎮魂歌――

 

 いま日本は激動の時代を迎えつつある。さまざまな制度が変わりはじめ、経済界には不況の嵐が吹き荒れ、企業の倒産が多くなり、失業者が増えた。政府の経済政策と景気対策の失敗に対する怨嗟の声も聞こえてくる。

 航空界もむろん例外ではない。運輸政策審議会は先頃、航空運送事業の規制緩和を一挙に推し進める答申を出した。これから数年間、業界は「航空ビッグバン」の激しい爆風にさらされることであろう。

 その激浪の中で、舵取りは誰がするのか。もはや護送船団は解散し、めいめいが勝手に走るというのが規制の撤廃である。とすれば船団をまとめるものはいなくなり、どこへ向かって走ればいいのか、誰も教えてはくれないし、待ってもくれない。中には難破したり沈没したりする船も出てくるであろう。

 だが、こんな波乱の時代こそ、ジャーナリストにとっては活躍のチャンスが増えるときではないだろうか。いまこそ第4の政府とまでいわれるジャーナリズムの出番である。航空界に対しても何らかの示唆をすることができるのではないか。

 そんな時機に当たって本誌が休刊になるというのは、またどうしたことか。まことに残念というほかはない。 

 

日本の航空界は二流以下 

 先日ある航空関係者と話をしていて、日本の航空界は世界的に見て二流ではないかといったところ「いや、三流ですよ」という答えが返ってきた。少なくとも一流でないことは意見が一致したが、なぜ二流以下に甘んじなければならないのか。

 あの話合いから出てきた第1の理由は、日本人の多くが航空といえば大手エアラインしか考えていないことである。航空機は、いうまでもなく旅客機ばかりではない。軽飛行機もあればヘリコプターやグライダーだって航空機である。それをほとんど無視して、航空法の上では例外扱いですませてしまう。

 ジェネラル・アビエーションを一人前の航空とみなしていないところから何が起こるか。大手の定期航空だけが細い一本の棒のように屹立するだけとなってしまった。山が高ければ高いほど、裾野は広く厚く、そびえ立つ峰を支えなければならない。にもかかわらず、裾野がないところに規制緩和の激しい風雨が吹きつけはじめた。このままではアリゾナ砂漠の岩山のように、足もとが垂直に削り取られていくほかはない。いずれ頂上だけが大きく残り、倒れてしまうかもしれないのだ。

 日本の航空界が二流か三流であることの第2の理由は、航空工業界が自衛隊機だけをつくり、長年にわたって米メーカーが開発した軍用機のライセンス生産だけをしてきたことである。結果として、自衛隊機の調達が少なくなったために、あとはアメリカの下請けに甘んじざるを得なくなった。これでは欧米先進国はもとより、独自の航空機を開発しているブラジルやインドネシアにも及ばないではないか。まさに三流国というほかはない。

 理由の三つめは、航空ジャーナリズムの不出来である。政治、経済、金融に限らず、どんな分野でも世界の一流である蔭には、その背景にしっかりしたジャーナリズムが存在する。そして真正面から批判を浴びせ、同時に建設的な意見を出すことによって業界のあり方に警鐘を鳴らし、前途を照らす。その点がわが航空界には欠けているのではないのか。

ジャーナリズムのあり方

 航空界の遅れを、航空ジャーナリズムの不出来などというと不遜のそしりを免れないかもしれない。しかし活字メディアは「第4の政府」とも呼ばれる。それは国民的課題の解決に必要な情報を提供できるからであり、それだけ社会的責任が重くなる。

 ジャーナリストの求めるべき情報は、目に見えない、隠された情報ばかりではない。公開された情報でも、それを細かく集め、分析をして、その上に自分の直接取材による情報を重ね合わせ、新しい問題点を見つけ出す。あるいは将来への予兆のようなものを探り当てる。

 そうしたジャーナリストの仕事をするに当たっては、高い志が求められる。なぜなら一般読者はジャーナリストの書いたものを通じて、自分が経験したことのない世界を理解しようとする。その記事によって世の中の善し悪しを考え、判断を下すことになるからである。

 その意味で、最近の新聞、雑誌、テレビがどれほどジャーナリズムとしての役割を果たしているか、大いに疑問がある。これらのメディアは単に大きいだけのマス・コミュニケーションであって、ジャーナリズムとはいえないのではないか。とりわけ最近のマスコミは、いわゆる三面記事とスポーツ・ニュースの氾濫で、ますます大衆迎合路線を進みつつある。

 これでは政治改革も行政改革もうまく行かないのは当然で、マスコミに煽られた国民は芸能人の離婚騒ぎやプロスポーツの勝負に一喜一憂するだけで、重要問題はすっかり忘れ去ってしまった。マスコミとは、もともとそういう体質ではあるのだが、政治家と官僚の愚民政策に乗ったまま、日本人の危機意識をぬぐい去り、太平楽な国民性をつくり上げてしまったのである。

 結果として、日本という国は世界一安全かつ金持ちという幻想を描き出すのに成功した。ところが実際は土地の値段だけに依存したバブル経済であり、それに惑わされた国民は成金趣味に溺れて、今も世界中に醜態をさらしつづけている。

 あるベテラン記者はいう。「ジャーナリストにとっては取材が大切。ジャーナリスト本来の重要な役割は調査報道にある。歴史上の隠された事実を掘り起こし、捜査の手が入っていない巨悪を暴く。それが使命だ」と。

 そのためにジャーナリストは視野の広い歴史家で、しかも勇気ある冒険家でなければならない。目の前の事象だけにとらわれ、断片的に見るのではなく、時間的、空間的な広がりをもって物事をとらえる。ということは、これまでの経緯がどうだったのか、これからどうなるのか、あるいは外国の事例に照らしてどうなのか。その辺りが分かるような報道が必要であろう。

本誌をふりかえる

 そうした観点から本誌をふりかえるとどうなるか。創刊は1980年だが、それ以来の記事を見ていく余裕はないので、ここでは昨年1年間の6冊を見ることとする。

 1997年はボーイングとマクダネル・ダグラスの歴史的な合併劇で幕を開けた。本誌97年1・2月号は「今月の話題から」でそれを取り上げ、巨大企業の誕生は独占禁止法に触れることは「間違いないが、クリントン政権が力を入れている米戦略産業の強化政策に沿った動きであるだけに、米政府はこの動きを支持・支援する筈である」と予測している。確かに半年後にはそうなったわけで、この見方は正しかった。

 もうひとつ、この1・2月号では「首都圏第3空港の建設を急げ」として、21世紀の新しいSSTの就航にそなえるには、水深の浅い三河湾に4,000〜5,000mの滑走路8本を持つ大空港を建設し、東京との間はリニア・エクスプレスを使って40分で結ぶという構想を紹介している。これは韓国、シンガポール、香港など東アジア各国が建設中の国際ハブ空港に対抗する戦略にもなり得るという計画である。

 実はその後も、本誌は1年間にわたってこの構想のキャンペーンを続けた。しかし壮図むなしく今年に入って、三河湾に隣接する伊勢湾の中部国際空港が具体的に動きはじめた。あの計画では将来に向かって不充分であり、費用も割高というのが本誌の主張するところであった。

 97年3・4月号では「ビジネス機の時代」を特集している。狭い日本にビジネス機は不要とか贅沢といった従来の見方はもちろん間違いだが、その間違った考え方の延長線上にあったのが成田空港や羽田空港のビジネス機乗り入れは認めないという措置である。

 政治も経済も地球規模で動くようになった現在、その関係者が世界中を飛び回るのは当然のこと。しかも東京はきわめて重要な地点である。にもかかわらず、ビジネス機を愛用する世界の政財界人からトーキョーは世界で最も行きにくい都市という烙印が押されている。

 日本へ飛来するビジネス機の受入れは、いま少しずつ開かれつつあるが、決して充分ではない。本号では、そのあたりを強く訴え、米国の主要企業74社が羽田空港への乗り入れを熱望していることを伝えている。

さりげなく書かれた嘆き

 97年5・6月号は「日本のコミューター航空」を特集している。コミューター航空の将来は明るいという見地から、全国各地に路線網を広げてきた10社の現状を丁寧に取材し、将来を展望している。この特集から1年たち、運輸政策審議会の答申によって航空事業の規制緩和が具体化してきた現在、コミューター航空の発展も促進されるであろう。やがて日本でも50〜70人乗りのコミューター・ジェットが飛び、東アジア一帯へ国際コミューター路線が開設されるにちがいない。 同じ号の「スカンク・ワークスに学ぶ」も示唆に富んでいる。3頁ですむ塗装指示書が海軍の手にかかると300頁になり、やはり3頁程度の発注書が国防省からは1,200頁の書類になって出てくる。ジョンソン大統領がRS-71をSR-71と言い間違えたために機体呼称も変更するはめになり、29,000点の公式文書を書き換えることになったというような実情がユーモラスに書いてある。官僚の石頭はどこの国でも変わらぬものらしい。

 97年7・8月号では、さりげなく書かれた「編集後記」に本誌の最も言いたいところがあらわれている。パリ航空ショーで「日本は相変わらず実機を持ちこむこともなく、晴れやかにデモ飛行するインドネシアのN-250旅客機を毎日見せられるのには辛いものがありました」と。

 かつて余りに出来が良すぎて世界中のいじめに逢ったジャパン・バッシングが今やジャパン・パッシングを過ぎてジャパン・ナッシングに変わったという嘆きである。すっかり無視されるようになったわけで、相手にされなくなった日本はこれからどこへ行くのだろうか。

 この嘆きは11・12月号につながり、巻頭で「このままでは、航空機は次世代の主要産業にはなれない」という警告が発せられている。それより前、9・10月号ではロッキード・マーチン社がノースロップ・グラマン社を吸収合併するというニュースが報じられている。同時に欧州でもメーカーの統合が進んできたという解説がある。

 にもかかわらず、日本では多くのメーカーがばらばらに存在し、航空工業審議会の会合を開こうにもメーカー3社の社長の日程が合わない。何度も調整し直してやっと会議の当日になったところ、社長さん方の出席はなかったという内幕も暴露されている。こんなことでは同じ11・12月号「航空機産業に見る日本の技術戦略」の中にある「国民が興味を持つ民間機計画」の実現も難かしいのではあるまいか。

 

不死鳥、よみがえれ

 こうして見てくると、『エアロスペース・ジャパン』は、日本はもとより、世界の航空関連ニュースに目を配り、時の話題を的確にとらえ、地道な取材によって問題点の所在を探り、わが航空界の前途を示唆する記事に満ち満ちていた。それというのも18年前、航空界の低迷は航空ジャーナリズムが弱いからという認識のもとに本誌が発刊されたからである。

 そのため、ときに人を傷つけ、人を怒らせ、恨みを買うような記事があったかもしれない。しかし、それでなくては書く意味もまたないだろうし、日本の航空界を世界の一流にするためにジャーナリズムが不要ということもないはずである。

 にもかかわらず、いま志なかばにして倒れるのはまことに残念というほかはない。わが国航空界の進歩も、これでますます遅れを取ることにならなければいいがと思うばかりである。

 将来いつの日か再び高い志を掲げて、わが『エアロスペース・ジャパン』が不死鳥のようによみがえることを念じつつ、静かに鎮魂の讃歌を歌うことにしたい。

(西川渉、『エアロスペース・ジャパン』、98年5/6月号掲載)

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