わが国のコミューター航空は、いつ頃から始まったのだろうか。いろいろな見方があるけれども、ここでは運輸省の準拠している基準に照らして、昭和52年(1977年)の航空局長通達「不定期航空運送事業者が飛行機を使用して行う二地点間旅客輸送」にはじまると考えることにしたい。むろん当時は「コミューター航空」などという言葉はなかった。しかし現在なお同じような基準にもとづく二地点間旅客輸送をコミューター航空と言いならわしていることからすれば、その発端は丁度20年前ということになる。
ちなみにアメリカでは1969年、それまでエアタクシーとして飛んでいた小型機による不定期便またはチャーター便の運航を定期化してもよいこととし、航空法に規定したことにはじまる。わが国より8年前のことであった。
こうして始まった日本の二地点間旅客輸送は当初、離島路線に限られ、使用機材は客席一五席以下、乗客は離島の住民または離島出身者に限定し、宣伝をしてはならないといった厳しい条件がついていた。これらの条件は、その後、少しずつ緩和されていくが、この時期、いわば「暗中期」は10年近く続いた。この間に日本内外航空(昭和52年)、新中央航空(53年)、長崎航空(55年)、日本エアコミューター(JAC、58年)が発足している。
次のコミューター航空発展へのステップは1985年(昭和60年)末、新しい航空局長通達が出たときである。使用機材の大きさが60席まで拡大され、事業者の資格も緩和された。同時にヘリコプターによる旅客輸送も認められる。以来数年間は「模索期」といえるであろう。全国自治体の輿望をになって、琉球エアコミューター(昭和62年)、西瀬戸エアリンク(62年)、シティ・エアリンク(63年)などの運航がはじまった。
1990年代に入ると、もうひとつ新しい展開になる。それは91年にJ-AIRが西瀬戸エアリンクを継承して運航を開始、続いて中日本エアラインも路線を開設した。94年には兵庫県但馬空港が開港してJACが伊丹〜但馬間にサーブ340B機を飛ばすようになり、同年9月には関西国際空港の開港と同時にJーAIRが乗り入れをはじめた。これで伊丹および関空という二つの重要なハブ空港にターボプロップ・コミューター便の乗り入れが実現した。この数年間を、いわば「黎明期」と呼ぶことができよう。
こうして20年間の長い準備段階を経てきた日本のコミューター航空は、90年代後半に入った今、ようやく「発展期」を迎えた。
発展期と名づける理由は、ひとつはコミューター航空の背景に大手エアラインの存在が大きくなってきたことである。むろん大手を背景としない独立事業もあるが、大きな空港でカウンターを設け、予約発券システムをコンピューター化し、幹線への円滑な乗継ぎと乗継ぎ割引きなどの方策を採用して利用者の利便性を高め、需要の拡大をはかるには、どうしてもエアラインとの連携が必要になる。その場合、特に日本では資本的なつながりが重要になってくるが、そうした準備がようやく整ってきた。
もうひとつは規制緩和である。この問題は現政権の最重要課題だが、その方針に沿って運輸省も従来の航空政策を大きく転回しようとしている。年末のテレビ画面でも、航空局長みずから「われわれとしては競争を少しでも促進しようという方向へ舵をいっぱいに切ったということです」と語っていた。この談話は幹線航空を考えたものだろうが、その影響や効果は直ちにコミューター航空にも及ぶであろう。
ただし、その影響が良い結果をもたらすか、悪い結果になるかは、議論の分かれるところである。かつて『文芸春秋』は1994年8月号で「規制緩和という悪夢」と題して、アメリカのコミューター航空を引き合いに出しながら、規制緩和の先にあるのは決してバラ色の未来ではない。日本人は辛酸を嘗めることになるであろうという警告を出した。
あの匿名論文は、航空の自由化によって職を失ったスチュワーデスのインタビューなどから規制緩和は悪夢であるとしていた。しかし、1978年以来の米コミューター航空がどのように発展してきたか、本誌の読者には今さらいうまでもない。
再確認のために表1を見ていただくと、乗客数は5倍、旅客輸送距離すなわち事業規模はほぼ9倍である。たしかに悪夢論のいうように会社の数は減ったが、これは合併統合が進んだためで、業界規模が拡大していることからすれば個々の従業員が失職したまま、いつまでも再就職できないような状況ではあるまい。
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1978年 |
1995年 |
伸び(95/78年) |
運航会社数 |
228 |
124 |
104社減 |
乗客数(万人) |
1,130 |
5,720 |
5.06倍 |
旅客輸送距離(億人マイル) |
13.5 |
127.5 |
9.40倍 |
乗入れ空港数 |
681 |
780 |
99か所増 |
使用機材数 |
1,047 |
2,138 |
2.04倍 |
平均座席数(席/機) |
11.9 |
24.6 |
2.07倍 |
平均稼働時間(時間/機/年) |
1,080 |
2,179 |
2.02倍 |
現に使用機数も機体の大きさも一機あたりの稼働時間もすべて2倍ずつに増えた。したがってパイロット、整備士、スチュワーデスなどの職場は、機数に比例するならば2倍、飛行時間に比例するならば4倍になったはずで、現実はその中間くらいであろう。
哀れなスチュワーデスの話は確かに同情に値いする。けれども自由化直後のアメリカで航空会社をつくった資本家や企業家の中には、航空事業そのものが目的というよりも会社をつくって売買を繰り返し、そこから利益を得ようという人もいた。その種の企業家を例に出して制度が良くないというのは、特別養護老人ホームをタネによからぬことを企んだ業者と官僚がいたようなもので、だからといって今後、高齢者福祉対策をやめてしまうわけにはいかないであろう。
おまけにあの論文は同年11月号に続編が出たが、そこでは同じRAA(米地域航空協会)の統計を引用しながら、何故か業界規模の拡大を示すような数字を出さず、航空会社の数と乗入れ空港数の推移をグラフにしているだけであった。しかも奇妙なことに数字の一部がRAAの公表数字とは異なっていた(私はこれを改竄と見ている)が、それをもって規制緩和は悪夢という論拠にしていたのである。
それはともかく、コミューター航空は基本的にはごく狭い地域の少数の乗客を相手に小型機を運航するものである。したがって小回りのきく柔軟な運営が必須である。もとより安全を損なうようなことがあってはならないが、機数、便数、運賃、割引制度など、少なくとも経済的な面に関しては自由に変更できることが望ましい。規制緩和も先ずはそのあたりから着手すべきであろう。
もうひとつ、コミューター航空の発展を予測させる要因は、世界的な動向である。いかにアメリカのコミューター航空が盛んだからといって、日本も同じように行くとは限らないという人も多い。けれども、今後ますます生産性の高いコミューター機材が登場し、世界の多くの国々で発展し成長する傾向が見える中、日本だけが鉄道や道路などの公共交通機関が充足されたとはいえ、コミューター航空事業が今のまま頭打ちということは考えにくい。
ちなみに、これまで欧米のコミューター航空は通常の定期航空を大きく上回る勢いで伸びてきた。たとえば米連邦航空局(FAA)の統計では表2の通り、1989年から94年にかけてアメリカ国内定期航空の乗客数および旅客輸送距離はほぼ1.1倍である。それに対しコミューター航空の伸びは乗客数が1.6倍、旅客輸送距離が2倍近い。
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1989年 |
4.156億人 |
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3,210万人 |
56.3億人マイル |
1994年 |
4.720億人 |
3,714億人マイル |
5,360万人 |
111.1億人マイル |
伸び |
1.14倍 |
1.13倍 |
1.67倍 |
1.97倍 |
また欧州地域航空協会(ERA)の集計では、表3のように過去7年間で平均16.7%という高い成長率を示した。
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1988/87年 |
20.0% |
同様に日本も、『運輸白書』によれば、この数年間に表4のような伸びを見せている。すなわち乗客数とそれに対応する提供座席数は5年間で2.5倍以上になったが、これは表2に示した米コミューター航空の実績を上回る伸びである。
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(6/2年) |
路線数 |
21 |
22 |
29 |
39 |
50 |
2.4倍 |
そして、これからも、たとえばFAAの予測では表5のような伸びになるという。すなわち旅客数および旅客輸送距離は2004年までの10年間に2倍前後になるというのである。同じように欧州の地域航空も、ERAは表3同様の傾向が今後も数年間は続くと見ている。
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1989年 1994年 |
3,210万人 5,360 |
111.1 |
1,782機 2,179 |
20.4席 23.7 |
2,454時間 2,986 |
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1999年 2004年 |
7,650 10,370 |
174.9 249.8 |
2,695 3,109 |
28.4 33.1 |
3,586 4,247 |
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1.9倍 |
2.2倍 |
1.43倍 |
1.40倍 |
1.42倍 |
欧米の先進地域でこうした伸びが予測されるとすれば、日本でも同じような傾向、もしくはそれを上回る成長をするであろう。
こうした傾向は機材面からも、ほぼ同じように見る予測が多い。たとえばFAAは表5のように、1994年の米国におけるコミューター機を2,179機と把握し、10年後の2004年には3,109機になると見ている。1.4倍の増加である。しかも一機あたりの座席数は23.7席から33.1席へ1.4倍となり、飛行時間も一機平均2,986時間から4,247時間へ、これまた1.4倍の増加をするという。この三つの倍率を掛け合わせると、運航規模は10年間で2.8倍になるという見方である。
とりわけFAAの見方で特徴があるのはコミューター・ジェットの増加を予測している点である。これによって乗客のコミューター航空に対する信頼性が高まる。同時に大型ジェット旅客機の飛んでいた路線で、乗客が少なく、採算の取れないところにはコミューター・ジェットが肩代わりして就航するといったことがおこなわれる。この小型化によって便数が増え、利便性が向上し、採算も合うようになる。これは合理化をめざす大手エアラインの営業戦略にもとづくものだが、こうしたことから大手エアラインとコミューター航空との結びつきはますます強固なものになり、コミューター航空業界の規模をさらに拡大する要因にもなろう。
事実、米国のコミューター航空業界では、かねてからカナディア・リージョナルジェット(CRJ、旅客50席)を使ってきたコムエアが同機の発注数を75機まで伸ばし、コンチネンタル・エクスプレスは去る九月のファーンボロ航空ショーで、ブラジル製EMB-145双発ジェット(50席)を一挙200機発注した。今年に入るとアトランティック・サウスウェスト航空も90機のCRJを発注している。
そして今、ボンバーディア社では70人乗りのコミューター・ジェット、CRJ-Xの開発着手が間近にせまり、欧州でも同じ70席の双発ジェット、AIR70が今年6月、開発着手に踏み切る準備をすすめている。
メーカー各社の将来予測も、コミューター航空の拡大傾向を示すものが多い。たとえば合併前のジェットストリーム社は、1995〜2004年の10年間に3,330機の新製コミューター機が引渡されると見ていた。そのうち490機がジェットである。
ボンバーディア社は2013年までの20年間に15〜90席のコミューター機に対しては8,171機の需要があり、そのうち40席以上の機体が5,234機で、大半がジェットになると見る。同様に新しいAIR社も2014年までの20年間に20〜90席の機材では5,810機の需要があって、40席以上の大型機が4,060機になると見ている。
そうした世界的趨勢の中にあって、日本はいかなる道をたどるのか。もとより同じ波に乗って、同じ勢いで発展することこそ望ましいわけだが、それには今後いくつかの条件が整わなければなるまい。
ひとつは言うまでもなく規制緩和である。このことは先の航空局長発言にもある通り、運輸省もすでに基本方針を固めているようだから繰り返す必要はないが、とりわけ参入と撤退の自由が認められなければならない。これは取りも直さず試行錯誤を認めることである。
これまでのように、エラーは絶対に認めないというのでは、新しい計画は生まれないし、新しい試みも実行できない。未知の路線における需要の瀬踏みもできないわけで、トライ・アンド・エラーを許してこそ次の発展も可能になろう。
もう一つはハブ空港へのコミューター便の乗り入れである。特に羽田と成田への乗り入れを頭から不可とするのではなく、何か方法はないのか。管制方式を含む具体案をもっと真剣に考えるべきであろう。
ふり返ってみると、日本の航空事業は大手エアラインの育成を中心に展開してきた。結果として大手航空会社は世界的に見ても、押しも押されもせぬトップクラスの航空会社に育った。その姿は屹立する巨木である。けれども、足許には僅かな茂みがあるだけで、航空界全体が大きな森として繁茂するには至っていない。
そのため裸同然の大樹は風が吹けば真正面から吹きさらされる。強風に対して無防備のまま立ち向かわねばならない。おまけに、その巨木自身、手厚い保護が長すぎたせいか、やや虚弱体質のところが見られる。真の競争がはじまったときに、どこまで持ちこたえられるだろうか。
世界的な競争の時代にあって、日本の航空界が強靱な体質をもって伸びてゆくには、背丈ばかり高くて折れやすい孤木が立っているのではなく、相互に競争しつつ、しかも全体として繁茂し拡大して行く大きな森のようになる必要がある。その森の形成のためには、定期航空も不定期航空もコミューター航空も一般航空も、欠くことはできないであろう。
(西川 渉、『航空と文化』、1997年新春号掲載)