<ストレートアップ>

日本の安閑たる危機意識

  

 『モノが語るドイツ精神』(浜本隆志、新潮社、2005年9月20日刊)には、ドイツのヘリコプター救急体制を示す図が出てくる。ヘリコプター救急に関心がある者にとってはおなじみの拠点図(下)だが、一般の本に出てくるのは珍しいと思って本書を手にした。

 本の中に「アウトバーンの思想」が書いてある。その建設は1933年ヒトラーが政権を取ってわずか8ヵ月後「みずからの鍬入れによってはじまった」。翌年春には60万人の建設労働者が投入され、失業者救済に寄与しつつ突貫工事で推進された。その結果、ヒトラー時代に完成したのは、計画6,500キロのうち3,500キロ。残りの工事は戦後の西ドイツに引き継がれ、2002年現在、総延長距離12,000キロになった。

 アウトバーンは景観を重視してつくられ「森の稜線に沿って、風景を楽しみながら快適にドライブできるよう配慮された」。そこを「スピード制限なし」で「愛車を思い切り走らせると、ほんとうに爽快」だそうである。日本のドライバーの中にも、わざわざ国際免許を取って出かけてゆく人もあるらしい。

 私なんぞは自分で運転しないせいもあって、初めてアウトバーンを走る車にのせてもらったときは、手のひらが冷や汗のためにびっしょりになった。もっとも、これは40年ほど前、日本にまだ高速道路がなかった時代で、最近は慣れたのか鈍感になったのか、平静に乗っていることができる。それが良いことか悪いことかは分からない。

 アウトバーンに速度制限がないのは、ドイツ人の「ルールや秩序をきちんと守るという国民性」があるからだそうである。「ドイツ人は秩序と法を重視し、整理整頓をしていないと気がすまない国民性」を持つと本書はいう。

 しかしスピードが出ているだけに、いったん事故が起きると大変なことになる。そこで「ドイツでは、30年以上も前の1970年から、救急医、ヘリコプターと病院を連携した救急体制を実施して、死亡事故を3分の1に減少させた」という説明に移る。「これは通称ドクターヘリといわれている」というのはちょっとおかしいけれど、「日本でもドクターヘリは一部導入されつつあるが、ドイツの取組みと比較すれば格段の差が認められる」

「日本でなかなかうまくこの制度が機能しないのは、根底には危機管理に対する意識に問題があると考えられる。ドイツは人命にかかわることは、最優先に対応し、徹底して最善の体制づくりを目指すが、日本の場合、法人も自治体もヘリコプターとパイロットを常時待機させ、いつ発生するかわからない事故に対処するには、危機管理より経済性の問題を優先的に考え、決断を躊躇する。次善の策として、当面、地上における救急体制の整備をするということになる」

 大陸国ドイツは異民族が入り混じり、幾多の戦争、紛争、侵略を体験してきた。そのため事故や災害に対しても敏感に反応し、危機管理意識が高い。一方、島国の日本は危機に対してもそれほど深刻に受け止めない。「これは防衛、防犯にもかかわる、発想の相違の問題である」

 という具合に、この本はアウトバーンの発端からヘリコプター救急に至るまでうまく要約してある。


1年ほど前のドイツ・ヘリコプター救急拠点図
この1年ほどの間に2〜3ヵ所増えている。
さらに今後、北部の白紙部分(ホワイト・ホール)に
新しい拠点が設けられる予定。

 ところで、『平成17年版交通安全白書』(内閣府)には「欧米諸国の交通事故の状況」が比較表になって掲載されている。比較の対象になっているのは10ヵ国だが、全て取り上げると話がごたごたするので、米、独、日にしぼると下表のようになる。

 自動車の保有台数は、アメリカが断然多い。人口1人当りでもアメリカの0.78台に対して、ドイツ0.59台、日本0.57台である。

 これらの車が走る距離は、アメリカが多いのは当然として、日本がドイツを上回る。保有台数が多いからだが、1台当りではドイツの方がよく走っている。しかし人身事故の発生はドイツがきわめて少ない。走行距離は日本の8割余だが、事故件数は4割弱で、発生率は半分以下である。事故が少ないのは、なるほど、上の本に書いてあったように、ドイツ人のルールや秩序を守るという国民性によるものかもしれない。

 しかし、死者の割合はさほど少なくない。アメリカよりも多く、日本とくらべてもやや少ない程度である。これも上の本がいうように、アウトバーンでは速度制限がないために、少ない事故でもいったん発生すれば死亡事故になってしまうからではないかと思われる。

    

アメリカ

ドイツ

日 本

自動車保有台数(4輪車・千台)

225,418

48,408

72,665

自動車走行距離(億キロ)

44,603

6,572

7,934

人身事故件数

1,963,000

354,534

947,993

30日以内死者数

42,643

6,613

8,877

走行距離当り死者数(人/億キロ)

0.95

1.01

1.12

 そこで、問題は日本である。交通規則や速度制限をきびしく定めているにもかかわらず、この表に示されているように事故が多い。アメリカにくらべても、車の保有台数は3分の1以下、走行距離は6分の1程度なのに、事故件数だけはほぼ半分である。せまい道を人と車がごちゃごちゃに走っているからか、日本人特有の居眠り癖のせいだろうか。

 さらに走行距離当りの死者数、すなわち死亡率は白書のいう先進諸国の中で日本が最も高い。このことは前回の本欄にも書いたが、日本の死亡率が高いのは、やはり救急体制が不備だからではないのか。死ななくてもいい人が死んでいるのである。そんなギリギリの「プリベンタブル・デス」を救えるのはヘリコプターしかないはずだが、普及率は先進諸国の中で最も低い。その結果がどうなるかを、白書の統計は期せずして物語っている。

(西川 渉、『日本航空新聞』2006年1月19日付け掲載に加筆、2006.1.30)

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