<鳥衝突>
ハドソン川の奇蹟 去る1月15日、USエアウェイズのエアバスA320旅客機がマンハッタン西側のハドソン川に不時着した。同機は午後3時26分ニューヨークのラガーディア空港を飛び立ち、その直後に鳥の群れにぶつかったらしい。
両エンジンが同時に停止した。機長の通報に対して、管制官はそのまま真っ直ぐ飛んで、前方のティータボロ飛行場に着陸するよう指示した。しかし機長は、それでは危険が多いと判断し、咄嗟に左旋回してハドソン川への着水を決断、5分後に西48丁目の前にディッチングした。
乗っていたのは155人。うち乗客が150人、それに機長と副操縦士、そして客室乗務員が3人である。
川面が近づいたとき、機内では悲鳴を上げる人もいた。多くの乗客はひざの間に頭を入れた。何人かは小さな声で祈りの言葉をつぶやいていた。「神よ、わが罪を許したまえ……」
川面に不時着したUSエアウェイズ機は、サレンバーガー機長の希有な神業(かみわざ)によって、乗っていた155人の誰1人死亡することもなかった。多少のけが人は出たが、それも軽傷であった。ひとり客室乗務員が脚を折る怪我をした。
のちに米運輸安全委員会も「航空史上最もみごとな着水のひとつ」としている。
水面に浮かんだ機体から脱出した乗客たちは、翼の上に立って救助の船がくるのを待った。気温はマイナス7℃、水温はプラス5℃。
岸壁には遊覧船が客を待っていた。事故を知った船はただちに遊覧客を置いたまま、現場に向かった。
飛行機の乗客の中には水に落ちて、おぼれかけている女性もいた。駆けつけた救助船から1人の男性が水に跳びこみ、その女性をひっぱって別のボートに押し上げた。
かと思うと、毛皮のコートを羽織った1人の女性が、そばに立っていた見知らぬ乗客に声をかけた。「座席に財布を忘れてきたわ。取りに行って貰えません?」
サレンバーガー機長は58歳。乗っていた人びとが全員脱出するのを待ってキャビン通路を2往復し、機内に誰も残っていないのを見届けて外に出た。機体はすでに沈みかけていた。救助の船に乗り移るとき、機長の手には乗客名簿をはさんだクリップボードがにぎられていた。
遊覧船の待合室に入った機長は髪も乱さず、きちんと帽子をかぶり、青い制服にはしわひとつなかった。そして何ごともなかったような顔をして椅子に腰をおろし、静かにコーヒーをすすった。
すべては、わずか10分間の出来事だった。
原因は鳥衝突だったらしい。大型の鳥の群れに突っ込んだもので、避けようがなかった。
機械の故障とかパイロットのエラーであれば、航空事故はすぐ裁判沙汰になるが、鳥が相手では裁判にならない。今回の事故は訴訟問題のない例外中の例外的な事故になるかもしれないといわれる。
ただラガーディア空港は昔から鳥が多くて、障害になることが多い。そのため、ケネディやラガーディアなどニューヨーク周辺の空港を運営するニューヨーク・ニュージャージー港湾局は何故もっと完全に鳥を排除しないのかと、責任を問われるおそれもある。もとより港湾局も鳥を追い払う努力を重ねてきたが、これが意外に難しいのである。
もっとも別の意見では、US1549便は空港からかなり離れて、高度3,000フイートまで上がったところで鳥にぶつかった。そんな遠くて高い空域まで空港は責任がないはずという見方もある。
もとより乗客の手荷物は駄目になった。そのためUSエアウェイズは取りあえずの見舞金として1人5,000ドルずつの小切手を渡した。今後どうするかについては、もとより未定である。
機長の素晴らしい腕によって救われたのは、乗客ばかりでなかった。会社も同じように救われたのである。もしもこのとき乗客の半数が死んだり、残りの多数も重傷を負ったりしていれば、その補償金は莫大な金額になったであろう。これまで2度も破産法の適用を受け、そうでなくても経済不況の現在、会社として耐えられたかどうか分からない。
先週の英「エコノミスト」誌が、羽根のように軽くて柔らかいものと金属のように重くて硬いものがぶつかるとどうなるかという問題を書いている。もちろん硬い方が勝つに決まっているようだが、実際は上に見たように、硬い方が負けて恐ろしい結果になる。とすれば鳥と飛行機を引き離して、ぶつからないようにしなければならぬが、それにはどうすればいいか。
鳥衝突は、その6割が高度100フイート以下の離着陸のときに起こる。逆に高度3,000フイート以上では8%以下である。とすれば、今回のUSエアウェイズの事故は珍しい例かもしれない。
A320のエンジンは、4ポンドの物体を時速400キロでぶつけたくらいの衝撃に耐えられる。やわらかい鳥ならば8ポンドくらいまで大丈夫だろう。それでも、エンジンが停まったとすれば、それ以上に大きな鳥だったにちがいない。
おそらくカナダから飛んできたマガンのような鳥ではなかろうか。この鳥は、かなり高いところを飛ぶ鳥で、衝突高度からみてもつじつまが合う。
アメリカでは2007年、民間機と鳥の衝突は7,600件も起こった。損害額は4.6億ドルに上る。本当は恐らくもっと頻発したはずで、ほとんどは鳩やヒバリのような小鳥だから問題にならないのであろう。
飛行機の風防はかなり頑丈につくってあり、4ポンドくらいの鳥がぶつかっても、ひびも入らない。
問題はエンジンに鳥を吸いこんだ場合だが、そのために発火したり爆発したりするようなこともない。安全に停止するだけである。それも片方だけの停止がほとんどであろう。
鳥衝突のために命をなくした人は、アメリカで過去20年間に219人であった。
今回の事故を見て、多くの人はエンジンの空気取り入れ口に金網のようなものを張ればいいのではないか。バキューム・クリーナーだって何だって、たいていのものには異物や汚物を排除するためのスクリーンがついているのに、何故ジェット・エンジンにはついてないのか。そんなことを考えたにちがいない。実際、そういう設計基準を法制化するように発言した議員もいる。
けれどジェット・エンジンは非常に強力なので、その前方に何か機械的なものを取りつけると、たちまち吸いこんでしまい、鳥衝突以上の危険を招く。
あるいは吸いこまれないような頑丈なものができても、金網の後方に渦ができて気流が乱され、コンプレッサーが失速するなどして本来の推力が発揮できなくなる。
しかし小鳥でも、エンジンに吸いこまれ、タービンのファンにひっかかれば、空気の流れを乱して、ファンを失速させる。やはり最良の策は、鳥と飛行機を引き離しておくしかない。
そのため過去何年にもわたって、さまざまな方法が試みられてきた。空砲、花火、レーザー、超音波、フクロウの剥製、ラジコン飛行機などなど。しかし、どれも決定的な解決策にはならなかった。
最近、有効とされた対策のひとつは、飛行機の翼に強力なストロボ・ライトをつけて、離着陸のときにそれを点滅させるというやり方。それを考案したプリサイス・フライト社は、鳥衝突の件数が半減したと報告している。
空港の表面を全面舗装して、土や草をなくしてしまうのも一案である。地面の虫がいなくなるので、それを食べる鳥もこなくなる。しかし莫大な費用がかかるであろう。
鳥の群を、管制塔のレーダーで見張るのはどうかという考えもある。けれども管制用レーダーに鳥は映らない。鳥は無線発信機を持っていないからだ。
しかし雲の影を映す気象レーダーには、時おり鳥の群れが映ることがある。そんなときは無論パイロットに助言する。将来は、この気象レーダーの影を管制レーダーに重ねることも考えられるが、今のところ実用になっていない。
あるいは、鳥を補食する犬やハヤブサを飼うのもよかろう。けれども訓練が大変だし、調教師や鷹匠が四六時中ついていなければならない。
また鳥をおどかすために、鷹の格好をした凧を揚げる方法もある。しかし多分、鳥はすぐ慣れるにちがいない。それに凧と飛行機がぶつかったらどうする。
とにかくパイロットにだけは、焼き鳥をつくらせないようにしなければならない。
日本は昔から水田にやってくる雀を追い払うのに苦労をしてきた。最近は田んぼに縄を張りめぐらし、要らなくなったCDの円盤を沢山ぶら下げてキラキラ光らせたりしている。
家庭のゴミ出しにもカラスがやってくるので、網をかけたり、袋を黄色くしたり、さまざまな工夫がなされている。それでもカラスは網を持ち上げたりして、中身をほじくり出す。
あれこれ考えて、私は日本古来の知恵にならい、空港に案山子(かかし)を立てたらどうかと思うのだが。
(西川 渉、2009.1.26)
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