FAAの防災ヘリコプター事例研究

――その1――

 

 本頁では先般来、米FAAの『防災ヘリコプター・マニュアル』を読んできた。このマニュアルは、米連邦航空局(FAA)が、災害にあたってヘリコプターを使いこなすにはどうすればいいか。その準備と計画について具体的な方策を示し、全米各地の自治体に配布して「地域防災計画」の中にヘリコプターを組みこんでもらおうとしたものである。

 これをつくるに当たって、FAAは米国内で発生した18件の災害事例を具体的に調査し、それぞれの状況の中でヘリコプターが何をしたか、何ができなかったか、それは何故か、いかにあるべきだったかを抽出するという作業をした。つまり、あのマニュアルは頭の中で考えただけの抽象的な机上のガイドラインではなく、現実の災害事例を踏まえた具体的なものだったのである。

 FAAは、このケース・スタディの結果についてもA4版100頁ほどの報告書にまとめ、1990年6月『災害救助におけるヘリコプター活用の事例研究』(Rotorcraft Use in Disaster Relief and Mass Casualty Incidents−Case Study)として公表している。

 この報告書の中で取り上げられた18件の災害事例は次表の通りである。ブリザード(雪あらし)、ホテル火災、バス転落事故、航空事故、竜巻、列車脱線事故、洪水、列車衝突事故、有毒化学物質漏出事故、銃乱射殺人事件、高層ビル火災、地震など、さまざまな災害が調査の対象となり、その災害救援に当たってヘリコプターがどのような役割を果たしたか、どのくらい有効であったかを詳述している。

 

ヘリコプター救助事例研究の対象

事  例

死傷者数

ヘリコプター

負傷者

死亡者

搬送数

救命数

@米北東部の雪嵐

4,587

99

AMGMグランド・ホテル火災

約635

85

522

不明

Bヒルトン・ホテル火災

350

36

不明

C観光バス転落事故

26

不明

Dエアフロリダ機737の墜落事故

74

E竜巻

60以上

Fアムトラック脱線事故

29

G銃撃大量殺人事件

19

21

H溶融硫黄の流出

28

Iバス河中転落事故

11

不明

Jカリフォルニア北部洪水

不明

15

2,400

59

Kデュポン・プラザ・ホテル火災

146

97

236

不明

L列車衝突事故

174

15

27

27

Mホテルへの軍用機墜落

10

Nロサンゼルス高層ビル火災

不明

19

Oユナイテッド航空DCー-10墜落

185

111

PUSエア737墜落

不明

不明

Qサンフランシスコ地震

不明

不明

79

79

合 計

――

――

3,357

187

 ここでは以下、これらの災害に出動したヘリコプターが何をし、何をしなかったか、何度かに分けて報告書を読んでいくことにしたい。災害とヘリコプターの実際の関わり方が明らかになってくるであろう。

 まずは高層ホテルの火災例である。

MGMグランド・ホテルの火災

 1980年11月21日午前7時過ぎ、ラスベガスのMGMグランド・ホテルで大火が起こり、宿泊客とホテル従業員85人が死亡する惨事となった。ほかに約600人が怪我をして、35人の消防隊員が病院で手当を受けなければならなかった。

 このホテルはカジノやコンベンション施設、ハイアライ競技場、商店街などの上に21階の客室が設けられていた。屋内のスプリンクラーは部分的にしか設置されてなく、カジノにもなかった。火災発生の午前7時過ぎ、ホテルの宿泊客はおよそ3,400人で、ほとんどが館内にいた。

 火災の原因はホテル従業員の休憩室の漏電ではなかったかと推定される。火が発すると炎がカジノを通り抜け、煙は階段、エレベーター筒、非常口、換気装置などを伝わって高層部分へ上昇していった。そのため階段、非常口、廊下などは煙が充満し、高層階からの脱出は非常にむずかしくなった。

 火災警報は鳴らなかった。したがって宿泊客の多くは煙や火炎を目にしたり、焦げる臭いやドアを叩く音、叫び声に気づくまでは火災の発生を知らなかった。そんな状態で、多くの客はうまく階下の方へ逃れ出ることができたものの、煙のために逃げ道を阻まれたり、部屋に逃げ戻った人もいた。彼らはたいてい窓ガラスを破って助けを求めた。

 消防隊員は1時間余りの間に火災の範囲をカジノ部分だけに抑えこんだ。そしてホテルの中に閉じこめられた人が全員脱出したのは、およそ4時間後であった。しかし脱出できずに死亡した人も多く、死者のうち61人は高層階に閉じこめられた人であった。また18人はカジノで死亡、5人は救出後の死亡である。最後の1人は火災から1週間後に病院で死亡した。

 高層階で死亡した61人のうち25人は部屋の中で死亡していた。22人は廊下、9人は階段、5人はエレベーターの中に倒れていた。そして1人は高層階から落ちたか飛び降りたと推定される。

 なぜ、このように多数の人が死亡したのか。火の回りが早くて、小火(ボヤ)の段階で消すひまがなく、あっという間にカジノ全体が炎に包まれてしまったからである。充分な防火壁がなかったせいもある。また建物の構造が垂直方向へ吹き抜けになっていたために、たちまちにして煙が高層部分へ昇っていき、階段や非常口が熱と煙の通路になってしまい、高層階の人びとの逃げ道を塞いだ。のみならず暖房、換気装置が高層階全体に煙を拡散する役割を果たした。

屋上に群がる人びと

 そこでヘリコプターは重要な役割を果たした。その役割は大きく3点――宿泊客の脱出、救助隊員の輸送、消防活動に対する上空からの指揮である。

 火災発生のとき通常のパトロール飛行中だったラスベガス警察のヒューズ500はMGMホテルから立ち昇る黒煙を発見、直ちに現場に飛んだ。屋上に着陸してみると、そこはパニック状態であった。200人くらいの人が群がっていて、いっせいにヘリコプターに乗りこもうとした。火事は屋上にまで迫っているわけではなかった。上空から見て、そのことは明らかだったが、逃げてきた人たちには分かっていないようだった。今すぐヘリコプターで脱出しなければ、そこで死んでしまうような恐怖心にとらわれていた。

 ヘリコプターは、無理に機内に入り込んできた人をのせたまま離陸した。そして、すぐそばの砂地に降ろすと、もう一度戻ったが、機体の下に余りに沢山の人が群がってくるので、なかなか着陸できなかった。パニックにおちいった人びとは、他人の言うことなどは聞こうとしない。ただもう滅茶苦茶にヘリコプターの方へ飛びついてくるのであった。

 ヘリコプターはテール部分を屋上の外へ出して着陸した。そうしないと機体の後方にも人が群がってくるので、危険だった。中にはスキッドにぶら下がる人もいた。そのうち3機の民間ヘリコプターが応援に駆けつけた。そこで警察機は人の搬送を応援機にまかせ、自分は交通整理をする役に回った。

 やがて一定方向に旋回する飛行パターンができて、応援機も増え、ヘリコプターは次々と屋上の人びとを救出し、搬送した。ときには1機が屋上で人をのせている間、別の1機がすぐそばでホバリングをつづけ、噴き上げてくる煙を吹き飛ばした。およそ1時間半で、屋上にいた人びとは全員がヘリコプターで運び出された。一時は9〜12機のヘリコプターが救出輸送にあたった。そこには民間機、公用機、軍用機が混じり合っていた。

 この間、警察のヒューズ500は上空にあって、交通管制をしていた。ある軍用機のパイロットは後に、このときのもようを「せまい空域で、いっぺんに10機前後のヘリコプターが飛び交うのだが、あらかじめ全機のパイロットが集まって3時間の会議で打合わせをしても、あれほど見事に統制の取れた動きはできなかったであろう」と語っている。

 屋上からのヘリコプター救出が終わる頃、火災も下火になった。しかし、これほど早く消火できなければ、もっと多くの人が屋上からヘリコプターで脱出しなければならなかったかもしれない。ヘリコプターで救出された人の中には、ひどい怪我をしている人や、煙を吸い込んで呼吸困難になっている人もいた。ヘリコプターは酸素吸入器を屋上へ運び上げて応急手当をした。

 屋上からの救出が終わって、警察のヒューズ500がホテルの周りを一周すると、まだ多くの人びとが窓から手を振って助けを求めていた。ヘリコプターはスピーカーを使って、空中からその人びとに呼びかけ、そのまま部屋にとどまるように注意と指示を与えた。

 空軍のCH-53大型ヘリコプターは高層階から張り出したバルコニーから人を救出した。同機は屋上よりも高いところでホバリングしながら、建物の壁沿いに吊り上げ用のホイストを降ろした。ところが建物の上方で張り出しているバルコニーが邪魔になって、その下のバルコニーに届かない。やむを得ず、ホイストの綱を振り子のように振って、先端の篭を救助を求める人の所へ届かせるという離れ技も見せた。バルコニーの人は、横なぐりに飛んできたロープが近くにくると、それをつかんで手もとにたぐり寄せ、一時に1〜2人がホイストの篭の中に入って吊り上げてもらうのである。

ヘリコプター脱出は最後の手段

 しかし後になって振り返ってみると、MGMグランド・ホテルの火災におけるヘリコプターの利用には、いささか論議のあるところである。

 なるほどヘリコプターは屋上に逃げ出してきた人の全員を救出した。しかし実は、ヘリコプターが屋上から人を救出しているの見て、自分も部屋から出て、屋上に行く途中で煙に巻かれて死んだ人がいるかもしれない。この際は、むしろ部屋の中にいた方がよかったのである。

 もうひとつヘリコプター救出の成功が余り喧伝されると、人びとは将来、高層ビルの火災は屋上に逃げた方が安全という誤った考えをもつようになるかもしれない。実際は出来るだけ階段を使って階下に逃げた方が助かる率は高いのである。MGMの火災から間もなく、ニューヨーク消防局は警告を発して、今後、高層ビルの火災が起こった場合、ますます多くの人が屋上に逃げようとするであろうが、屋上からヘリコプターで脱出するのは危険を伴ない、時間もかかるから、これは最後の手段と考えるべきであるとした。

 消防局は口をそろえて、高層ビルの中で火災に遭ったときは「下へ、外へ」という原則を忘れてはならないと警告している。理由の第一は、屋上に上る方が煙や炎に出逢う可能性が高い。第二に狭い屋上で恐怖にかられてヘリコプターへ殺到すると、尾部ローターに触れるなどの危険が大きい。

 したがって、高層ビルの火災に際して、屋上からヘリコプターで救出するかどうかは、消防責任者の判断によって決めるべきである。判断の根拠は建物の中の人が危険な状態にあるかどうかということ。MGMの場合は、たしかにうまくヘリコプターで救出できたけれども、屋上に逃れ出た人びとは必ずしも危険な状態にはなかった。こうした判断基準は、MGM火災の時は誰も意識していなかったが、これからは考慮すべき問題だということになった。

 また緊急離着陸場は草地または舗装地が望ましい。MGMのときのような砂地ではローターのダウンウォッシュで小石が飛び、ほこりが舞い上がる中で、怪我人の手当をしなければならなかった。さらにローター音がやかましくて消防隊員の間で話ができなかった。これらの問題は機体が大きくなるほどひどくなる。大型機は輸送能力はあるが、ダウンウォッシュが強く、騒音が大きいので、地上では扱いにくいという問題がある。

 救出作業にあたっては通信連絡も重要である。ヘリコプター同士の空対空、空対地無線などの周波数を確保し、地上からはヘリコプターに向かって着陸地点の誘導をしたり、何か新たな指示を伝える必要が出てくる。

 逆に、MGMグランド・ホテルの火災では、幸運な要素もいくつかあった。第一は天候が良くて、風がなかった。第二は火災の発生が日の出の後だった。第三はすぐ傍のネリス空軍基地に9機の軍用ヘリコプター――CH―53大型機が3機とUH―1N中型機6機――が臨時に飛来していて、すぐに使うことができたのである。

 

再びラスベガスでホテル火災

 MGMグランド・ホテルの火災から3か月も経たないうちに、再びラスベガスのホテルで火災が起こった。1981年2月10日午後8時、今度はラスベガス・ヒルトンが災上したのである。このホテルは当時、米国最大のホテルであった。

 火事は30階建ての建物のうち、3分の2以上に当たる22フロアを燃えつくす大火で、犠牲者は死亡8人、怪我350人となった。火災は8階のエレベーター・ロビー付近からはじまり、外壁を伝わって上下の階層へ燃え広がった。数分後に消防隊が駆けつけたときは、数階のフロアが火に包まれていた。

 宿泊客のほとんどは階段で逃れた。脱出の途中で多くの人は煙に出逢った。中には煙に追われて屋上まで階段を駆け上り、ヘリコプターで救出された人もいた。最後まで室内にとどまり、ドアをしっかり閉じて、火炎が去り、救助隊がくるのを待っていた人もいたが、そういう人の中で死亡者は1人もいなかった。

 消火と人命救助のために出動した消防車は23台、はしご車6台、救急車9台、そしてヘリコプターは12機であった。そのヘリコプターで屋上から救出された人は36人。救出人数がMGMグランド・ホテルのときほど多くなかったのは屋上に逃げてきた人が少なく、ほとんどの人は階段から脱出したり、部屋の中に閉じこもったからである。このときもメトロ警察機は上空から交通管制の指示をして、人の救出に当たるヘリコプターの交通整理をした。

煙に巻かれながら片足着陸で救出

 1986年12月31日の大晦日の午後、プエルトリコのデュポン・プラザ・ホテルの火災でもヘリコプターが活躍した。このときの死亡者は97人、負傷者は146人。地上20階建てのホテル屋上は機械室や大きな看板やアンテナが立っていて、とてもヘリコプターが着陸できる状態ではなかった。おまけに激しい火煙と熱が建物の外に噴出し、壁沿いに上昇気流をつくって、ヘリコプターの飛行をさまたげた。そのためヘリコプターの着陸は無理と思われ、最初に飛んできた警察機は着陸を断念したが、2機目の民間ジェットレンジャーは、煙に巻かれながら建物の縁に片足をつけただけの着陸で人びとを救い上げた。

 それから警察機もそれにならい、やがて米海軍の2機のCH―53大型ヘリコプターと、沿岸警備隊のSA365ドーファンがやってきて、ホイストとバスケットを使って吊り上げ救助をはじめた。その方が片足着陸で人をのせる小型機より安全であった。

 このとき屋上にいた200人以上の人びとは、パニックになったMGMホテルのときとは対称的に、あたかもバスを待つ列のように整然と救出を待っていた。それというのも、1人の警官がいて人びとを落ち着かせ、ヘリコプターが近づくと、次に乗るべき人を指名していたからである。

 だが、このときもまた、火事がおさまり、屋上にいる人の危険がなくなってからも、ヘリコプターは救出飛行をつづけた。これは後に、中止すべきだったと判定された。

 日本では昭和38年、池袋のデパートにヘリポートがあったとき、そのデパートが火事になった。店が休みの日だったのが不幸中の幸いだったが、このとき屋上に逃げてきた人びとをヘリコプターにのせて近所の立教大学グランドへ避難させた事例がある。機種は2〜3人乗りのベル47GまたはG-2だったが、屋上ヘリポートは幅30m、長さ100mほどの大きなもので、普段から報道取材基地として使われており、その点での条件はよかった。

 近年は消防庁と建設省の指導によって多くの高層ビルに緊急用の離着陸スペースが設置されている。これは一種の非常口であり、しかも最後の非常口であることを承知しておく必要があろう。同時にまた、この非常口からの避難訓練または消防士を送りこむための発着訓練を、年に1回か2回は実施しておく必要があるのではないか。高層ビルてっぺんのせまい場所で、いざというとき、どの程度の活動ができるか、それは普段からの準備と訓練にかかっているのだ。

(西川渉、98.9.15)

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