コンピューターを疑う

 

 このあいだからの一連のパソコン・トラブルを体験して、まだなおらぬまま、3か月ほど前に買った『パソコンを疑う』(岩谷浩著、講談社現代新書)を改めて読み直した。

 この本の論理と表現にはついて行けないところもあるが、今のコンピューターの発達の程度は未だ原始時代であって複雑怪奇なだけのこと。「ユーザー不在で一方的に肥大化した珍獣たちは、いずれ淘汰され整理されなければならない」という見方には共感できる。いま「やっていることは、コンピューターの未来を考えるならば、肯定的な基準にすべきものではない。それはコンピューター史の超古代における愚行にすぎない」というのである。

 たしかに人類も、北京原人の時代には同じ洞窟に棲んでいながら、顔つきは大きく異なり、その骨格は今の世界中の人種の差異よりも大きかったという「上洞人」(アッパーケイブ・マン)の遺跡がある。それが時代を経るにつれて、いずれも似たような方向へ収斂してきたのが現状であって、この進化の傾向が今後もつづけば、アフリカ黒人も北欧の白人も、日本人を含むモンゴル人種も、いずれ区別がつかなくなると考えられている。

 パソコンだって少し前は、もっとばらばらなOSや言語を使っていたことは間違いない。それが、ここ数年にして急速に『窓が九十五』(著者の命名)に席巻されてしまい、かじりかけの林檎も食べる人が少なくなってきた。この林檎も、著者によれば内部が目茶減茶で、腐りきっているらしい。

 そういう状況の中で、だからマイクロソフトが進化の頂点に立つかといえば、これからの長いコンピューターの進化の過程の中で、これはまだ恐竜ですらないであろう。仮に恐竜だとしても、あっという間に絶滅してしまった事実がある。このことを著者は、次のように書いている。

「『窓が九十五』は日常的に重度のアルツハイマー的症状に陥るが……それに対して正しい対応を講じている人、講じられている人は1人もいない。メーカーに電話をして、納得のいく理由説明と正しい解決策を教えて貰った人は全世界に1人もいないはずである。みな、そんなときは諦めてコンピューターの電源を切っているだけだ。問題が起きて膠着状態になったら『窓が九十五』をゼロから再インストールするという人も多い。こんなことで、ソフトウェア産業の未来がどうの、マイクロソフト社やビル・ゲイツ氏の偉業がどうのとほざいていられるような人は、単なる馬鹿+無責任である」

 私の経験では、『窓が九十五』を再インストールして治るならばまだいいが、駄目なものは駄目で、いっこうに治らないから困るのである。まさしくアルツハイマーには違いない。

 にもかかわらず、ユーザーの間にはお客であることを忘れて、びくびくおずおずした心理状態が蔓延し、「パソコンはむずかしい」という雰囲気に呑み込まれてしまう人が多い。そんな弱気を振り捨てて、思い切ってメーカーに電話をかけると、著者によれば「マイクロソフト社は、ユーザーの質問一つにつき2万円の料金を請求する」らしい。

 そこでユーザーのなすべきこととして著者が提案しているのは「なんだてめーら、人さまに対して失礼な提供の仕方をしやがって、くそったれ、そんなもんうまく使えるわけねーだろ。ばかやろー!」の言葉を投げつけること。「そして、仮想の処刑場で今日のアンシャンレジームの大物ビル・ゲイツ氏やその一派を血祭りに」あげることだそうである。

 私の今の心境を代弁してくれているような気がする。

 余談ながら、本書の中に「公共の利益」という言葉に関する議論が出てくるが、これにも賛成したい。著者はもちろんコンピューターとの関連を論じていて「公共の利益には、私の利益が含まれ、あなたの利益も含まれています。私もあなたも公共の一員であり、公共を形成する成分です。今日の間違った意味での公共の利益は特定の偏った利益にほかなりません」という。

 まったくその通りで、日本人の多くは「公共の利益」という言葉に弱くて、それをいわれると黙ってひっこまざるを得ないような気持になる。その例外の一つが何十年にもわたる成田空港問題で、あれは運輸省が一方的に決めた「公共の利益」を住民たちに押しつけた結果であった。住民の方も公共の一員として、自分たちの利益を主張したのである。

 羽田空港は今も「公共の利益」という名分のもとに小型機が入れないし、同じ理由づけをしていた伊丹空港は、関西新空港ができてスロットに余裕が生じた後も、小型機やヘリコプターを着陸させないでいる。阪神大震災のときですら着陸させようとしなかったほどである。

 いま日本では「公共の利益」という隠れ蓑によって、官僚たちの恣意がおこなわれているのである。

 話を戻して、『パソコンを疑う』の著者は、コンピューター業界はユーザーを「愚者視」しているという。したがってソフト・プログラムの構造を利用者は知らされないし、「ブラックボックス的複雑巨大化の歴史が示しているように、ユーザは余りに寡黙であり、……ユーザの寡黙ゆえの業界の専横、……高慢な愚か者の専横ではあるが、そういう空しい専横が実は今日までのコンピューター像、とりわけパーソナル・コンピューター像をつくり上げてきた。……ただし、それは完全に間違った社会的過程の行き着く果ての結末である。われわれは振り出しに戻ってやり直しが必要である」

 このことは、愚民思想にかぶれた官僚も同じであり、国民は重要な情報を知らされず、寡黙なままで、官僚たちの専横に右往左往するだけであった。今日の山一証券事件でおろおろする投資家や同社社員の例をあげるまでもないが、航空界もまた上述のように同じ結果となっている。

 もう一度余談ながら、あの山一証券問題は、大蔵省もかねてから処理の方法で悩んでいたに相違ない。下手に表沙汰になると、これまでの監督責任を問われて、火の粉が自分たちへ降りかかってくるからだ。ところが今月17日(月)になって2,600億円の隠し負債の報告を受けた。官僚たちは「しめたッ!」とばかりに小躍りしたことであろう。

 この「飛ばし」の不正を正面に出して、山一がいかにも悪く、違法取引を繰り返していたことを強調すれば、愚かな国民の目はそっちの方へ向くであろう。というので、22日(土)の証券局長の記者発表は喜びいさんでおこなわれたフシがある。席上、感想を聞かれて「言葉にならない、というのが私の言葉です」などと得意気に蒟蒻問答をやっていたが、同じ罪人であることは確かだ。

 馬鹿なマスコミも、まんまと大蔵官僚の手に乗って、山一の飛ばしや簿外負債の解説ばかりをしているが、根本構造に触れないのはひょっとして意識的にやっているのではないのか。想像をたくましうすれば、この問題を暴露した22日の日経朝刊のトップ記事だって大蔵省と示し合わせたものかもしれない。

 どうやらパソコンばかりでなく、あらゆる分野でやり直し(再インストール)の必要な時期がきたようだ。

(西川渉、97.11.24)

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