五 輪 ピ ッ ク

  

 先日、長男夫婦が遊びに来て、テレビのオリンピック放送を見ながら「サメ肌」の話をして行った。何でもサメ肌のような水着で全身を覆うと、体の表面を流れる水の抵抗が減るのかどうか、獲物を追う鮫のようにスピードが出るらしい。それを着たオーストラリアの選手が次々と金メダルを取ってスーパースターになったとか。

「それなら、陸上選手がトリ肌のシャツを着たら、飛ぶようなスピードが出るかも」と言ったら、家中みんなが鼻白んだ。しかし、これが冗談ととばかり言えぬのは、ゴルフボールの表面にあるこまかい凹凸が空気抵抗を減らして球を遠くまで飛ばすのに役立っていることである。

 小田島雄志『駄ジャレの流儀』(講談社、2000年1月刊)は、繰り返し「駄ジャレを大切にしましょう」と唱えながら、全編これ駄ジャレの連続。もちろん面白くはあるけれど、ここまで駄ジャレを連発されると読んでいてうんざりしてくる。著者みずからも駄ジャレを繰り返すと、「聞いても笑えない」とか「しらける」と書いている。したがって本書は何頁か読んだら次は明日というふうに、少しずつ読んでいかないと、駄ジャレ好きの読者も却って嫌いになるおそれがあるから注意を要する。つまり食傷せぬように読書をしなければならないのだ。

 著者の駄ジャレは、シェクスピア劇の翻訳から演出までの実践的な活動に発し、原著の持つ言葉遊びの面白さをいかにして日本語の中で生かすか。しかも舞台を見ている観客にいかに心地よく伝えるかという苦心の結果である。『ハムレット』なども、王子ハムレットの駄ジャレの連発からはじまるらしい。

 国王 どうしたというのだ、その額にかかる雲は?
 ハムレット どういたしまして、なんの苦もなく大事にされて食傷気味。

 また『ロミオとジュリエット』では

 マーキューシオ ゆうべはどうもご馳走さま
 ロミオ 何か食わせたっけな
 マーキューシオ 置いてけぼりを食わせたじゃないか。

 あるいはシェクスピア劇にしばしば登場する道化の話。あんまり出しゃばりすぎて王に叱られて言うせりふが「無理が通れば道化ひっこむ」。もっとひどいのは友達に悲劇『オセロー』の英語を「オセーロよ」と言われたとか。

 このようなシャレと駄ジャレとの違いは何か。駄の字をつけたからといって価値が下がるなどと差別するとダ・ヴィンチに叱られるというのが著者の説である。したがって、著者は差別なしに、すべて駄ジャレで通している。たしかに「好奇心とは高貴な心なり」といった一節(説)を読むと、著者の気持ちがよく分かるような気がする。

 

 また「シーザー言って聞かせやしょう」というせりふが悲劇『ジュリアス・シーザー』の中で使われたかどうかは書いてないが、映画の題名からは「禁じられたアワビ」「おお、エキストラの少女」「老婆の灸日」とか、小説の題名からは「駄ジャレー夫人」、歌の題名から「肉ラーメンの香り」ときりがない。花の名前では、珍しいパンジーを「チンパンジー」というのだそうである。

 これは私の考えたものだが、最近の映画の題名には「大パニック」(タイタニック)というのがあったし、「ジュラシック・パーク」が「ジェラシック・パーク」なら、幼児をつれた母親の公園デビューになる。そのジェラシーが昂じて殺人事件が起こったのは、つい最近のことである。

 昔の傑作――巨人軍の名選手、王、金田、広岡が歩いていると、道の向こうに財布が落ちていた。そこで思わず「おお、金だ、拾おうか」と言ったという話は、別に小田島先生の作品ではないらしい。スポーツ選手の名前ならば、タイガー・ウッズは日本名では中村寅吉ならぬ林寅吉だそうである。

 ずっと以前のこと、私の勤務先で大屋君と本間君に大阪支社へ転勤してもらう話が決まった。それを聞いたミヤタさん曰く「おーや、ほんまかい」。これは実話である。

 

 もう一度オリンピックに戻ると、きのう朝のテレビの中で荻野アンナ女史が女子マラソンに優勝した高橋尚子の話をしながら、「小出監督もひげを剃ってさっぱりしたあと、こう言ったそうです。コイデ思い残すことはありません」

 そういえば、なかなかメダルが取れずにシンドかったシドニー・オリンピックも今日で閉幕となる。「五輪」という日本語も、もとはオリンピックにかけた洒落言葉であった。

(西川渉、2000.10.1)

 

   (「本頁篇」へ表紙へ戻る