クロスエアはスイス第2の航空会社として、また欧州随一の地域航空会社として確固たる地歩を築くに至った。その活動ぶりは欧州で最もダイナミックであり、最も創造的で、最もサービス精神にあふれた航空会社の一つと評価されている。
従業員はおよそ2,300人、使用機材は63機。乗客数は400万人に近く、売上高は7億スイス・フラン以上、利益は2,300万フランを超える。
しかしクロスエアは最初から今のような前途が約束されていたわけではない。発足当初は当然のことながら、前の見えない藪の中をかき分けて進むような状態だった。では如何にして小さな運航会社がここまで伸びたのか。発足から20年余の足跡を振り返りながら、コミューター航空成功の手がかりを探りたい。(注:1スイス・フラン=約90円)
クロスエアの経営トップに立つモリッツ・スタが会社を設立したのは1975年。当時、スタの周りにいた役員や協力者たちは、地域航空がこれからどうなっていくのか誰も想像できなかった。スタのやっていることは単に彼自身の趣味ではないかと疑う人もいた。その頃、会社の会議室にはテーブルの周りに6人分の椅子があったが、その椅子が埋まるほどの人もいなかった。小型機で旅客輸送をしようなどという馬鹿げた会社には人が集まらなかったのである。
しかし、スタの頭の中にはすでに地域航空の将来像が描かれていた。というのはクロスエア設立の前、スタはスイスエアでパイロットとしての経験を積み、世界各地を飛び回りながら、航空界には大手エアラインばかりでなく、小型機によるエアラインがあってもいいという考えを固めていった。たとえばDC-9の機長として飛んでいたとき、いくつかの路線ではいつも乗客が少ない。120人乗りの機材では大きすぎて燃料費がかかるばかりで、利益はいっこうに上がらないではないかという感じを強くもった。
そこからスタは1970年代初め、スイスエアの補完的な役割を演じられるような小型航空事業を考えた。そしてひそかに、大型機では赤字だが小型機では利益が上がるような路線の調査研究を進めた。それが彼の小型機による航空会社の設立へつながり、写真撮影とエアタクシーを目的とする会社が発足した。
当時スイスの航空法では、定期路線を運航しようとするときは、路線ごとに政府の許可を得なければならなかった。ただし国営のスイスエアだけは例外で、その必要がなく、スイスエアにとってクロスエアの誕生はほとんど眼中になかった。こんな小さい航空会社がエアタクシーとして路線を開設しても、それが自分たちに影響を及ぼすとは思えないし、その事業を阻止しようという考えもなかった。
クロスエアの方もスイスエアに挑戦するのではなく、その長距離路線を補完するような運航をすることが目的だった。といって資金的なつながりもなければ、業務提携をしているわけでもない。こちらが勝手にスイスエアに接続するような補完路線を開設しているだけのことである。
しかしクロスエアの運航がはじまると、旅客にとってはスイスエアに接続するための便利な路線となった。スタもまずビジネス客の利便性を考えて、長距離路線への接続に便利な運航を心がけた。
機 種 |
機数 |
サーブ340 |
14機 |
サーブ2000 |
25機 |
RJ85 |
4機 |
RJ100 |
12機 |
MD-83 |
8機 |
合 計 |
63機 |
その頃のクロスエアにとって、問題は技術的に信頼性が高く、快適で、しかも経済的な小型旅客機がなかなか見つからないことだった。条件に適うのは、当時おそらくスウェリンジェン・メトロライナーU双発ターボプロップ機くらいだったであろう。米国で新しく開発された機材だが、難点は航続距離が短かいことで、たとえばチューリッヒからクラーゲンフルトまでの路線は乗客を減らして飛ばなければならなかった。またギリシャへの観光チャーター便などは、途中で2度燃料補給をしなければならなかった。
そのあとに登場したスーパーメトロライナーVは、飛行性能が良くなったものの、クロスエアの需要が増えてきたために、今度は19人乗りでは小さすぎるということになった。
そこでモリッツ・スタはサーブ社に働きかけて33人乗りのサーブ340シティライナーの開発に踏み切らせ、その開発に積極的に協力した。サーブ2000の開発も同じような事情で、同機は1994年からクロスエアの路線に就航した。最近発注になったアヴロRJ85やRJ100も同じようにスタの影響下で開発されたものである。
こうした小型航空機の運航について、スイスエアは長いこと明確な方針を出しかねていた。1970年代の終わりから80年代初めの頃には小型ジェットを運航する子会社を設立しようと考えたこともあった。これでDC-9では大きすぎるような路線を運航しようとしたのである。しかし、それからしばらくして、150席以下の航空機は運航しないという基本方針を定めた。
一方、モリッツ・スタの方は確固たる考えがあって、少しも動揺しなかった。というのは単に旅客の少ない路線で大型機を飛ばすのは不経済というばかりでなく、仮りに旅客が多くても、公共の利便性という観点からすれば、大型機を1日1回運航するよりも小型機を何回も飛ばす方が旅客にとって便利だという考え方であった。
航空輸送というものは、いうまでもなく運航することが目的ではなくて、利用者にとって利便性の高いものでなければならない。つまり150席以下の航空輸送こそがクロスエアの使命というわけであった。
そのための使用機材は、当面ターボプロップ機であった。プロペラ機で旅客を惹きつけるのは決して容易ではない。しかしビジネス客は飛行機の大小や外観よりもいかに便利に乗り継ぎができるかということの方を重視する。この見方が当ったのである。
もうひとつモリッツ・スタの成功をもたらしたのは、彼がいくつもの選択肢をを考えられるという能力である。困難にぶつかって、普通の人ならば引き下がるようなことでも、スタはいくつもの代案を考え、障碍を乗り越えていった。その中で、クロスエアは発足いらい常に市場ニーズの発見を心がけ、それが見つかったならば即座にサービスの内容をニーズに合わせてゆくことに努力してきた。
その内容は決して他社の真似をするのではなく、前例にしたがうことでもなく、常に革新的な方策を取ることであった。たとえば、スタの考えた地域航空はうらぶれたローカル線のイメージではなく、革張りのシートでシャンペンのサービスをする豪華な高級感である。
そうしたパイオニア・スピリットが今日のクロスエアを築き上げたわけだが、ここで改めて努力の跡を年代記風に見てゆくならば、次のような足跡をたどることができる。
会社の発足は1975年2月14日。「ビジネス・フライヤーズ・ベーゼル社」の名前で、中古のセスナ320双発機(4人乗り)が1機と、30年も前に製造されたパイパーL-4単発機(2人乗り)1機をもって運航を開始した。
翌1976年、単発機1機を追加購入した。また6人乗りのセスナ双発機1機をアメリカから買い入れ、スイス連邦航空局から不定期航空の事業免許を取得した。ただし常雇いのパイロットがいないために、社長のモリッツ・スタみずからスイスエアの機長経験を生かして、ヨーロッパ中を飛び回った。
1978年6月、モリッツ・スタは初めてスイスエアの役員会に対し、自分の考え方を披瀝、地域航空プロジェクトを提案した。しかし両社の合意はならなかった。スイスエアにとってスタの事業は、まだ問題とするに足りず、一方ではみずから小型ジェットを飛ばしたいという別の考えがあったからである。
この年、スタは社名をクロスエアに改め、資本金を100万スイス・フランに増額した。そして11月、チューリッヒからリヨン、ルクセンブルグ、ニュルンベルグ、インスブルックその他の都市までの路線を申請、4機のスウェリンジェン・メトロを仮発注した。
1979年4月26日、スイス航空局からチューリッヒを中心にニュルンベルグ、インスブルック、クラーゲンフルトへの路線運航が承認された。6月1日にはメトロライナーUの1号機がスイスに到着した。7月2日、定期便の第1便がニュルンベルグ、クラーゲンフルト、インスブルックに向かって出発。7月メトロライナー2番機を入手、9月寄港地にルクセンブルグが追加された。
1979年、クロスエアは事業の拡大に伴って社員数を増加、資本金を400万スイス・フランに増額した。資本金は、この後も増額に次ぐ増額で増えて行き、現在では3億2,850万フランに達する。これは1996年度の売上高、7億3,830万フランに対して、ほぼ半分に相当するが、それに関するスタの考え方は次の通りである。
「自分はパイロットだったので会社の設立に際しても、経理や財務の経験はなかった。しかし現実問題として資金的な基盤さえしっかりしていれば、会社が倒産するようなことはない。資金的に弱いところは倒産するけれども、資金的な基盤がしっかりしている企業で、倒産した例は見たことがない。そこで多くの友人や家族親戚からできる限りの金を集めて会社をつくった」
1980年3月、チューリッヒからハノーバーとデュッセルドルフまで、ベルンからパリまで、チューリッヒとジュネーブからツーリンまで、チューリッヒからヴェニスまでの定期運航が認められた。さらにイタリア政府がルガノ〜ヴェニス間の運航を許可してきた。
こうした路線拡大により、同年3月27日メトロライナーVを4機発注した。同機はメトロライナーUよりもエンジン出力が大きく、機体内外の騒音が小さくなっている。さらに将来の使用機を想定して、のちにサーブ・フェアチャイルド340シティライナーとなる新しい小型旅客機の開発計画に協力することとなった。
1980年10月、クロスエアはいよいよ10機のサーブ・フェアチャイルドSF340を発注、購入契約書に調印した。のちに、米フェアチャイルド社が計画から脱落して、サーブ340となる双発ターボプロップ旅客機である。81年には1,600万スイス・フランに増資。
1982年、クロスエアとスイスエアとの間で業務提携が成立、両社の運航分野を区分することで合意した。2,500万スイス・フランに増資。
当時スイスエアはスイスの独占的な航空会社として運営されることが法律によって認められていた。そこへクロスエアが小型機を運航するようになり、その機材が少しずつ大型化し、サーブ機を導入する段階に至って、ついにスイスエアから待ったがかかったのである。スタは、これに対し、自分としてはスイスエアに長期戦を挑むほど強くはないし、株主や仕事を護る必要もある。そこで相互に争うよりは、共栄の方が得策と考え、スイスエアの資本参加を求め、提携するよう提案したのである。こうして両社はパートナーとして組むことになった。それについてスタは「ときには自由を諦めることによって、より大きな自由を獲得することも必要だ」と語っている。
1983年、スウェーデンでSF340が初飛行した。クロスエアはベルン〜ルガノ線を開設した。ルガノ空港に新しい計器着陸装置が設けられて、運航の定時性が高まった。資本金は5,000万フランに増資され、チューリッヒとバイゼルの株式市場に上場した。
1984年、クロスエアのSF340が初めて公開された。同時に初のスチュワーデスが登場する。6月15日340がベーゼル〜フランクフルト線とベーゼル〜パリ線に定期運航を開始。また地域航空会社として世界で初めてIATAに加盟した。
1985年、資本金を8,000万フランに増資、チューリッヒ、ベーゼル、ジュネーブの市場に上場。1987年、最後のメトロライナーを売却し、サーブ340を6機追加発注。初めて年間乗客数が50万人を越えた。
1988年、1億6,000万フランに増資。増資分の大半をスイスエアが購入して、41%の大株主となった。他方、サーブ社が計画したサーブ2000高速ターボプロップ・コミューター機を導入することとなった。それによりクロスエアはサーブ2000の設計仕様に関する要望を出した。
1989年、2億1,500万フランに増資して、BAe146-200中古機を3機購入。のちに1993年からは、これらを売却し、新品のBAe146に置き換えた。1990年、年間乗客数が初めて100万人を突破。1991年、スイスエアはクロスエアの過半数を所有する大株主となった。
1992年、ロンドン・シティ空港へBAe146の定期運航を開始、同空港として初めてのジェット旅客機の受け入れとなった。1993年、4機のアヴロRJ85が引渡された。スイスエアの持株比率がさらに増加、56.1%に達した。
1994年、サーブ2000の最初の4機が到着。94年末の路線網は欧州圏内14か国で寄港地45港。年間乗客数が約200万人となり、保有機は36機に達した。
1995年、アヴロRJ100を12機発注。RJ85のストレッチ型で、従来スイスエアがフォッカー100を飛ばしてきた路線を譲り受け、クロスエアがRJ100を運航することになった。加えてスイスエアの8機のMD-82/83も譲り受けることになり、クロスエアの路線はさらに拡大した。
1996年、RJ85、RJ100、MD-83などジェット旅客機の座席を2クラスに分けて運航開始。これまではエコノミークラスだけで運航し、エコノミーといっても、座席は革張りのゆったりした大きさで、シャンパン、ジュース、スイス・チョコレートなどのサービスをしてきた。
これにビジネス・クラスをつけ加えたもので、座席の足周りが25%広い。またチェックイン・カウンターが異なり、エグゼクティブ・ラウンジを使うことができて、手荷物の持ちこみ許容量も大きい。こうした区分は親会社のスイスエアの要求によるもので、路線の譲渡に伴ってスイスエア同様の区分をする必要が出てきたためである。
1996年度の業績は、クロスエアの決算報告書によれば、表2の通り、定期便と不定期便を合わせた運航便数が年間126,748便で、前年比38%増となった。また定期便の提供座席数は77%増加したが、乗客数も73%増の320万人になった。乗客数が増えたのは路線網の拡大によるものが大きく、96年度末現在ヨーロッパ圏内の21か国、78都市に乗り入れている。また乗客全体の2割近くが不定期便の旅客で、「クロスエア・トラベル・クラブ」などの販売促進によるチャーター便のツアー客も大きく伸びた。
|
1996年 |
1995年 |
1994年 |
1993年 |
1992年 |
収入(百万フラン) |
738 |
465 |
394 |
379 |
327 |
純益(百万フラン) |
23 |
17 |
16 |
24 |
1 |
配当(百万フラン) |
33 |
25 |
18 |
9 |
- |
資本金(百万フラン) |
336 |
335 |
221 |
221 |
225 |
従業員数(人) |
2,280 |
1,876 |
1,420 |
1,303 |
1,187 |
乗客数(千人) |
3,975 |
2,303 |
1,974 |
1,741 |
1,432 |
飛行便数(千便) |
127 |
92 |
83 |
76 |
68 |
飛行時間(千時間) |
132 |
88 |
77 |
71 |
64 |
提供座席数(千席) |
6,625 |
3,996 |
3,505 |
3,144 |
2,635 |
座席利用率(%) |
49 |
53 |
53 |
53 |
51 |
提供座席数と座席利用率は定期便のみの数値。
その頃、1996年12月ドイツの航空専門誌『フルッグ・レビュー』が読者アンケートにより、航空会社の評判を調査した。これはクロスエアばかりを対象としたものではなく、むしろルフトハンザ・ドイツ航空の評価を調べるのが主な目的であった。しかし、結果的にルフトハンザの評価はそれほど高くなく、スイスエアとクロスエアのスイス航空2社が高得点を獲得している。
たとえばキャビン・クルーの親しみやすさという点では、回答を寄せた『フルッグ・レビュー』の読者、約8,500人の93%がシンガポール航空とキャセイ航空をあげ、92%がクロスエアをあげた。つまりクロスエアは世界の航空会社の中で3番目に親しみやすいというのである。
また機内サービスの良さについては96%がクロスエアを指名し、第1位となった。ちなみに第2位は95%のラウダエア、第3位は93%のシンガポール航空とキャセイ航空となっている。
安全と思うかどうかについては、スイスエアが第1位で63%、第2位がルフトハンザの56%だった。また企業イメージの全体的な善し悪しに関しては、やはりスイスエアが74%で第1位となった。第2位はシンガポール航空の73%、第3位はルフトハンザの66%、第4位が英国航空の63%となっている。
こうした航空会社の企業イメージは空港カウンターや機内での接客の仕方によってつくられる。スイスエアやクロスエアが高得点を得ているのは注目すべきであろう。
1997年12月クロスエアはフランスに「クロスエア・ヨーロッパ」と呼ぶ子会社を設立すると発表した。新しい航空会社として、98年3月から運航を開始する。使用機はまず2機のサーブ340とするが、秋からはクロスエアの現用MD-83を導入する予定。運航区間は仏バーゼル空港を拠点として、マルセイユ、ミラノ、ベニスなどへの路線。将来はハンガリー、ポーランド、チェコへも路線網を広げる計画という。モリッツ・スタによれば、新しいクロスエア・ヨーロッパは2〜3年以内に黒字に転換し、利益が出せる見込みである。
クロスエアのフランス進出は、これからヨーロッパ連合(EU)の加盟国の間で航空機の乗り入れや路線網の拡大が自由化される。それに対し中立国スイスはEUに入っていないため、将来ヨーロッパ圏内の航空路線網を広げるについては現在同様、相手国との航空交渉や許可の取得が必要になる。場合によっては認められないことが出てくるかもしれず、そうしたリスクや手続きの遅れをなくすためと見られる。
かくて、クロスエアを成功に導いたのは、モリッツ・スタの小型航空機によるエアライン事業への大きな夢と情熱であった。それに、すぐれた手腕と賢明な営業戦略が加わり、折から自由化をめざす欧州諸国の航空政策にも適合して、機敏な洞察力でタイミングをとらえたことであろう。
クロスエアは1996年10月、欧州地域航空協会(ERA)から1996/97年の「リージョナル・エアライン・オブ・ザ・イヤー」として表彰された。
(西川渉、『コミューター・ビジネス研究』No.42、1998年2月号掲載)