持ち物検査の考え方

 

 「アエラ」(朝日新聞社刊)という雑誌は、中味は知らず、広告が面白い。端っこの方に、そのときどきの社会現象が駄洒落で風刺してあり、最近の傑作は、

  セッタイやっておりません

  ピチピチしゃぶしゃぶランランラン

  サダム君は、持ち物検査が嫌いです

といった具合。

 子どもの持ち物検査については文部大臣以下、各地の教育委員会も学校の先生も、手こずっているように見える。子どもの抵抗が意外に大きいためで、「何だか自分が疑われているようで不愉快だ」というものや、「プライバシーの侵害だ」とか、もっと大げさに「人権」という言葉を使う生徒もいる。

 もっともプライバシーとか人権などというのは子ども自身の考えではなくて、一部の大人の入れ智恵であることは間違いないし、不愉快というのは感情に過ぎない。そんな入れ智恵や感情に押されて、ナイフを振りかざして女の先生を殺したり、ほかの子どもを脅したり、コンビニ強盗を働くような事態が放置されたままでいいのだろうか。

 

 持ち物検査といえば、旅客機に乗る前の保安検査もまぎれもない持ち物検査である。あれも考えようによってはプライバシーや人権の侵害ではないのか。それでも子どもたちのように文句を言う人がいないのは何故だろうか。

  その理由を考えてみると、ひとつは全員が検査を受けるからであろう。もうひとつは乗客の1人ひとりが疑われているわけではないからである。

 言い換えれば「お前が疑わしいから検査をする」といわれているわけではないのである。逆に自分が疑わしくないこと、怪しいものではないこと、潔白であることを証明してもらうために検査を受けるのである。そして、証明を受けた人だけが、お互いに安心して飛行機に乗り合わせるのだ。

 おかげで、われわれは機内で「隣の男は目つきが怪しいけれども、ひょっとしてハイジャックではないか」などとあらぬ疑いを抱く必要はないし、また金属探知器の前に立って「おれは清廉潔白だ。持ち物検査をするなどはけしからん」などと威張ってみてもしょうがない。飛行機に乗せてくれないだけのことである。

 

 繰り返すけれども、保安検査というのは職務質問や不審尋問ではない。職務質問は疑わしい人物を見つけた警察が「こいつは怪しいぞ」と思っておこなうものだが、保安検査は逆に疑わしくないことを証明するための検査にすぎない。

 子どもの持ち物検査も同じである。何人かの疑わしいものだけを検査すれば反発を招くであろう。そうではなくて全員を検査して、それも機械的、事務的にたんたんとやって、お互いに疑心をぬぐい去り、凶器を持っていないことを証明するのが目的なのである。

 かつて、われわれも空港の保安検査が導入された当時、何だか人格を疑われているような嫌な気分になったものだが、あれは単に不慣れであったと同時に、持ち物検査に対する受け取り方を間違えていたのである。むしろ人格を証明して貰うための検査と思えばいいのである。

 といって、本当に時限爆弾をもっていれば、そんな悠長なことは言っておれない。潔白の証明どころか御用となるであろうが、それは当然のこと。凶器を持った子供を御用にもできずにうろたえてばかりいる現状は、まことに情けない限りである。

 しかし、もっと情けないのは、子どもたちがこんな検査を受けなければならないような現状である。これは「セッタイやっていません」とか「ピチピチしゃぶしゃぶ」などと揶揄される大蔵官僚や、不正な株取引きを隠しつづける新井将敬や、前言をひるがえす元検察の大蔵大臣や、「大臣からの指示がなかった」などと開き直る大蔵次官など、大人たちの責任であることは間違いない。本当は、こういう連中の検査こそ、もっと厳しくしなければならないのだが。

(西川渉、98.2.13)

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