<西川修著作集>

別々紀行

 矢字、喜田両先生が学会に行くとて別府に上陸して、九州を一まわりして又別府から帰って来た。別府から別府、だから別々紀行である。

 馬鹿に風が寒い。喜田博士は船に乗ったら少しは暖かくなるだろうかなどと思いながら待合室のあたりを往き来する。一足先に来ているはずの欠字教授は一向に姿を見せない。

 八日くらいの月が出ている。今日は家を出る頃からにわかに冬めいて来たので、冬服に着替えて来たのだが、それでも寒さが肌に通るようだ。大阪行きの船の出帆の気配がする。これが出ると入れ違いに両先生の乗る別府行きの船が入港するはずである。船は戦後にできた最優秀の遊覧船しゃこ丸である。それにしても矢字教授が現れない。一汽車早く出て出帆迄の時間に何樫病院を訪ねるという話だったから、またきっと一杯飲まされているに違いない。矢字教授もけっして嫌いなほうではない。つい飲み過ごして船に乗り遅れ、連絡船で岡山に渡って山陽線を夜行で飛ばすなんてことになるのじゃないか。そうすると船の切符は払い戻してくれるだろうか。千八百円も無駄にしたら馬鹿げているなあなどと矢宇教授のために余計な心配までしながら喜田博士は待っている。

 大体今度の学会には矢字教授が特別講演をすることになっている。責任重大なのである。それに振り出しから一杯やって船に乗り遅れたりしてはまことに幸先が悪い。一体どうしたことだろうと待合室のあたりを右に左に歩きながら、思いはまたしても矢字教授の上に戻って来る。

 赤帽が「別府行きしゃこ丸でございます。御乗船の方は桟橋の方に御越しください」と怒鳴った。矢字教授はとうとう間に合わなかったな、独り旅というのも面白くないななどと諦めた気持ちで喜田博士はポケットから小型のノートを取り出すと、

  月の港 出船の鋼羅に 風あらた

と俳句めいたものを書きつけて、おもむろにはげたポストンバッグを提げて桟橋の方へ行く。

「やあ、喜田さん喜田さん」
とひときわ背の高い男が叫んでいる。見ると何樫病院の副院長だ。何だ、桟橋の方に来ていたのだ。矢字教授は何樫副院長と並ぶようにして、改札を待つ列の中に立っている。やはり想像通り一杯も二杯も飲んでいるらしい。

「無事に来ましたね。また乗り遅れたのかと思いましたよ」
「一体どこにおられたのですか」

 矢字教授と何樫副院長が代わるがわる聞く。まるで話は逆である。

「待合室にいましたよ。あなたが一向見えないので、あなたこそ遅れたのかと思った」
「待合室?のんきですな。心配しましたよ。何しろ遅刻は毎度のことですからな」

 待つ時は待合室にいるのが当然である。それにこの両先生の持っている切符にはちゃんと寝台の番号が記入してあるのである。一列に並んで席を争う必要は毫もないのである。しかし酔払いを相手にしても仕方がないから喜田博士は論争を避けた。

 とはいえ遅刻は毎度のことだと言われたのは実に心外である。喜田博士は時間の観念がすこぶる確かで、汽車に乗る時など、発車の一分前あるいは三十秒前位に相当急ぎ足で来ることはある。しかしそれで間に合うのである。いったい汽車などというものは……汽船も因よりそうだが……出発の三分も五分も前からモゾモゾと動き出しているような性質のものではないからこれで大丈夫な訳である。発車の一時間も前から駅に来ている人もあるようだが、あれなどは汽車の本質を知らぬ田舎の婆さんなどのすることである。

 しかし喜田博士も一度完全に乗り遅れたことがある。朝の一番列車であった。この時は奥さんが寝過ごしたからだということは喜田夫人自ら認めている。

 それからもう一つ具合の悪いことがある。一度矢字教授と一緒に某地に行く時、二人がプラットホームにでたら、何の前ぷれもなしに乗るべき汽車が勤きはじめた事がある。矢字教授が驚いてまずひらりと飛び乗ったが、喜田博士はこういう事はあまり得意ではない。その上乗降口には矢字教授が立っていて、心配そうに見ている。心配する代わりに早く乗降口を空けてくれれば良いのだが、空けるどころか手など出している。この手につかまれという積りか知らん。その内に汽車は遠慮なしに速力を増してきて、喜田博士が片足をステップにかけたがもぅ一方のがなかなか上らぬ。喜田博士はこれはいかん、「列車とブラットホームの間に転落、左大腿部を轢断」などという事態になったかなと思った途端、突き出していた矢字教授の腕が無事に引き上げてくれた。まことに危ないことであった。ところが実はそんなにあわてて乗る必要はなかったのである。ホームの入れ替えだったので、その列車はまた引き返して隣のホームに戻って来たのだから。

 すなわち汽車というものは時間表を信用していれば良いので目前の事象に一喜一憂する必要は少しもないのである。毎度の遅刻という矢字教授の言葉に対して喜田博士は心中で以上のように反駁していた。

 しゃこ丸は流石に立派である。明るい電灯に船内の白い塗料が美しい。ところで切符に書いてある寝台の番号などというものはたいして意味のないものらしい。ボーイが「こちらへどうぞ」と言って案内したのは全く違う番号である。しかしどうせどの部屋でも同じ構造なのだし、鉛筆で殴り害きしてあるその寄号に特に執着する理由もないので二人はおとなしく指定された寝台に納まることにした。

 さて矢字教授は咽喉が渇く、何樫副院長の案内を待つ間の時間つぶしにちょっと頂戴する積りだったのが、強引に勧められていつの間にか適量を過ごしていたのだから無理もない。ボーイは他のお客さんにかまけて一向姿を見せない。部屋の中央の小卓に土瓶がおいてあるがそれは先客の用に供したもので既に一滴も残っていない。

「お茶を持って来ませんなあ。どうしたのかしら」
「そうですね。かき餅なんか浮かしたやつを持って来るもんですがね」
「チップをやらんので無視してるんじゃないかな。ちょっと出て探してみましょう。何しろのどが渇いてたまらん」
「そうですな、サロンに行ってあちらに持って来させますか」

 そこでサロンに行くことになる。矢字教授が船室を出ようとすると喜田博士が呼ぴとめた。
「矢字君、スリッパがありますよ、はき替えたら……」

 なるほど喜田博士は寝台の下から探し出した妙な空色のスリッパなどはいている。矢字教授はしかし動じない。
「いや、これがエチケットです。スリッパは寝室内だけで用うべきものです」

 喜田博士は余計なことを言ってしてやられたわいというような顔をしたが、矢字教授のエチケットも少しもあてにならないのであって、翌日は「今日は略装でいきましょう」といってスリッパのまま船内到る所を闊歩していた。さて、サロンの一隅に坐った二人はボーイの現れるのを待っているが一向に来ない。サロンには碁を打っているのが一組、一杯傾けているのが一人いるが碁の組の傍にはちゃんとお茶がおいてある。だからサロンに坐っていればその内にお茶を運んで来るものと考えてよさそうである。その内に一杯の傍にボーイが現れて、鞠躬如と何か聞いている様子だったが二人が声をかけようとする間もなく、身を翻して向こうへ行ってしまった。

 どうも係のボーイでないといけないらしい。

「我々の室のボーイはどの人でしたかな」
「背は高かったですね」
「何しろ探し出してチップをやらんといかんようですな」

 矢字教授はのどが渇いて我慢が出来ないらしく、しきりとチップをやりたがっている。遂にボーイの溜りに行って強引にチップを渡して来たらしい。間もなく背の高いボーイが現れてサロンのソファーに悠然と寄りかかっている喜田博士に丁重にお礼を申し述べた。察するところ、矢字教授を喜田博士の秘書か何かと考えたのであろう。秘書に命じてチップを出させたのでボーイは社長に向かって丁重なる謝意を表した次第だろう。さすがに人柄は争われないものだわい、喜田博士はそう考えると大いに愉快になり益々悠然と坐っていた。何しろボーイの溜りまで出かけて無理矢理にチップをやるなどはあまり利口な方法でない事がわかるのである。

 矢字教授は落着かない。自分の船室の扉をちょっと開けて中をのぞくと、また引き返して来た。これで二度めである。お茶を運んで来ているかどうか見に行ったものらしい。

「やっぱり持って来ていませんよ。どうしたのだろう」

 お茶ばかり気にしている。喜田博士にしてもあのくらい丁重に謝辞を述べたのだから、お茶ぐらい早速運んで来そうなものだと思うがやはり駄目である。

 人の心は不思議なものである。欲しくて欲しくてたまらぬものも、いよいよ手に入るか、あるいは確実に手に入ると決まれば、急に欲望が減退するものらしい。いらいらしながら三度目に見に行った矢字授が急にゆったりした足取りで戻って来て、ソファーに腰を下した。そして笑いながら「来ていますよ」と言った。お茶のことである。矢字教授はすっかり落ち着いて煙草を一本服んでから、おもむろに部屋に帰ってお茶を何杯も何杯も飲んだ。

 九州に近づく海の上で矢字教授がいつも言う言葉は決まっている。
「九州の山の形は違いますな」これは嘆美であり、また詠嘆でもある。四国の平板な景色に見馴れて、たまさかに九州に立ち帰って見るこの島の風景は美しく、また懐かしい。もとより喜田博士も同じ思いである。

 矢字教授が朝食のあとまた寝台に上って眠っている間、秋の太陽にまぶしく輝いている海や空、少しずつ近づいて来る九州の島々や岬や山の姿に喜田博士は感傷に駆られている。そしてポケットから例の小型のノートを取り出して、

  国東のみさきの岩肌
   遠白に見ゆる海路をまた帰り来し

と書きつけた。

 ところで、別府はそういう懐旧の情に溺れようとしている旅人にはあまりふさわしくないガサツな街である。田舎の爺さん婆さん相手の湯治場に、成金趣味をまぜてこね上げ、その上に新しいパンパンの感覚をまぶしたといったような街である。

 二人は別府に上陸した。

(南斗星、『大塚薬報』19号、1952年)

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