<超音速旅客機>

コンコルド最終便

 コンコルドの最後の飛行がおこなわれた。10月24日、ニューヨークからの定期便が午後4時過ぎロンドン・ヒースロウ空港に着陸したのがそれであった。空港の周辺には何百とか何千もの人びとが集まって、最後の着陸進入を見守ったという。

 これらのもようについては、新聞やテレビなど多くのメディアが伝えているので、わざわざここで取り上げる必要もあるまい。ここでは、コンコルドの引退に際して2つの投書を見かけたので採録しておきたい。

 ひとつは、かのリチャード・ブランソンから英「エコノミスト」誌へ投じられたもので「貴誌は10月18日号で、われわれヴァージン・アトランティックが単なるパブリシティのために1ポンドでコンコルドを買いたがっていると書いたが、それは大間違いだ」というもの。

「私の最終提案は、英国航空の所有する7機のコンコルドを合わせて500万ポンド以上で買い取り、採算性を確保しながら向こう数年間にわたって運航することである」。

 つまり人目を引かんがために、数か月のわずかな間、ちょっと飛ばすというのではない。したがって飛行区間も、英国航空と同じロンドンからニューヨークとバルバドスへ行くだけでなく、ドゥバイを加えるという。しかも運賃は、これまでのようなプレミアムつきの高価な金額ばかりでなく、もっとずっと安い席も設けて多くの人に超音速飛行を体験して貰うというアイディアが含まれる。

「英国民はコンコルド開発のために多額の税金を投入した。したがって商売であろうと伝統を残すという意味であろうと、今後なお長年にわたってコンコルドが飛びつづけることを望んでいるはず」

 ブランソンは、コンコルドが国の資金で開発されたことから、同機はひとり英国航空の私物ではない。国民もしくは国家の財産であり、航空人たるものそれを生かしつづける義務があるというのである。公的資金によって開発した製品に関する一つの見識を示すものといえよう。

 しかし、こうしたブランソンの提案に対して、英国航空は保持していた7機のコンコルドを売り渡すつもりはなく、博物館へ寄贈する考え。うち1機は皮肉なことに、超音速旅客機の開発を途中で断念した米ボーイング社の博物館に寄贈すると聞いた。また1機は飛行可能な状態で手もとに残すらしい。それにしても、リチャード・ブランソン卿の提案が実現していれば、いろいろ面白いことがあったのではないかと残念である。

 

 もうひとつの投書は、英「ガーディアン」紙に寄せられたもので、40年前に英仏両国が判断を誤らなければ、コンコルドよりもっと速くて安い超音速旅客機(SST)ができたはずという。

「1962年、コンコルド計画が動き始めた当時、超音速旅客機の作り方など誰も知らなかったというのは間違いだ。アヴロ社にはSSTにピッタリの経験があった。したがって、もしアヴロ社がコンコルドの開発にたずさわっていれば、費用のかからない、優れたSSTが実現していただろう」

「というのは、アヴロ社はコンコルドの10年も前からヴァルカン爆撃機をつくっていたから」で、投書者は1954年当時の同機のテスト・パイロットであった。ヴァルカンは超音速機ではないが、高度15,000mを飛ぶ高速機であり、それを超音速にする知識がアヴロ社にはあった。

「われわれはコンコルドの設計を見て、その設計者には明らかに高空を高速で飛ぶ航空機の知識や経験のないのを感じた。私はコンコルドのような飛行機を操縦したいとは思わなかった。負け惜しみではなく、われわれには自信があった」

「もしアヴロ社がコンコルドの設計をしていれば、同機は今でも健全に飛びつづけていたであろう」というのだが。

 なお、アヴロ・ヴァルカンは、1952年に初飛行したデルタ翼のジェット爆撃機。エンジンはオリンパス(推力9トン)を4基搭載していた。速度1,005km/h、総重量81トン。コンコルドも同じようなデルタ翼で、オリンパス593エンジン(推力17,260kg)4基を装備していた。

【関連頁】
 コンコルドの終焉(2003.5.13) 

 コンコルド定期運航再開へ(2001.10.22)

 象徴コンコルド(2000.11.1)

(西川 渉、2003.10.27)

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