人命救助の顕彰を

 

 国際ヘリコプター協会(HAI)の年次大会は、毎年ヘリコプターに関連して功績のあった人びとを表彰し、その式典を兼ねた晩餐会をもって3日間の幕を閉じる。今年も最終日の2月17日夜、合わせて13組の表彰がおこなわれた。

 この中で特に印象深かったのは、やはりヘリコプター本来の特性を示した人命救助に関する表彰である。13組中5組がそれに当たるものであった。

 その第一は「パイロット・オブ・ザ・イヤー賞」。受賞したのは米ペトロリアム・ヘリコプター社(PHI)のロバート・メイズ機長で、1997年9月18日メキシコ湾上空をベル407で飛行中のことだった。天候は小雨、高度240m。突然「バーン」という音がして機首が左に振れ、次いで右回りに旋回しながら降下がはじまった。機長はすぐ尾部ローターが故障したことに気づき、操縦桿をいっぱいに引いて機首上げをはかり、コレクティブ・ピッチを下げると共にエンジン出力も下げて旋回を止めようとした。

 旋回はそれでも止まらなかったが、何とか機体の姿勢を保ちながら、陸地の基地へ緊急信号を発し、自機の位置を通報した。その間、機体は2回半ほど旋回して海面に着水した。ただし速度を充分に落とすことができなかったために非常用フロートも膨らますことができず、コレクティブ・ピッチをいっぱいに引いたまま着水した。最後の1.5mは落下したような恰好になり、機は前進速度のついたまま水中に突っこみ、操縦席の窓ガラスが両方ともに割れて海水が激しく機内に流れこんできた。しかし機長は、水中でヘリコプターの行き足が止まったところでフロートを膨らませ、いったん沈みかけた機体は水面に浮かび上がった。

 乗客は誰にも怪我はなく、右舷のドアの前に救命ボートを広げて乗り移った。それから約20分後に救助のヘリコプターが到着、乗客を救い上げた。のちに機体を陸地まで曳航して調べてみると、テールブームの先端が1m近くちぎれてなくなっていた。ということは、尾部ローターはもとより、テール・ギヤボックスも垂直フィンもなかったことになる。それでも機長の沈着な判断と操作で、乗っていた全員の生命が救われたのである。

 なおテールブームが吹き飛んだ原因は、まだ調査の結果が出ていないが、材質や機材上の欠陥は見つかっていない。おそらくは整備上のミスではないかと見られている。

 

山と海の遭難救助活動

 「マクダネル・ダグラス警察航空賞」は、ロサンゼルス警察の乗員2人に与えられた。2人はパイロットとその助手を勤める警官で、1997年2月28日、ロサンゼルス上空をベル206ジェットレンジャーでパトロール中、「銃撃を受けている。救援を頼む」という無線を聞いて現場に急行した。ノースハリウッドの現場では、銀行に立てこもった2人組の強盗が自動小銃を乱射、その周囲を取り囲んだ何人かの警官と市民たちを釘づけにしていた。

 ヘリコプターの2人は犯人たちがよく見えるところへ機体をもってゆき、自らも銃火を浴びながら、地上の警官隊に逐一犯人の動きを通報した。あとで分かったことだが、このとき2人の銀行強盗が持っていた自動小銃はきわめて強力なもので、もしもヘリコプターに当たれば墜落するほどのものであった。しかし機上の2人は銃弾の中で地上の警官隊を誘導し、余分な死傷者を出すことなく犯人逮捕の結末を導いたのである。

 山岳飛行の安全性向上に貢献したトリンブル機長を記念する「ロバート・E・トリンブル記念賞」は米ミニットマン航空のジェリー・マムリック社長に与えられた。1997年9月、グレーシア国立公園の最高峰、シエー山からパラシュートで跳び降りたジャンパーが途中の谷間にひっかかり、宙吊りになった。これを見た友人が携帯電話で国立公園の救助隊に助けを求め、公園救助隊からマムリック社長のところへ要請があってヘリコプターが出ることになった。

 この人は山岳飛行20年以上というベテラン・パイロットである。救助に当たっては、まず公園救助隊員をベル・ジェットレンジャーにのせて山中へ運び、スキッドが辛うじて接地できるようなせまい場所へ隊員を降ろし、次いで救い出された遭難者をヘリコプターにのせて山麓へ搬送したのである。

 ユーロコプター社の「ゴールデンアワー賞」を受けたのは豪州クィーンズランド救急サービス(QES)の3人のクルーであった。彼らは1997年3月9日午後、沖合300kmの海域で竜巻に襲われたヨットから、乗っていた2人を救助したのである。

 そのとき風雨はまだおさまらず、波高は9mもあって、ヨットは激しいピッチングを繰り返し、ほとんど沈みかけていた。QESのベル412はその上空およそ50mのとこでホバリングしたが、ヨットの25mのマストが前後左右に大きく揺れて、舟の上の2人を助けるのは不可能に思われた。

 そこでヘリコプターからヨットの2人に対し、救命ボートでヨットから離れるように指示した。そのボートのそばにヘリコプターの救助隊員がホイストに体を固定して降下し、遭難者を1人ずつ抱きかかえるようにしてヘリコプターの機内へ吊り上げたのである。

 この救難作業に至るまで、ヘリコプターは沖合300kmまで飛行し、秒速18mの横なぐりの風雨と視程わずかに90mという悪条件の中で現場海域を約20分にわたって捜索した。この捜索と救助を終えて基地に戻るまでの時間は3時間半に及び、燃料はほとんど残っていなかった。それでもヘリコプターの乗員たちは果敢な行動力と冷静な判断力によって、困難な救難活動を完遂したのである。

 

未亡人が代って受賞 

 これらの表彰に当たって、名前が読み上げられた受賞者は晩餐のテーブルの前に立ってスポットライトを浴びる。そして正面の大きなスクリーンに本人のスライド写真が映し出され、どんな功績があったのかが説明される。参会者は、それを聞いて拍手を送るわけだが、上に述べた人命救助のような表彰に対しては多くの人が立ち上がり、いわゆるスタンディング・オベイとなる。

 その圧巻は「人道的奉仕に対するイゴール・I・シコルスキー賞」であった。受賞したのは英ブリストウ・ヘリコプター社の捜索救難クルーの4人である。ブリストウ社は沿岸警備隊の縮小に伴ない、スコットランド沖の警備や救難の委託を受けている。

 その日、1997年11月19日、4人のクルーはシコルスキーS-61ヘリコプターと共に、スコットランドのアバディーンで待機していた。そこへ暴風のために遭難した貨物船「グリーン・リリー」号からの救助信号が入り、出動することになった。風速30m、波高9mで、貨物船は操行能力を失い、風波にあおられて流されつつあった。船には船員10人が残っていた。

 ヘリコプターはその10人を救うのが目的で、乗員はパイロット2人、ホイスト操作員1人、それに救助隊員1人が乗り組んでいた。貨物船は強風と波浪のために岩礁の多い海域に流され、きわめて危険な状態にあった。その船に接近したS-61はまず、上空からラペリングのロープを降ろし、ビル・ディーコン救助隊員を甲板に降ろした。

 それからホイストを使って船員たちの吊り上げにかかった。波浪に翻弄される3,500トンの船上から次々と船員が吊り上げられた。あと2人というときに船が岩礁にぶつかって大きく傾いた。それでも何とか最後の2人が甲板を離れた。

 ところが、その2人を収容したヘリコプターから甲板に残っていたディーコン隊員に向かってホイスト・ケーブルが降ろされたとき、船体が激しいローリングをはじめた。そのためケーブルが、途中で船のマストにからまってしまう。船体は激しい音を立てて何度も岩角にぶつかり、甲板は波に洗われていた。そして、ひときわ大きな波が船全体を呑みこんだと思ったら、それが退いていった甲板からディーコン隊員の姿がかき消えていたのである。

 表彰式の会場では、激しい風波の中で10人の船員を救助した勇敢な4人をたたえてクルーの紹介がはじまった。機長から順番に名前が呼ばれてゆく。だが、そこにはディーコン隊員がいない。代りに未亡人が立ち上がったが、表彰理由の説明がはじまると未亡人は悲しみに耐えかねてその場に泣き崩れ、しゃがみこんでしまった。代っておよそ千人の参会者が立ち上がり、多くの人がクルーの周りに駆け寄って拍手の嵐を浴びせかけたのである。

 

人命救助の能力を知って貰う

 もはや、これ以上の説明をする必要はないであろう。しかし、あえてつけ加えるならば、日本でもこうした人命救助は数多くおこなわれているはず。それらの人びとを、どこかの航空関係団体で顕彰するような制度をつくってはどうだろうか。

 もとより、そんなものがなくても人道主義と任務完遂の精神にもとづく救助活動はおこなわれるだろう。しかし人命救助はそれだけで顕彰の価値があるし、その功績を讃えることによって、ヘリコプターが人の目につかないところでどのような活動をしているかが多くの人に知られることになる。そこから新しい救難・救助・救急体制も生まれてくるに違いない。

 振り返って、阪神大震災で6,400人もの犠牲者が出ながら、ヘリコプターが何にもできなかったのは、その能力が普段から多くの人に知らされていなかったからではないかとも思われるのである。

(西川渉、日本航空新聞、98年3月12日付掲載)

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