飛べ、コンコルド

 

 

 世界的な権威を持つ『ジェーンズ航空機年鑑』の編著者ジョーンW.R.テイラー博士は、超音速旅客機コンコルドの初飛行25周年を記念する本(1994年刊)の中でこう書いている。

「コンコルドは汚れのない存在である。英国人の多くはその美しさを20年以上にわたって誇りに思い、それが頭上を通過して行くときは目を細めて仰ぎ見るのだ」と。

 その仰ぎ見る誇りが7月25日夕刻パリ郊外で墜落、巻き添えになった地上の4人を含めて、113人の死者を出す惨事となった。折からロンドン郊外のファーンボロでは恒例の航空ショーが開かれていた。翌朝のショー会場では参加各国の国旗が半旗に下げられ、関係メーカーは緊急会議を開き、EADSとBEAシステムズの両社は遺族に哀悼の意を表すると共に、事故調査には全面的に協力するという共同声明を発表した。

 事故機を運航していたエールフランスは残り5機の飛行を全面的に停止、英国航空も保有7機のコンコルドについて飛行を停止した。1機の事故で同じ機種の全機が飛行停止になるという事態は、民間機としては異例のことである。英国航空は1日の飛行停止だけですぐに運航を再開したが、3週間後の8月15日になって再び停止に追い込まれた。

 両国政府が、単なる飛行停止命令ではなく、コンコルドに対する耐空証明そのものを取り消すということになったからである。いったん交付した耐空証明を取り消すということは、これも異常事態で、それだけで航空当局の権威が問われかねない。

 英国航空のコンコルド便は、当日朝ヒースロウ空港で乗客をのせ、滑走路に向かっていた。それが呼び戻されたのだから、この飛行停止がいかに急な決定だったかが分かる。乗客は亜音速機に乗り換えてニューヨークへ飛ぶことになった。

 今後コンコルドの将来はどうなるのか。本稿執筆の時点で運航再開のめどは立ってなく、予断を許さぬ状況に立ち至っている。

 

 

飛行再開への努力

 コンコルドは英仏両国の共同開発によって実現した。初飛行は1969年、定期路線就航は1976年のことである。以来、四半世紀を無事に飛んできたが、最近やや老齢化のきざしが見えていた。今年春頃から翼に微細な亀裂が見つかるようになったためで、あの事故が起こったのも英国航空の7機のコンコルド全機に亀裂が見つかったと報じられたその日の夕方であった。

 ただし事故の原因は亀裂とは無関係である。まだ最終結論は出ていないが、おそらくシャルル・ドゴール空港を離陸の際、滑走路に落ちていた長さ40cmほどの金属片が315km/hの高速で疾走するコンコルドのタイヤを切り裂き、重さ4.5kgの断片が燃料タンクを突き破って、そこから噴き出した燃料に火がついたものと見られる。機体はそのまま離陸、オレンジ色の炎を曳いたまま2分間ほど飛んで、前方のホテルに墜落した。

 では、滑走路に落ちていた金属片は何だったのか。別の飛行機から脱落したものとしか考えられぬが、どういう機種のどの部分なのか分かっていない。また漏れ出した燃料が引火した原因は何か。具体的な状況は不明のままである。

 実はコンコルドは、これまでもしばしばタイヤがパンクしている。滑走速度がはやいためだが、英民間航空局(CAA)によれば総数70件に上るという。そのうち7件が燃料タンクの破損につながった。いずれも車輪の破片など金属片が当たったためで、タイヤの破片だけで破損したのは今回が初めてらしい。まだ数多くの疑問が残ったままである。

 したがってコンコルドの飛行再開までには、これらの疑問を全て解明し、対策を立て、所要の改修作業をおこない、タイヤがパンクしたぐらいで事故に至るようなことはないという安全性が確認されなければならない。それにはどのくらいの期間がかかるか。英国航空は週単位で考え、エールフランスは月単位で考え、航空当局は年単位で考えている。いずれにせよ、余り長くかかるようでは再び定期旅客輸送をするのは難かしくなるかもしれない。

 そのため英仏両国では最近、政府機関を中心とする特別作業グループを編成し、メーカー、エアライン、技術者、パイロットなど、あらゆる関係者がコンコルドの飛行再開へ向けて懸命の努力をつづけている。

 

 

タイタニックとヒンデンブルク 

 コンコルドの事故を報じたイギリスの新聞の中には、豪華客船タイタニックを引き合いに出したり、飛行船ヒンデンブルクにたとえた記事が見られた。しかし、タイタニックは処女航海で沈んだのである。しかも高速にして不沈という思い上がりから氷山にぶつかった。長年にわたって慎重な運用をしてきたコンコルドとは全く異なる。

 ヒンデブルク号は1937年ドイツから大西洋をわたってニューヨークに近いレイクハーストに到着、係留中に引火炎上した悲劇である。これで飛行船による旅客輸送は終わったが、その頃すでに大洋横断も可能な長距離用の大型飛行艇が出現しつつあった。事故がなくても、飛行船の時代は終わりかけていたのである。

 しかし、よく考えてみれば、タイタニックとヒンデンブルクとコンコルドとの間には共通点も見られる。いずれも、それぞれの時代の豪華で贅沢な乗り物だったことである。同時にまた大西洋横断の手段としては最も速い交通手段であった。ゆっくり飛んでいるように見える飛行船も、ヒンデンブルクは2日で大西洋をわたり、高速の客船にくらべて所要時間は半分であった。とすればコンコルドも、もっと速い後継手段が出てくるまでは飛び続けるのが本来のあり方かもしれない。

 コンコルドの事故を評して、そんなに急ぐ必要があるのかという評論家や報道人も少なくない。しかし、そう言いながら、自分は事故にかかわる映像や文字や音声を一瞬のうちに電波によって入手しているではないか。地球の向こう側で起こった事故など、日本には直接の関係はなく、そんなに早く知る必要はないといわれたらどうするつもりか。

 現に客船が飛行船になり、飛行艇からふつうの旅客機へ進み、超音速旅客機が出現した。すべては時代の要請であり、それなりの必要性があったのだ。当時、客船の乗客も飛行機に乗る人を見て、そんな危ないものに乗って何を急ぐのかと言ったに違いない。

 身近なところでは、いま新幹線は当たり前の存在になっている。けれどもつい先頃までは東京〜大阪間が急行で12時間だった。それが特急つばめの出現によって8時間になり、のちに6時間くらいまで短縮されたが、新幹線ひかりができて半分になった。のぞみはさらにその時間を短縮しつつある。私は、この全てを経験してきたが、学生のころ東京〜大阪間の移動は1日がかりだった。また新幹線のできた当時は会社にいて上役の特別許可がなければ利用できなかった。初めて乗ったときは少しばかり緊張して、偉くなったような気がしたものである。

 

日本こそ超音速機が必要

 人や情報の移動速度は、社会と時代が進むにつれて変わってくる。一般的には遅い方から速い方へ変わるはずで、その逆は少ないであろう。無論どうぞお先にという気持ちがあっても結構である。私は急ぎませんというのはいいが、人が急ぐのを止める権利はない。

 欧米間に超音速旅客機が飛んでいて、その乗客は社会的にも経済的にも地位の高い人がほとんどである。運賃は往復およそ100万円というから、それだけの支払い能力やコスト効果がなければ利用できない。具体的には乗客のほぼ半分が大企業のトップであり、あとの半分は政治家や芸能人やスポーツ選手などである。したがってヒースロウ空港やシャルル・ドゴール空港のコンコルド専用の特別待合い室は有名人や有力者たちの時ならぬ会談の場になり、そこから新たな交渉や取引がはじまることもあるらしい。

 こういう機会をつくり出すことでも、コンコルドの存在意義がある。そのうえ、これらの人びとを半分の時間で目的地へ送り届けるのである。こうしたことをヤキモチ半分に贅沢だと言っていては、われわれの進歩はない。今や誰でも新幹線を利用できるように、いずれは誰でも超音速旅行ができなければならない。これが私の戯言(たわごと)ではない証拠に、FAAはアメリカがSSTの開発計画を打ち出した当時、大勢の一般市民が超音速の旅行するようになるだろうと予測した。むしろ大金持ちは亜音速の巨人機でゆったり飛ぶか、自家用の超音速ビジネス機を使うだろう、と。

 とりわけ日本は、世界の辺地である。超音速機が最も必要な国である。欧州と米国の間は亜音速でも6時間ほどで行けるが、日本から欧米に行くには2倍の時間がかかる。それを「怪鳥」だなどと妙に毛嫌いし、環境が破壊されるといって反対した。結果として、せっかく3機のコンコルドを発注していた日本航空もその導入を諦めてしまった。

 それが実現していても、誰もがすぐ利用できたとは限らないが、国際的な空の新幹線に向かう第1歩にはなったであろう。コンコルドは、この25年間に8万回の飛行をした。1回の乗客数が70人とすれば560万人が利用したことになる。中には1人で400回も500回も飛んだ人がいる。

 そのうち日本人は何人いるのだろうか。ある新聞には1,000人と書いてあった。余りに少数で、ちょっと信じられないような数字だが、われわれが世界の辺地で鈍行のローカル電車に満足している間に、彼らは25年前から新幹線で往来していたのである。

 これではジャパン・アズ・ナンバーワンが単なるお世辞に終わり、いったん崩れた日本経済がなかなか回復しないのも当然であろう。コンコルドが1日も早く定期運航を再開し、いずれは日本でもテイラー博士のいうような誇りをもって仰ぎ見る超音速機がつくられ、それが飛ぶ日のくることを期待したい。

(西川渉、『航空情報』2000年10月号掲載) 

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