信じようと信じまいと

  

 今年、米国ビジネス航空協会(NBAA)は創立50周年を迎えた。その記念の年次大会は去る9月下旬、テキサス州ダラスで開催された。

 ダラスといえば、いうまでもなく、ケネディ大統領が暗殺された町である。1963年11月のことだが、それより1年ほど前の1962年10月であったか、私は上司のお供をして初めてアメリカにゆく機会を与えられた。ダラス郊外のベル社を訪ね、その工場からヘリコプターで市内の保険会社がもつ高層ビルの屋上に着陸する経験をした。機種はベル47Jではなかったかと思う。

 それからコネチカット州ストラトフォードまで足を伸ばしてシコルスキー社へも行き、ここでキューバ危機に臨むケネディ大統領の歴史的なテレビ演説を聞いた。アメリカとソ連の間に一触即発――というよりも核兵器による第3次世界大戦の危機が生じたときで、夕方シコルスキー社の工場見学が終わった後、幹部社員とゲストのための食堂でテレビを見た。演説の内容はよく分からなかったが、シコルスキー社のアメリカ人たちが緊張の面持ちで私語を発するものもなく、みんな食い入るようにテレビ画面を見ていたのを憶えている。

 その1年後、いよいよ日米間に衛星放送がはじまることになり、その初日ケネディ大統領が直接日本に向かって演説するというので、テレビのスィッチを入れた。ところが画面に出てきた第1報は、あの恐ろしい惨事だったのである。

 その後も、しばしばベル社にゆき、後に矢張りダラス近郊にできたフランスの子会社、アエロスパシアル社(いまのアメリカン・ユーロコプター社)にもゆく機会が多く、ダラスは何度も訪れた。大統領が撃たれた道路は一種の名所になり、その横に建つ教科書会社の倉庫は、6階が大統領を記念する博物館になった。

 そこで売っていたのが、ここにご紹介する1枚の紙切れである。リンカーン大統領との偶然の一致点を並べたもので、もとより航空とは無関係だが、偶然というには余りに不思議である。ダラス再訪をきっかけに、ここに記録しておこうと思う。

  


リンカーンとケネディの偶然の一致点

 

 

@2人とも奴隷解放や差別撤廃など黒人のための公民権運動に深くかかわっていた。

Aエブラハム・リンカーンが大統領に選ばれたのは1860年、ジョン F.ケネディが選ばれたのは1960年。

B2人とも金曜日に、妻の目の前で殺された。

Cリンカーンはフォード劇場で殺され、ケネディはフォード・モーター社の製造したリンカーンに乗っていて殺された。

D殺された武器は銃。いずれも背後から頭を撃たれた。

E2人の大統領後継者は、いずれもジョンソンという名前。

F2人のジョンソンは、どちらも南部出身の民主党員で、上院議員だった。

Gアンドリュー・ジョンソンは1808年生まれ、リンドン・ジョンソンは1908年生まれである。

H2人の大統領の妻は、どちらもホワイトハウスに在住中に子どもが死んでいる。

Iリンカーンの秘書はケネディという名前で、リンカーンに劇場へ行かないように忠告し、ケネディの秘書はリンカーンという名前で、ダラスに行かぬように忠告した。

J犯人と見られるジョン・ウィルクス・ブースは1839年生まれ、りー・ハーベイ・オズワルドは1939生まれだった。

K犯人2人はどちらも南部人だった。

Lブースは劇場でリンカーンを撃ったのち、倉庫に逃げこんだ。オズワルドは倉庫からケネディを撃ったのち、劇場へ逃げこんだ。

Mリンカーンもケネディも名前の綴り字数はアルファベット7文字である。

N後継者の2人のジョンソンはファーストネームを含めて13文字。 

Oブースとオズワルドは、人びとからファースト・ネームとミドル・ネームと名字を合わせて呼ばれ、その3つの名前は15文字で綴られる。

P2人の暗殺者は、裁判にかけられる前に殺された。

 

 


 偶然というには余りの不思議さに頭が痛くなってくるが、何故ここまで一致するのか、誰かこの謎を解いてくれる人はいないだろうか。

(西川渉、97.10.18)

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