ベル・ヘリコプターの誕生

――50年前の往時を振り返る――

 

 

 これは3年ほど前、ベル47が民間ヘリコプター初の型式証明を取得してから50年を経過したときに書いたものである。1946年春、初めての商用ヘリコプターを生み出した人びとは当時どのような汗を流したのだろうか。

 

戦闘機の開発から発足

 民間ヘリコプターの歴史が開かれたのは1946年3月8日、ベル47がコマーシャル・ヘリコプターのライセンスを取得したときであった。それまで、ヘリコプターは実験段階にあり、わずかに軍用機として使われるにすぎなかったが、この型式証明によって安全性と実用性が確認され、民間の商業飛行にも使えるようになったのである。

 いうまでもなく、ベル社はそれ以前から航空機メーカーとして活動してきた。創立者はローレンス D.ベル(1894〜1956年)。念のために、電話を発明し、航空技術の開拓でも足跡を残したグラハム・ベルではない。

 ローレンス・ベルは愛称ラリーと呼ばれ、16歳のとき初めて飛行機を見た。このときから飛行の夢にとらわれた若者は、間もなく航空機メーカーのマーチン社に勤めるようになった。のちに副社長まで進んだが、1925年31歳で退社、10年ほど航空関連のブローカーやメーカーで仕事をした後、1935年7月10日みずからベル・エアクラフト社を設立した。

 同社はまず、エンジンの排気管などをつくるところから事業を始めた。しかし早くも半年後には飛行艇の主翼をつくる契約を取り、その主翼にエンジンを取りつける仕事も米陸軍航空隊から与えられた。

 会社設立から1年半が経過した1936年末には、陸軍向けYFM-1の注文を獲得した。同機は双発5人乗りの長距離護衛戦闘機で、推進式プロペラが左右の主翼に後向きにつくという特異な航空機である。火器は37ミリ機関砲2門と12.7ミリ機銃4基だったが、値段が高すぎて調達数は13機にとどまった。

 つづいて1937年、米陸軍が高性能の単座戦闘機の設計を募集、これに応募したのがXP-39であった。その設計内容はエンジンを操縦席後方の重心位置近くに移すことによって運動性を改善、前輪装着を可能とし、パイロットの視界を広げて、火器の搭載量も増やすことができるという画期的なアイディアである。

 米陸軍は直ちにこれを採用、原型機は1938年4月6日に初飛行した。しかし出来ばえは必ずしも理論通りにゆかず、さまざまな手を加えられている間に重量が増え、第一線の花形戦闘機というよりも低高度の地上支援攻撃機として使われることになった。

 その頃、ローレンス・ベルはルーズベルト大統領の密命を帯びて欧州へ渡り、ドイツのメッサーシュミット、ハインケル、フォッケウルフなどの航空機メーカーを視察した。帰国後、大統領に提出した報告書では、ドイツの航空機工業は量産体制がととのい、近代的な軍用機生産が可能な状態にあることが強調され、その一方でイギリスやフランスの航空機工業がきわめて脆弱であると判定されていた。

 そのせいか、1939年ヨーロッパにはじまった第2次世界大戦が激化すると、英仏両国からP-39への大量注文が舞いこんだ。P-400の名前で輸出された同機は、1940年にはわずか13機の生産だったが、41年には926機に跳ね上がり、42年1,973機、43年4,947機、44年1,729機という生産記録を残した。総製造機数は9,588機に達している。

 これだけの航空機を短期間でつくるために、ベル社は工場を増設し、従業員を増やした。その結果、従業員数は1940年の1,170人から、44年には50,674人にまで拡大した。

 その間、ベル社は米軍向けにアメリカ初のジェット戦闘機XP-59を開発、1942年9月30日、極秘のうちに初飛行した。同機は1944年3月制式機として発注されたが、最終的な生産数は50機にとどまった。

 のちに第2次大戦後、ベル社は超音速をめざしてX-1、X-2、X-5などのロケット実験機を製作、X-1は1947年10月14日チャック・イーガーの操縦で音速を突破した。また熱の壁を破るためにステンレス鋼を使ったX-2は1952年に飛び、マッハ3.2を記録している。

 

スタビライザーバーの考案

 さて、第2次大戦のさなか、ベル社ではヘリコプターの試作が始まった。1941年のことである。その指揮に当たったのはアーサー・ヤングだが、ベル・ヘリコプターについては彼の存在を抜きにしては語れない。

 アーサー・ヤングは裕福な家庭に生まれ、1929年にプリンストン大学の数学科を卒業、卒業と同時に自宅でヘリコプターの研究をはじめた。その研究のために、彼は専用の実験室を設け、風洞をつくったりした。

 最初の模型ができたのは1931年である。直径4.5mのローターが3枚のブレードで構成され、各ブレードの先端にはプロペラがつき、それでローターを駆動するようになっていた。機体には20馬力のエンジンが装着され、そこから長い駆動軸がブレードの中を通ってプロペラを駆動する仕組みである。エンジンは、地上からワイヤでコントロールするようになっていた。

 しかし、この模型は7年間の作業にもかかわらず、うまく飛ぶことができなかった。そこで今度は同軸反転式のローターが考案された。上下2つのローターはお互いに回転数が異なり、上の方が高回転で主として揚力を発揮すると共にエンジン出力の大半を使い、下の方はそのトルクを打ち消すのが主な役目であった。

 しかし実際に飛ばしてみると不安定で、落ち着いた状態で飛べない。ブレードは上下2枚ずつだったが、これは飛ばすたびに墜落するので、ブレードの製作が間に合わず、必要最小限の数に抑えたためである。それでもブレードづくりには手間ひまがかかるので、アーサー・ヤングは近所の子どもたちを集めて、手伝わせたりした。その1人がのちに彼の助手となり、ベル社の副社長に進んだバートラム・ケリーである。

 やがてヤングは失敗続きの模型実験の中から、ローターの安定を保つには、単にブレードの取りつけ部にヒンジをつけただけでは駄目で、機体やマストが傾いてもローター回転面が傾かないような機構が必要であると考えた。その結果、1940年スタビライザーバーを考案し、模型実験や風洞試験で安定した飛行特性を示すことを実証した。

 これがアーサー・ヤング独自のスタビライザーバーで、彼の最も重要な発明である。長さ5フィート程の棒の両端におもりをつけて、フライホイール(はずみ車)のような機能をもたせ、マストの傾きに関係なく、ローター回転面を胴体の動きから独立させて常に水平に保持する役割を果たす。これでローターの回転、すなわちヘリコプター自体の安定を保つことが可能となり、当時、多くの発明家たちを苦しめたヘリコプターの不安定問題を解消したのである。

 

モデル30の試作に着手

 実際スタビライザーバーをつけた模型のヘリコプターはすばらしい安定性を示した。彼は、これらの実験飛行のもようをムービーカメラに収め、政府や航空機メーカーの関係者に見せて回った。この映像を見たローレンス・ベルは、ヘリコプターの模型ばかりでなく、アーサー・ヤングの人物も気に入った。そしてベル社に入るようにすすめたが、ヤングは大企業の一員として働くことを好まず、自分の自由にできる特別プロジェクト・チームをつくって貰うことになった。

 これを聞いて、ベル社内には大きな反対が起こった。しかし1941年9月3日、ラリー・ベルが重役陣の反対を押し切って契約を成立させ、11月24日ヤングと助手のバートラム・ケリーがベル社にやってきた。契約書に定められた2機のヘリコプター原型機をつくるためである。この2機は、1機が1人乗り、もう1機は2人乗りと定められた。特に2人乗りとしたのはラリーみずからヘリコプターに乗ってみたいという気持ちが強かったためといわれる。

 ヤングの指揮下にはおよそ15人の技術者が集められ、モデル30ヘリコプターの試作がはじまった。試作の内容は3インチの太いアルミ管を溶接して4本の脚をつくり、その前方に座席を置いてコクピットとし、後方に160馬力の空冷式フランクリン水平対抗6気筒エンジンを鋼管構造で包むようにして垂直に取りつけるといったものである。

 エンジンからはトランスミッションを介して上方へマストを立て、マストの先端に2枚ブレードのローターを取りつけ、ローターブレードのすぐ下にはスタビライザーバーがブレードに対して直角に取りつけられた。

 ブレードは木製であった。ただし前縁内部にはスティールの棒が挿入されていた。尾部ローターも木製で、テールブーム先端の細い管に取りつけられた。操縦席は1人乗りのオープン・コクピットである。

 モデル30が完成したのは、ほぼ1年後の1942年12月24日。まさにクリスマスイブの日だった。誰かが胴体にシャンペンを振りかけ、試作機の完成とクリスマスを祝った。その日アーサー・ヤングは休む間もなくエンジンを始動、モデル30の試運転をはじめた。初飛行は5日後の12月29日。最初にヤングみずから操縦席に乗りこみ、わずかに離陸させた。このときヘリコプターの重心位置から何本かのロープを垂らし、それを地上の人びとが持っていた。高度は地上1〜1.5mだったが、尾部ローターの効きが充分であることが確かめられた。

 

ベル・ヘリコプターの初飛行

 ヘリコプター・チームには、もう1人、フロイド・カールソンがパイロットとして参加していた。彼もまたヘリコプターに夢中であった。そしてヤングに次いで操縦桿を握るや、たちまちコツをつかみ、飛行に熟達していった。

 ところが1943年1月、機はまだ地面につながれていたが、試験飛行中に事故が起こり、操縦していたボブ・スタンレーが大けがをした。機体の修理にも半年間を要したが、やがて1943年6月23日ケーブルが外され、カールソンの操縦によって初の自由飛行に成功した。

 モデル30の飛行はなかなか調子がよく、カールソンは徐々にヘリコプターの速度を上げていった。しかし巡航速度に近づくと振動も大きくなり、飛びつづけられないという問題が起こった。この振動を減らすために、カールソンはローター・ブレードの根元にヨークを取りつけることを考案した。これでヘリコプターは100〜110km/hくらいまで振動がなくなり、ヨークは彼の特許として残った。

 ヨークの成功によって、速度試験が行われることになった。ヤング以下のヘリコプター・チームはモデル30を空港で飛ばし、速度を上げることにした。ただし機上の速度計は余り信用できなかったので、ヘリコプターに平行して自動車を走らせ、そのスピードメーターで速度をはかることにした。その結果、ヘリコプターは110km/h以上の速度に達した。しかし、このとき片方の車輪が外れて落ちてしまったため、機は着陸地点へ戻り、車輪の取りつけが終わるまでホバリングを続けた。

 次の問題はオートローテイションだった。飛行中にエンジンが停まったらどうなるか。無事に着陸することができるのか。1943年8月いよいよ、その試験をすることになり、近くの草地の飛行場にゆき、カールソンが乗りこんだ。1回目の飛行はパワーオンのままで進入し、着陸寸前にフレアをかけ、当然のことながらうまく着陸することができた。同じことを、次はパワーオフでやってみることになった。カールソンはパワーオンのときよりももっと強くフレアをかけるつもりだった。それで前進速度が殺せるかどうか、よく見ててくれといって離陸した。

 しかし、エンジンを停めて進入していくと、さっきよりも高度が低い。あわてて力一杯にフレアをかけたが、尾輪が地面を打ち、さらに尾部ローターが当たった。ヘリコプターはそのまま地面に衝突、機体は大破した。にもかかわらず、カールソンは無傷であった。

 この事故から、尾輪の設計が良くないということになった。そこで壊れた1号機の残骸を集め、スタビライザーバー、ヨーク、ギアボックスなど、わずかなものを利用して、あとは実質的に新しくつくり直されることになった。

 

2機目のモデル30

 この改修より前の1943年8月末、2号機が完成した。同機にはいくつかの改良が加えられていた。たとえば降着装置が改められ、胴体がモノコック構造になり、テールブームも外板で覆われ、尾部ローターの取りつけ機構が変わった。とりわけ大きな変化はコクピットが自動車のような外観になり、左右2つの座席がついたことだった。このため同乗者が乗れるようになったが、その最初の乗客はラリー・ベルであった。

 また複座の足もとには、普通の飛行機と同じようなペダルが取りつけられた。これで尾部ローターの制御がやさしくなり、カールソンは完璧なオートローテイションに成功した。

 1944年春、1号機の修理が終わった。改修の内容は、尾輪が軽くなり、取りつけ位置も前方へ移され、尾部ローターはもっと高い位置に変わった。呼称も1A号機に変わり、1944年7月4日に初飛行した。

 このような試験飛行やデモ飛行がつづいていた1945年1月5日、ベル・ヘリコプターによる初めての救急飛行がおこなわれた。ニューヨーク州北部の雪の中で、戦闘機の故障のためにパラシュート降下をしたパイロットを救助するため、フロイド・カールソンが医師をのせて現場へ飛んだのである。

 つづいて2か月後の3月14日、エリー湖で2人の漁民が救われた。雪解けの氷水の中に落ちて流された2人が、ヘリコプターで引っ張り上げられた。このときのパイロットもカールソンで、彼は2度にわたる献身的な人命救助によって、アメリカ政府からシルバー・メダルを授与された。

 その頃、3号機の製作がはじまった。もっとも、それについては、ちょっとした問題が起こった。アーサー・ヤングのチームが3号機をつくろうとしたとき、契約では2機になっているからといって、3機目の製造を禁じられたのである。あとはベル本社の技術部門が量産型の設計をするというお達しであった。

 しかし意気盛んなプロジェクト・チームは、こんなことで負けてはいられなかった。密かに3号機の製作に着手したのである。これがベル47の原型機となった。その機体には、これまでの2機の試作と試験から得られた成果が盛りこまれた。もしも、ここで3号機をつくらなければ、今まで何のために2機の試作をしてきたのか。チームの努力が水泡に帰することは明らかだった。一方、本社工場にどれほど優秀な設計技師がいたとしても、自分たちの経験を生かした3号機ほどうまくゆくはずがないという確信もあった。

 

シコルスキーとの会話

 ところがベル本社から10マイルほど離れたガレージの中でヘリコプターの“密造”がはじまると、その作業はたちまちばれてしまった。バート・ケリーが電話で呼び出され、この3号機は飽くまで試作機であって量産機にはしないという約束をさせられた。しかし、機体が形をなしはじめると、それは明らかにこれまでの2機とは異なるものであった。降着装置には4つの車輪がつき、計器パネルが改善された。

 コクピットは1号機同様の開放式に戻ったが、のちにデモ飛行に使うことになったとき、オープン・コクピットでは見ばえがよくないというので、アーサー・ヤングの発案でプラスティック・バブルで覆うことにした。透明な球形風防がついて外観もよくなり、パイロットや乗客の視界も広がった。これこそは後にベル47で世界中に普及した透明バブル・キャビンの先駆けだった。つまりバブル・キャビンは、ベル社におけるアーサー・ヤング最後の発明であった。

 3号機の初飛行は1945年4月25日。機体の調子は上々であった。その頃イゴール・シコルスキーもVS-300に続くR-4やR-6といったヘリコプターで新しい時代を開こうとしていたが、モデル30の噂を聞いて、エンジンと垂直軸との取りつけ具合を見たいと思った。

 のちにアーサー・ヤングが語ったところでは、シコルスキーは大勢の部下を引き連れ、何台ものキャデラックを連ねてベル社に乗りこんできた。そしてモデル30を取り囲み、しげしげと眺めたあげく、その場に立ち会っていたヤングにこう言ったそうである。

「わかった。君は垂直エンジンを使っているね」

 ヤングは答える。

「そうです。私は垂直エンジンを使っています」

 たったそれだけが近代ヘリコプターの歴史をつくった2人の会話であった。シコルスキーは、さっさとキャデラックに戻り、ベル社を後にした。

 こうして試作機としての役割を終えたモデル30ヘリコプターは、今も2機が現存する。1A号機はワシントンのスミソニアン航空博物館、3号機はニューヨーク州アムハーストの歴史博物館に保管されている。

 

ベル47の開発と量産

 1945年6月24日、ヘリコプター・グループは、ナイアガラ・フォールスにできたベル社の新しい本社工場へ移転した。モデル47が生まれたのは、この工場である。

 47原型機はモデル30の3号機を基本として開発された。複座の機体で、副操縦装置もつけ加えられた。エンジンはフランクリン175馬力。鋼管構造の中に包みこむようにして垂直に取りつけられ、クラッチ、ドライブシャフト、ローター系統などが装着された。ローターには例によってスタビライザー・バーがついた。

モデル47は1945年12月8日にロールアウト、その日のうちに初飛行した。ラリー・ベルはしばしば、テスト中のヘリコプターに同乗した。ある日、フロイド・カールソンがラリーをのせて、やや遠くまで飛んだとき、尾部ローターのドライブシャフトが破損したが、機は何事もなくオートローテイション着陸をした。

 この出来事は航空当局のライセンスを取る前であったが、ベル47の開発に影響はなく、ついに1946年3月8日、世界で初めての民間ヘリコプター・ライセンスが交付された。それから2か月後、5月8日にはヘリコプター型式証明の第1号が授与された。それは、アーサー・ヤングという若き発明家の長年にわたる努力の結晶ともいうべきものであった。

 それより先、モデル47の型式証明取得の前から、ベル社は早くも同機の量産を決断し、取りあえず10機の生産にかかっていた。当時、ベル社の幹部や社外のコンサルタントも含めて、多くの人がヘリコプターなどというわけの分からぬものを量産化するなどは無謀であるとして反対した。実際、ベル社はP-39など軍用機の生産に追われていた時期で、新しい分野に手を出さなくとも経営的には順調な時期だったのである。

 だが反対が多ければ多いほどラリーの意志は固まり、10機の製造が終わらないうちに早くも次の100機の生産を計画していた。そこへモデル47が型式証明を取ったのである。

 当時のモデル47の価格は2万ドルを超え、固定翼機よりも高かった。しかし同年12月、米陸軍が1機を買ってくれた。さらに翌年には米空軍が28機のモデル47Aの調達に踏み切った。軍用呼称はYR-13-BE、のちのYH-13-BEである。エンジンは175馬力のフランクリンO-335-1F。機体は評価試験からはじまり、アラスカでの寒冷地試験や米国内の砂漠地帯で45℃を越える高温試験に耐えた。

 民間ヘリコプター会社からも注文が出はじめ、1946年12月31日、初の47Bが引渡された。1947年にも何機か売れたが、利用目的はチャーター飛行、農薬散布、地質調査などであった。実際、ベル47は先ず農薬散布で成功した。1947年後半の7か月間に30機以上のベル47が何万エーカーという穀物畑や果樹園で農薬散布に飛び回ったのである。

 

民間ヘリコプター普及の努力

 その背景には、ローレンス・ベルによる商用ヘリコプター普及の努力があった。彼の基本思想は、戦時ばかりでなく平時にも工場の操業度を下げないためには、軍需に頼るばかりでなく民間市場でも需要を確保しなければならないということである。といって、当時のヘリコプター運航会社は個人的なベンチャー企業で、仕事がなくなればたちまちつぶれかねないところばかりであった。

 ベル社はそういう企業を助けて、何とかヘリコプター事業が成り立つように支えていかなければならなかった。必要があれば、みずからの社員を運航会社へ送りこんで技術的な支援をした。

 またベル社は、これらのヘリコプター会社と一緒になって、農家、牧場主、石油会社、鉱山会社、建設会社、森林業者、警察、その他さまざまな人びとにヘリコプターを見せ、それにのせて空を飛び、実際に仕事をしてみせながらヘリコプターの利用価値を売りこんだ。こうして、ベル社から助けられたヘリコプター会社は米国内はもとより、カナダや欧州にも多数存在した。

 もうひとつベル社にとって重要なことはパイロットと整備士の養成であった。機材ばかりをつくっても、それを扱える人がいなければ買って貰えない。そこでベル社は1946年に学校を開設した。折から第2次大戦が終わって間もない頃であり、戦時中に固定翼機の経験を積んだパイロットも多く、彼らが訓練の対象となった。

 1948年初め、モデル47Bはさまざまな改良の手が加えられ、47Dとなった。最大の変化はプラスティック製の大きなバブル・キャビンが取りつけられたことである。そして1949年には新しい派生型47D-1が誕生、座席が3席に増え、ペイロードは220kgとなった。

 同年、シカゴではベル47による郵便輸送がはじまった。欧州でも同じ年の8月21日、サベナ・ベルギー航空がベル47で郵便輸送を開始した。

 こうしてモデル47は、ヘリコプター産業を離陸させた。それは自動車業界におけるT型フォードのようなものかもしれない。モデル47を見てヘリコプターの何たるかを知った人は、世界中に多いはずである。

 事実、モデル47は最も基本的なヘリコプターとして、米陸軍、海軍、空軍、海兵隊、さらに世界10か国以上の軍隊に、総数2,400機が採用された。

 民間機としても、モデル47は2,600機が生産された。世界中このヘリコプターが飛ばなかった国はないといってもいいほどである。それは市街地でも山の中でも、炎熱の砂漠でも厳寒の極地でも、どんなところでも飛行し、地上の手段では到達できないような場所へも人や荷物を運び、ほかの手段では不可能な仕事を成し遂げてきた。

 ベル47の量産は1953年4月10日に1,000号機が完成、57年12月11日には2,000号機が完成した。そして1973年、27年間にわたる生産を終了する。この間、同機は20種類以上の派生型が開発され、総生産数は軍用機と民間機を合わせて5,000機に達した。

 

総生産数は33,000機以上

 モデル47によって事業拡大を続けたベル社は1951年、ヘリコプター事業部をテキサス州フォトワースに移した。

 やがて1955年、ベル・ヘリコプターの新しい時代がはじまる。それは米陸軍のタービン・ヘリコプター設計競争に勝って、中型多用途タービン・ヘリコプター、HU-1が誕生することになったからである。このヘリコプターがモデル204(軍用呼称XH-40)として初飛行したのは1956年10月20日であった。

 1957年1月1日、それまでベル・エアクラフト社の一部門だったヘリコプター事業部は、この日からベル・ヘリコプター社として独立した。当時ベル社全体の従業員は13,000人余り、そのうちヘリコプター関連の従業員は3,300人である。

 量産型HU-1の引渡しは1958年9月にはじまり、22年後の1980年末までに軍用向け10,000機以上、民間向け1,200機以上が生産された。しかも同機の生産は終わったわけではなく、1983年に再開され、さらにはカナダへ移されて生産が続くことになった。

 1965年9月、UH-1の発展型、AH-1攻撃機の開発計画が発表された。米陸軍が初のAH-1Gヒューイコブラを受領したのは1967年6月、契約調印からわずか14か月後のことであった。そして10月には早くもベトナム戦線へ送りこまれた。

 ベトナム戦争の激化に伴い、ベル社ではヘリコプターの生産が急増し、1969年末までの生産数は全機種合わせて13,000機を越えるに至った。その頃、筆者もベル社を訪れたことがあるが、フォトワース本社のゲートを入ったところに南西の方向を示す矢印形の立て札が立ち、ベトナムまで何千マイルという表示と共に、連日の生産機数が書きこまれていたのを思い出す。あのピーク時、工場は3交替制で一刻の休みもなく、毎日30機以上、月産1,000機という軍需景気に沸いていた。

 そのベトナム戦争が終わって間もなく、1976年1月ベル社の正式名称がベル・ヘリコプター・テキストロンに変わった。当時のコングロマリット、テキストロン社の傘下に入ったためだが、1982年には完全子会社となった。

 1985年にはカナダ政府の求めに応じて、モントリオール郊外に新しいベル・ヘリコプター・カナダ社が設立された。同社はベル民間機の製造を担当することになり、206Bジェットレンジャーや206Lロングレンジャーにはじまって、モデル230に発展、現在では206B/L、407、430、412などの民間向け各機がここの組立てラインを流れている。またアメリカ側のベル本社工場では軍用向けのOH-58D、AH-1ヒューイコブラの生産が続き、モデル427小型双発機とV-22ティルトローター機の開発が進んでいる。

 最近までのベル・ヘリコプターの総生産数は33,000機を超え、世界124か国で飛ぶに至った。

 

その後の開拓者たち

 最後に、ベル・ヘリコプターの開拓時代に活躍した人びとは、現在どうなったであろうか。

 社長のローレンス・ベルは1956年10月20日、心臓発作で死亡した。この日は偶然にもHU-1の初飛行の日だったが、彼は死ぬまでベル社の第一線にあり、最高責任者として指揮を執りつづけた。

 アーサー・ヤングはベル社との契約が終わると、1948年、今度は人の意識について研究をはじめ、カリフォルニア州バークレーに移って「意識研究所」を設立、1995年に89歳で死ぬまで、何冊かの意識に関する本を書いた。彼が最後にベル社を訪れたのは1991年であったが、V-22オスプレイを含む最新のヘリコプター技術に触れて、感慨深い表情を見せたという。

 ヤングの助手を勤めたバートラム・ケリーは1948年、ベル社の技術担当役員となった。1971年には副社長に就任したが、1974年に引退した。彼は1941年以来、詳細な日記をつけており、おそらくこれはベル社の技術と人に関する貴重な歴史的資料となるであろう。ケリーは今もダラスに住んでいて、ときどきベル社にあらわれる。

 フロイド・カールソンは、その後もベル社で働き、1967年まで25年間テスト・パイロットとして飛びつづけ、ベル・ヘリコプターの発展に貢献した。ベル社を退いたのは1982年だが、2年後の1984年にこの世を去ったそうである。

(西川渉、『エアワールド』誌、1997年1月号掲載)

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