怪鳥ではなく快鳥だ

 

 

 8月11日の朝日新聞夕刊が「時代遅れの“怪鳥”落ち……次世代機の離陸にも難問」と書いていた。先日の毎日新聞もそうだが、日本のマスコミはコンコルドといえば怪鳥と言いたいらしい。しかし、これは30年ほど昔、同機がデモ飛行にやってきたときの言葉で、こんな手垢のついた古い文句をよく恥ずかしげもなく使うものである。

 ロンドンやパリの空港でこの超音速機が停まっているのを見ると、周囲はボーイングやエアバスの大きな旅客機ばかりで、むしろ小さく可愛らしく見える。たしかに登場した頃は747も出はじめたばかりで、大型機が少なかったから怪鳥に見えたかもしれぬ。が、今では羽田空港のYS-11のような感じで、YSと違うところはマッハ2の高速力を秘めているところであろう。

 とすれば、せめて「快鳥」くらいの言葉を使ってもらいたい。フランスに、井戸に落ちた犬に石をぶつけるということわざがあったかどうか責任は持てぬが、昔ながらの常套語をぶつけてそこまでいじめることはなかろう。むしろ25年間にわたって超音速で旅客輸送をしてきた業績の方に目を向けてもらいたい。

 本来ならば、極東といわれる日本のような世界のへき地にこそ、超音速の交通手段が必要であろう。アメリカ西海岸へ9時間、東海岸へ12時間、そしてヨーロッパへ12〜14時間というのでは、往って還るだけでもくたくたになる。日本から欧米へ飛んだ人びとがこれまで、どれほどの体力と時間を飛行機の中で消耗してきたか。それを思うと、日本からも欧米に向けて、とっくに超音速便が飛んでいなければならなかったのである。

 くどいようだが、日本が世界のすみっこにあることは、欧米製の世界地図を見ればよく分かる。彼らのいう「ファーイースト」、つまり東の端という言葉が実感できるが、いつまで隅っこにいる積もりか。一時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などといわれて座敷の真ん中に招かれたが、今また端の方へ追いやられつつある。

 ところで、先日の本頁の続きだが、事故当時の新聞に報じられた記事の中から、コンコルドの評価と歴史について書かれたものをまとめておきたい。歴史的な事項は文献類を調べれば分かるけれども、そうした手間をかけずに手もとに集まったので、ここにメモを残しておく次第。

 7月26日付けの英「フィナンシャル・タイムズ」、米「ウォール・ストリート・ジャーナル」その他の新聞から要約すると、多くの記事がコンコルドは「技術的には成功だが、経済的には失敗」という評価をしている。日本のマスコミのように怪鳥とか国の威信の失墜とか、無意味な妄言を書き立てるわけではない。

 技術的に成功というのは、1976年1月22日に定期運航を開始したときから24年間にわたって最も先端的なハイテク機としての地位を保ってきたことによる。超音速飛行を3時間も続けられるような航空機は、軍用機にもほとんどない。一時はアメリカやロシアが同じようなSSTの試作を試みたが、結局はものにならなかった。英仏のコンコルドだけが音速の2倍、2,150km/hという高速飛行をつづけられる民間機である。

 安全性に関しても、この事故が起こるまでは、コンコルドと同程度の安全記録をもつ航空機は、ほかになかった。コンコルドの乗客で傷ついたり死んだりした人は、このあいだまで1人もいなかったのである。

 

 一方、経済的に失敗という理由は、大きく3点をあげることができよう。第1は運航費が高くて採算が合いにくいこと、第2は、それゆえに競争力が小さいこと、第3は環境問題に対応できないことである。

 運航費が高い理由は燃料消費量が多く、整備にも手間がかかるためで、燃費は747の2倍、整備費は4倍という。なお燃料費は開発段階の当時1バーレル1.67ドルだった原油価格が石油危機で高騰し、1976年の就航時には11.51ドル、1980年には36.15ドルまで上がった。

 競争力に関しては、747がコンコルドと同じころに開発され、それより早く就航して大量輸送をめざすようになり、つづいてDC-10、トライスター、エアバスなどのワイドボディ機が次々と登場してきた。これら機材の大型化と運航の規制緩和が相まって航空運賃は大幅に下がり、コンコルドの競争力はほとんどなくなった。

 さらにコンコルドの登場する頃から、世界中で騒音、大気汚染などの環境問題が大きくなり、超音速特有のソニックブームやオゾン層破壊の問題も未解決のままとなった。これで超音速による飛行は洋上に限定され、乗り入れ空港も制限された。そのため一時はアメリカン・エアライン、カンタス航空、日本航空などエアライン16社が76機の発注意向を表明していたが、最終的に残ったのは英国航空とエールフランスの2社だけで、両社合わせて16機を購入する結果となった。

 しかも、この国営2社の購入価格は大幅ディスカウントの捨て値となり、タダ同然であった。これで英国航空は一応黒字になっているようだが、エールフランスは黒字とも赤字とも表明していない。もっとも赤字が出れば、エアラインとしては1秒間も飛ばしはしないだろうとニューヨーク・タイムズは書いている。

 こうして製作されたコンコルドは1969〜79年の間に20機。うち4機は開発試験機である。 

 コンコルドの開発は1960年代初め、ドゴール仏大統領が超音速で飛べる旅客機を発想し、英仏両国が開発着手の決心をしたときにはじまる。

 当時、航空の専門家たちは超音速旅行に大きな期待を抱き、米国でもFAAは1970年代なかばまでに約200機の超音速機が飛ぶであろうという予測を発表した。しかも、そうしたSSTを使うのはエコノミー客で、金持ちは自家用の超音速機をもつだろうという予測になっていたほどである。

 英国では逆に、大蔵省がそんなことに予算を使うわけにはいかないというので、フランスとの共同作業を中止する動きもあった。コンコルドは大蔵省の目の仇にされていたのである。そのうえ英国人はフランス人を信用していなかったから、相手がいつ計画をキャンセルしてくるかもしれないという疑念を抱きながらの開発であった。

 その後、英仏間の心理的葛藤はどうなったか知らぬが、海峡をへだてた2つの国の疑心暗鬼や猜疑心は、今の極東地域でも確実に見られることである。

 

 

年表――超音速の歴史

年 月  日

出      来     事

1947年10月14日

米軍テスト・パイロット、チャック・イーガーが人類初めて音速を突破。

1961年

BAC(現BAEシステムズの一部)は、35万ポンドをかけた可能性調査をした後、仏シュド・アビアシオン社(現EADSの一部)と共同で超音速旅客機を開発したいという提案を打ち出した。仏側は、このときすでにスーパーカラベルと名づけた模型を作り上げていた。

1962年11月29日

英仏両国政府と両メーカーは共同で超音速旅客機を開発することで合意した。そのためのコストと利益は双方平等に分担することとなった。

1966年3月10日

これは私事だが、当時の朝日ヘリコプター、尾崎稲穂専務(のち社長)のお供でシュド社ツールーズ工場を見学。コンコルド原型機の中央胴体部がどん殻だけできているのを見た。そのとき製作なかばの機体の中に入るのを許され、先に入った尾崎さんが「ユーアー・ザ・ファースト・パッセンジャー」と言われた。とすれば、私は2番目の乗客である。なお、このときの説明では、初飛行は1968年2月、定期路線への就航は1971年の予定とのことだった。その一方「ギャリオン」と呼ぶ大型エアバス機の開発構想も聞き、「航空は国の力なり」というフランスの合言葉を実感した。

1967年11月12日

コンコルド原型1号機(001)が南仏ツールーズで完成

1969年3月1日

コンコルド001が初飛行

1969年4月

原型2号機(002)が英国フィルトンで初飛行

1969年10月1日

コンコルド001が45回目の飛行で初めて音速を突破

1970年9月13日

英国側のコンコルド002が初めてヒースロウ空港に着陸、騒音苦情が殺到

1970年11月4日

コンコルド001が初めてマッハ2で飛行

1971年5月24日

アメリカの超音速旅客機計画中止

1971年5月25日

ツールーズ〜ダカール〜ルブールジェ間で初の国際飛行

1973年6月3日

ソ連のSST、ツポレフTu144がパリ航空ショーで墜落。

1973年9月20日

コンコルド002がダラスへ飛行。SST初のアメリカ訪問。

1974年6月17日

エールフランスのコンコルドがボストンからパリへ出発、同時に747がパリからボストンへ飛び立った。コンコルドはパリで1時間を過ごしたのち、ボストンへ引っ返したが、ボストン着陸は747の11分前であった。

1974年7月19日

ジスカル・デスタン仏大統領とハロルド・ウィルソン英首相がコンコルド計画の継続について合意

1975年10月9日

コンコルドへ仏航空局の耐空証明

1975年12月5日

コンコルドへ英航空局の耐空証明

1975年12月18日

米議会がコンコルドの米国飛来を半年間禁止決議

1976年1月21日

英国航空とエールフランスのコンコルドが同時に定期路線に就航。英国航空の路線はロンドン〜バーレン間、エールフランスはパリ〜リオデジャネイロ間

1976年2月4日

米政府、ニューヨークとワシントンへのコンコルド飛来を16か月間承認

1976年3月11日

ニューヨーク港湾局がコンコルドのケネディ空港乗り入れを拒否

1976年5月24日

英国航空とエールフランスがワシントンへのコンコルド便開始

1977年11月22日

裁判所の判決で、ニューヨーク港湾局の主張がしりぞけられ、ロンドンからニューヨークへ乗り入れ開始(このころ、アメリカ便の就航後だったか、月刊誌『航空情報』がコンコルド特集を出すことになり、12頁ほどの記事を1人で書いた憶えがある。いま手もとに雑誌がないので何月号かはっきりしない。当時の編集長は関川栄一郎氏)

1978年2月28日

パンアメリカン航空とTWAがコンコルド購入を取り消し

1978年6月1日

ソ連のTu144が死亡事故を起こして今後の運航を全面停止

1979年9月21日

英仏両運輸相が量産16号機をもってコンコルドの生産終了を合意

1979年12月16日

ニューヨークからロンドンまで3時間を切る記録達成

1981年

米国で4回にわたってコンコルドのタイヤがパンク。

1981年10月10日

ロンドンからニューヨークへの飛行中にコンピューターの異常が発生、機長はエンジン1発を切ってボストンに着陸

1982年4月1日

エールフランス、リオデジャネイロとカラカスへのコンコルド運航を中止

1982年10月29年

エールフランス、ワシントン便を中止。同航空のコンコルド定期便はパリ〜ニューヨーク間だけとなる

1995年8月16日

ニューヨークからニューヨークへ世界一周。所要時間は31時間27分

1996年2月7日

ニューヨークからロンドンまで2時間52分の最速飛行記録

1998年5月26日

ロンドンからニューヨークへ向かったコンコルドのエレボンの一部が脱落、1時間後にロンドンへ引き返す

2000年1月

英国航空のコンコルドが24時間のうちに2度緊急着陸。1機はバーレンからの飛行で、ロンドンへ着陸直前エンジンが故障、ヒースロウ空港へ緊急着陸。翌日ロンドンから飛び立った1機のコクピットで火災報知器が鳴ってヒースロウ空港へ緊急着陸

2000年3月17日

英国航空のコンコルドがニューヨークからロンドンへ向かう途中、第3エンジンが停止してアイルランドのシャノン空港へ緊急着陸

2000年7月24日

英仏合わせて13機のコンコルドのうち11機の翼に微細な亀裂を発見。英国航空は1機の飛行を停止して修理に入ったが、エールフランスは安全には影響なしとして全機の飛行を続行

2000年7月25日

エールフランスAF4590便がシャルル・ドゴール空港を離陸直後に墜落、乗っていた109人と地上の4人が死亡

 

コンコルドに関する事実関係

実用機数

13機

平均年齢

21.3年

稼働時間

1日1機平均2.34時間

航続距離

6,880km

巡航速度/高度

マッハ2(2,150km/h)/16,760m

全  長

62.1m(超音速飛行中は空気との摩擦熱のために胴体が15.2〜25.4cm延びる。それだけ飛行後の整備も大変)

機  首

離着陸時には12°下がる。

所要時間

ロンドンからニューヨークまで4時間弱

客席数

100席

乗客数

1976年以来、BAのコンコルドに乗った人は総計250万人以上

乗員数

9人(パイロット2人、航空機関士1人、客室乗務6人)

操縦訓練

6か月間(747の2倍)必要

航空機関士

飛行中バランス維持のため沢山のタンクの間で燃料の移送を担当

運  賃

ロンドンからニューヨークまで約3,520ポンド+税金。日帰り往復運賃約6,045ポンド+税金。通常往復運賃6,290ポンド+税金。

エンジン

英ロールスロイスと仏スネクマ製のオリンパス593(推力17,000kg)4基。

 

(西川渉、2000.8.14)

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