<スミソニアン>

ベルH-13J特別機

 

 去る1月末、雪のワシントン・ダレス空港でアメリカ大統領初の専用ヘリコプターを見た。スミソニアン航空宇宙博物館の新館「ウドヴァーヘイジー・センター」(Udvar-Hazy Center、2003年12月15日開設)に展示されていたベルH-13Jである。

 ここは「アメリカのハンガー」(America's Hangar)という別名がある通り、大きな円筒を縦に割って横に伏せたようなカマボコ型の建物で、まさしく巨大な格納庫である。その中にダッシュ80(ボーイング707の原型機)、ロッキードSR-71Aブラックバード、ロッキード・マーチンX-35Bジョイント・ストライク・ファイター(JSF)、ベルXV-15ティルトローター機、コンコルドSSTなどの実機が惜しげもなく置いてある。さらには、広島に原爆を投下した問題のB-29エノラゲイも素知らぬ顔で立たずんでいるといった具合。

 その一隅に、ワシントン市内のスミソニアン航空宇宙博物館本館から10年ほど前に消えたヘリコプターの展示コーナーが復活し、H-13Jはそこに展示されていた。


雪の降りしきる中、博物館に着いたときは小止みになっていた。
正面に高くそびえる展望台からはダレス空港が見わたせる。


航空宇宙博物館の玄関「ボク、ヒコーキ大好き」


格納庫にも似た巨大な博物館


迫力ある展示

 ベルH-13Jヘリコプターが大統領機として採用されたのは、1957年アイゼンハワー大統領の当時である。

 その頃、世界は冷戦状態に入り始め、米国はソ連がいつなんどきミサイルを撃ちこんでくるかもしれないという危惧を抱いていた。そのためワシントン郊外に地下司令部を設け、いざというときは大統領がホワイトハウスから車で移動することになった。

 その移動訓練をしたときのこと、大統領が車で走っている上空を他の閣僚がヘリコプターで飛び、大統領よりも早く司令部へ到着した。このことがあって関係者の間では、国家の安全のためにも、迅速な移動手段を探す必要があるという論議が急に高まった。

 シークレット・サービスは当初、単発の航空機は危険という見解を強硬に主張した。しかし、論議の果てに考え方をゆるめ、ホワイトハウスの芝生からでも発着できるヘリコプターが便利という結論に落着く。

 ベル・ヘリコプター社は当時、モデル47を大統領機に採用して貰うため、売り込みをはかっていた。ベル社のテスト・パイロット、ジョー・マッシュマンは単発ヘリコプターに反対するシークレット・サービスを47Jにのせ、空中でエンジンを切って何度もオートローテイション着陸をやって見せた。

 ベル47は、それを開発したアーサー・ヤングの考えによって、エンジンが停止したときの安全性を高めるため、当初からローターの慣性力を大きくしてあった。この慣性力によって、ローターはオートローテイション中もエネルギーを蓄え、最後にそのエネルギーを利用してフレアーをかけることにより、動力がなくてもふわりと接地できるのである。

 もうひとつ、大統領機として採用される要素のひとつとなったのは閣僚の1人、ジョン・フオスター・ダレス国務長官であった。マッシュマンは最後の一押しをするために、47Jに自分の妻と国務長官をのせて飛んだ。大げさにいえば女房を人質に置いたようなもので、いかにヘリコプターが信頼できるかを示すためであった。

 ダレスもこれを見て、2度目の飛行では夫人をのせた。ダレス夫人はすっかり有頂天になり、着陸してからもヘリコプターがいかに素晴らしいかを語りつづけた。ダレスは妻にとって安全なものは大統領にも安全と考え、アイゼンハワーにベル47Jの採用を進言するに至ったのである。

 47Jは47Hの改良型で、それまでのモデル47と異なり、鋼管溶接むき出しのテールブームを、応力外皮をかぶせたセミモノコック構造に改め、自重を軽減すると共に、速度を2割ほど上げていた。

 加えて47Jはキャビンを拡大し、操縦席を前方に置き、後方に3人掛けの座席を置いて4人乗りとし、主としてビジネス乗用機を目的とするものであった。

 1957年初め、米政府は大統領機としてベル47Jレンジャーが最適という結論を出し、2機を購入することにした。このことが明らかになると、1957年2月20日付けの「ニューヨーク・タイムズ」は、大統領のヘリコプターはホワイトハウスからポトマック川を飛び越えて、ナショナル空港の軍用ターミナルへひと飛びするだけで、あとはロッキード・スーパーコンステレーション「コロンバインV」か、近距離ならばエアロコマンダー双発機に乗り換えて飛行すると報じた。

 またペンシルバニアの新聞はアイゼンハワーがゴルフ好きであるところから、「このヘリコプターは、ゴルフ・クラブへ行くのに使うに違いない」と騒ぎ立てた。もちろん空軍は直ちに、非常事態のときに使うものだと反論した。当時、一般の人びとにとって、ヘリコプターは贅沢で無駄な乗り物と思われていたのである。

 空軍の購入した2機の47Jは、H-13Jと呼ばれるようになり、大統領機として2点の改修がなされた。ひとつは主ローター・ブレードを全金属製とすること。もうひとつは機首の大きな透明バブルに薄い色をつけてまぶしくないようにすることだった。このローターブレードの変更によって、搭載量も増加した。

 2機のH-13Jは製造番号が57-2729と57-2728であった。大統領は主として前者に乗った。大統領席は後方右側で、特別あつらえの肘掛けとフットレストが設けられ、左席にはシークレット・サービスが乗った。また2機目は予備機であり、また侍医やシークレット・サービスが乗っていた。

 このヘリコプターで大統領が初めて、ホワイトハウス南庭の芝生(サウス・ローン)から飛び立ったのは、1957年7月12日のことである。

 ところが、それから2ヵ月もたたないうちに異変が起こった。1957年9月のこと、アイゼンハワー大統領がロードアイランドのニューポートにいたとき、急に予定外の用件でホワイトハウスへ戻らなければならなくなって、海兵隊のUH-34D(シコルスキーS-58)ヘリコプターで近くの空軍基地まで飛ぶことになった。わずか4分間の飛行だったが、機内はベル・レンジャーの3倍も広く、大統領はこれがすっかり気に入ってしまったのである。なにしろベル機の方は補佐官も家族も同乗できず、いかにも狭苦しい感じである。

 こうしてUH-34は直ちに大統領機となった。そのため海兵隊の中に特別部隊が編成された。これが「マリーン・ワン」のはじまりである。一方、H-13Jは副大統領や閣僚などのVIP輸送用に格下げされ、そのまま10年間、1967年まで飛びつづけた。

 現在、予備機の57-2728はオハイオ州デイトンの空軍博物館にあり、わずかな間に主役の座を降りた57-2729がスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。展示のもようも、他の多くの機体の間にまぎれていて、いささか寂しく見えた。

(西川 渉、2005.3.10)

 

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