<ヘリエクスポ>

ふたりのアメリカ人

――ヒコック氏とジェンセンさん――

 

 今年2月ロサンゼルス南郊のアナハイムで開かれたHAI大会「ヘリエクスポ2005」で、2人のアメリカ人と言葉を交わす機会があった。1人はフランク・ジェンセン氏、もう1人はスティーブ・ヒコック氏である。どちらも旧知の人で、筆者がかつて主宰していた研究会で講演をしてもらったこともある。

 ヒコック氏は米陸軍でヘリコプターに乗りはじめ、沿岸警備隊に移って捜索救難ヘリコプターのパイロットとなった。ある悲劇の夜、自分自身の父親を捜索することになったが、ヘリコプターにはサーチライトしかなく、ついに探し当てることができなかった。以来この人は沿岸警備隊(USCG)の捜索にナイト・ビジョン・ゴーグル(NVG)を使うことを提唱し、USCGの中では最も早くNVGの使用資格をもったパイロットとなった。

 その後ヒコック氏は連邦航空局(FAA)に移り、GPSプロジェクト・マネジャーとなる。そして実際にヘリコプターを飛ばし、GPSを使った計器進入基準をつくって、飛行要領を設定した。地上設備を設けることなく、むろん衛星からの電波を受ける受信機は必要だが、あとは理論的に組立てた飛行要領に従うだけで、簡便、低廉、安全な計器飛行を可能にしたのである。

 当時、筆者もアトランティック・シティにあるFAAの実験ヘリポートを訪ねたり、実際にGPS進入をするヘリコプターにのせて貰ったりしたことがある。

 やがてヒコック氏はFAAを退職、みずから会社を設立して、GPS進入の設定コンサルタントとなった。そして気象条件の悪いときでも発着できるヘリポートを、次々と設けていく。大企業のビジネス用ヘリポートもあるが、ほとんどは病院ヘリポートである。それによって過去10年間に何千人もの救急患者が天候不良の中で安全に病院へ搬送された。今では全米およそ200ヵ所のヘリポートでGPS進入が可能となったが、その9割はヒコック氏の手がけたものである。

 先日のHAI大会の会場でも、わずかな立ち話の中で、自分は今ダラス・フォトワース地区19ヵ所の病院ヘリポートについてGPS進入方式の設定を進めていると語ってくれた。すでに作業は終わり、あとはFAAの承認を待つばかりという。おそらく今年冬の悪天候の季節がはじまる前に承認されるだろう。

 なお、これら19ヵ所の病院を結んで救急飛行をしているのは、今のところ有視界飛行だが、ケア・フライト社の5機のA109である。すでにダラス・フォトワース空港など近郊の計器施設のある空港ではパイロット単独の計器進入をしている。パイロットは28人。うち半数が計器飛行の資格を持ち、ヒコック氏の設定した病院へのGPS進入が承認になれば、気象条件の悪いときでも救急患者を直接病院へ送りこめるようになる。

 ヒコック氏はマンハッタンの公共用ヘリポート4ヵ所についても、GPS進入の設定を進めている。氏によれば、このマンハッタン地区は、周囲にいくつも大空港があって、非常に複雑な空域になっている。しかも人口が多いので騒音忌避の要求がはなはだしく、高層ビルという障害物も多い。したがって、ここで計器進入方式の設定に成功すれば、世界中どんなに複雑な場所でも、ヘリコプターの計器進入が可能となろう。

「今年は忙しくなりそうだ」と言ったヒコック氏は、その夜こうした独自の功績によってHAI大会恒例の晩餐会で表彰された。おめでとうといって手を出すと、何故か昼間の立ち話をしたときと違って、固い表情で手を伸ばしてきた。計器飛行のように謹直で生真面目な性格なのであろう。


晩餐会の席で表彰を受けるために立ち上がったヒコック氏

 その表彰晩餐会がはじまるのを待つ間、私はHAIの前理事長、フランク・ジェンセン氏に出逢った。白髪を短く刈り上げたせいか、顔が細くなって、妙に蒼白く感じられた。

 氏は1928年生まれ。15歳で海軍に入って爆撃機の無線通信士兼射手になった。これが1943年というから第2次大戦中のことで、日本と闘ったことがあるのかもしれない。

 戦後は改めて陸軍士官学校に入り、卒業後は朝鮮戦争にも参加した。退役したのは1970年代前半、大佐であった。この間さまざまな勲章を受け、大学で航空学の学位を取り、事業用操縦士の資格も持つ。

 HAIの理事長を勤めたのは1982〜98年の16年間。この間しばしば来日し、日本との交流を深める中で、毎年開催されるHAI大会のプログラムに「ジャパン・フォーラム」を創設した。日本のヘリコプター人が世界に向かって語る機会を設けてくれたもので、私も2〜3度機会を与えられたが、我ながら下手なスピーチで、終わるたびにもう二度とやりたくないと思ったものである。

 HAIを退いたジェンセンさんは、今度は国際ヘリコプター財団(HFI)の理事長となった。ヘリコプターの歴史を後生に伝える財団で、歴史的な文書や物品を収集し蓄積する一方、近年は「ヘリコプターの殿堂」をつくり、斯界の発展に寄与した人物を顕彰する制度をつくった。


故フランク・ジェンセン前理事長(左)とロイ・リサベッジ現理事長

 そのジェンセンさんが、あろうことか不意に亡くなった。2月12日というから、挨拶を交わしてからわずか5日後のことである。こんなことなら、もっといろんな話をしておくのだった。あのとき日本のヘリコプター界はどうかと訊かれたので、まだ低迷を脱しきれないと答えると、かつて日本を訪ねた当時の高揚期を想い出したのか、ちょっと寂しそうな顔をした。

 急逝の理由は聞いていない。ワシントンの新聞には、お供物料はガン協会に寄付するというご家族の言葉が載っていたから、やはりその病気だったのであろう。ヘリコプターを愛する人が、また1人去って行った。

(西川 渉、『日本航空新聞』2005年3月17日付掲載に加筆)

 

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