<西川修著作集>

梅天妖言

 無暗におぱけや幽霊がこわかった時期がある。小学校の三、四年の頃であった。文字を見るのも恐ろしかった。辞書などでも幽霊という文字のある頁はあけるのがいやであった。

 そればかりでない。自分で書いたものでさえ恐ろしかった。新らしい雑記帳を買って貰った時に、どういう気持であったか一頁全体に大きなばけものの顔を書いた事がある。所が自分で描いたものながら、ぬるりとして凸凹のある頭の形、すがめに人の顔をうかがっている様な不気味なまなざし、少し歪んだロの辺りなど、如何にもなまなましく恐ろしくて慌ててその雑記帳を机の抽出に抛り込んだまま二度と開けて見る気がしなかった。

 何か人間の眼に見えぬ怪しいものが、その辺りに充満していて、たまたま私の鉛筆の先を仮りてにわかにこの世に姿を現したように思えた。

手の怪

 一体、手というものも、怪異的要素を持っていないとはいえないようだ。

 亡くなった私の母は、子供達に、時々自分の見た夢の話をしたが、その中にこんなのがあった。「親しい家を訪ねて、家の人がまだ出て来ないので、玄関に立って待っていると、前の襖が少しあいて、そのあいた所から非常に大きな人間の手が見えた。驚いて、家の人が出て来てから、あの大きな手は何ですかと尋ねたところ、その奥さんが襖をあけて見せてくれた。室内には五つ位の子供が居たのだが、その子供の手だけが馬鹿ばかしく大きい。わけをきくと、其の子が病気か何かで手を切断したので、人工の手、義手をつけているのだが、義手では大きくならないから、大人になってからでも差支えないようにわざと大きな手をつけたのだと説明した」という。母は手真似でその手の大きさを示したが、それは野球のグローブ位もあった。何となく無気味な感じで、この夢の話はいつまでも記憶に残った。

 母の話した夢の中には、恐ろしいような感じのが多かった。吉夢を人に話してはいけない。折角の幸がなくなってしまう、悪い夢はなるべく早く人に話してしまえば凶事から逃れるという言いつたえを母から聞かされたことがあるが、そんな関係で変な夢の話を多く聞かされたのかも知れないが……。その中にもう一つ手の夢がある。母が障子がIケ所破れているのに気づいて、それを気にしながら寝ていたら、夢に、その破れから、細い蒼白い手が出て招くように動いている。傍で仕事をしてにいる女中に「あの手は何だろう」と聞くと女中はすぐに立って見に行ったが、「障子の外の廊下に幽霊が立っていて、手だけ出しているのです」と答えたという夢である。その話を聞いてから、そこの廊下は私にとって恐ろしい所になった。

 手ではないがこんな夢もあった。母がもう最後の病床に就いてからだったと思う。「赤い頭巾をかぶった小さな気味のわるい爺さんが出て来て、こわい顔をして棒の様なもので腋の下をくすぐる。いくらやめてくれといっても、いつまでもいつまでも追いかけて来てくすぐるので、苦しくて苦しくてうなされて眼が覚めた……」というのである。間もなく母が歿くなったためか、あるいは母がこの夢の話の際に死の予感について語ったのであったか、子供の私にはこの気味のわるい老爺は死の使者のように思われて、自分が死ぬ時もその前にこんな異形のものが苦しめに来るのだろうかなどと考えた。

 今こうして書きつけて、改めて考えると、この夢は、死とは全く違った解釈が出来るように思えるのだが。

黒い蝶

 母が亡くなった時は梅雨のさなかであった。私は手の影絵におそれた時より少し成長して中学の一年になっていた。その前日少し容態が変ったので、学校に知らせが来た。ことのほか厳格な学校で、規則ずくめ、先生もいつも苦虫を噛みつぶしたような顔をしている人が多かったが、母の病気が悪いので早退して帰るというのを聞いて、先生の顔色の底に憐愍のかげが動いているのを見て私はむしろ腹が立つ思いだった。なまじっかな同情をされると母は本当に死んでしまうぞという気がしたから。

 私は本当に無力な同情や、あわれみなどは一かけらも要らない、ただ高貴な力強いものが颯爽と現われて奇蹟を示して母を甦えらしてくれないだろうかと、ひたすらに願った。その散日前、当時侍医であったなにがしという国手が診察に来られて、肺にはもうこんな大きなあなが幾つもあいて居ますよ、こんなになる前にどうしてもっと良い手当をしなかったのか、と非難めいた口調でずけずけと言って帰って行ったのを、私も傍で聞いていたから、私達はもう不幸の日を空しく待つだけのよるべない状態だったのである。

 早退して帰った日はしかしまだ不幸は訪れなかった。けれども、その夜は周囲の状況などあまり分らないようだった。今までとは別人のような無気味な声を挙げて何かを訴えるように語りつづけたりしたが、その内容も良く理解出来なかった。

 翌日は小康だったのだろう。気分もよさそうで話も出来た。今の様子なら大丈夫だから学校に行きなさいと伯母達がすすめたが、また呼び返される惨めな気持が厭だったから、学校に行く気になれなかった。午後になると何となく空気が慌しくなった。病室には子供はなかなか入れなかったが、いよいよ重大な時の迫っているのはよく分った。終日降り続いた雨がやまないまま夜に入って、十時近くなって病室に呼び入れられた時、母は臨終の迫った呼吸を喘いでいた。時々褐色の血か何か分らない液体が口角を伝うように吐き出された。母は時々不安そうに眼をあけたが、あまりよく見えないようだった。ただ一度不馴れな連中が酸素吸入器を扱っているうちに、どうしたはづみか其の辺にあった布や紙に引火してバッと燃え上った時に、怯えたよりに大きく口を開いた。人々は慌てて火のついたものを二階の縁から梅雨の降りそそぐ庭に投げおとしたが、死の迫った母の眼に、その炎が何と見えただろうかと胸が痛んだ。

 母との別れはそれから間もなくであった。呼吸が間遠になったと思うと、音もなくすっと何かの影が顔の面を覆ったような気がした。傍についていてくれた老人の退役軍医が「御臨終です。」と告げた。子供達は順々に、筆に水を含ませて母の唇を湿して別れを告げた。私が筆で唇を撫でた時、母ののどの奥から幽かな「アゝ」という声が洩れた。その時母はまだ生きていると私は思った。しかしそれ限りであった。もう母は声を出さなかった。この事はしかしその後何年も私の心をかすめては暗い思いにさせた。あの時直ぐにもう一筆の水を含ませたら母は生き返ったのではなかったか。母を殺した責任は自分にあるのではないか……ともすればそういう思いに責められたのである。

 私達が母に永別して病室から廊下に出た時、ふと気が付くと廊下の柱の一番上の高い所に、天井板に接して、黒い大きな蝶が羽を拡げてとまっていた。それは死の使者にふさわしく見えた。

 この黒い蝶はもう一度私の眼の前に現われたことがある。三ヶ日だというのに何のために青山墓地の中などを歩いていたのかはっきり分らない。どこかに年賀に行った帰りだったかも知れない。私は兄と墓地の中の小路を歩きながら、見わたす限りの墓むらを眺めて、こんなに沢山人は死ぬのに我々のきょうだいは六人揃って一人も欠けていないなどと要らざる感懐を述べたものである。その時我々のすぐ背後に死神が立って声高らかに笑った……に違いないと思う。何故かといえば、あけて六つの幼い妹が急死したからである。

 その妹は母の死んだ時四つであった。多分母の病気も感染していたのではなかろうか、弱くて絶えず病気をしていた。母を失った幼児が雇人達だけの手で元気に育つのはなかなかむつかしい事だと思う。まして病弱の妹は、随分誠実に世話をしてくれる女中達もあったのだが、結局六才の正月早々亡くなった。「もうすぐお正月よ、お正月になったら六つになるのよ」と姉がいうと妹は「六つは厭、五つの方がよい」などと答えたが、これも箴をなしたのであろうか。

 その時は冬であったのに、妹の亡くなった室の次の間の天井に近い高い所に、この時も私は、羽を拡げた黒い蝶が静かにとまっているのを見た。私は愕然とした。

 (西川 修、大塚薬報、1956年6月)

 

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