死ななきゃ治らない

 

 総務庁長官の人事については、テレビや新聞や評論家諸氏があらゆる論評を加えているので、もはや何もいうことはない。

 ただし、ひとつだけつけ加えるならば、あれは橋本首相が「長幼の序」を重んじ過ぎた結果ではなかったのか。というと、いささか褒めすぎになるかもしれぬが、この美風は本来、日本人の誰しも心の奥底にもっているものであろう。それが、最近はすっかり見られなくなってしまい、久しぶりに現出したのが今回の事件であった。首相も、みずから長老をもって任ずる中曽根氏のごり押しに抗しきれず、いうところの「前科者」を閣僚に加えざるを得なかったのである。

 しかも、中曽根氏に続いて警察官僚だった後藤田氏までが「前科者」をよしとしているという情報が入ってきため、首相はますます敬老精神を発揮してしまった。後藤田氏は、国民は皆もっと深く考えるべきだというようなことを前置きに、選挙民に選ばれたのだから、それを大臣にしてはいけないという論理は成り立たないとおっしゃる。

 しかし、おっしゃるほど深く考えなくても、あの漬物代議士は選挙民には落とされたのである。それが比例代表制によって自民党にすくい上げられただけのことで、その選挙制度というのは中曽根氏や後藤田氏などが自分たちに都合良くつくった人工的な制度にすぎない。後藤田氏のいうような民主主義の原理などとはほど遠い制度なのだ。現に、比例代表制における中曽根氏の位置を「終身第一位」としていることなどは、この制度を彼らが私物化していることの証明と象徴にほかならない。

 後藤田氏の言葉づかいは、テレビで聞く限り、まことにご大層なもので、これで単純かつ馬鹿な国民は恐れ入るだろうという魂胆がありありと見える。しかし、そんなことで国民がひれ伏すはずがない。かつてはカミソリといわれた御仁だが、いまや耄碌したといわれても仕方があるまい。

 逆に、こういう論理と人事に喜んだのは、贈収賄罪が問われている政財官界の悪玉どもで、自分たちの前途も決して悲観したものではないという希望をもったことであろう。しかし、その一方で大多数の国民をすっかり怒らせてしまった。

 話を戻して「長幼の序」の大切さは、われわれが幼児の頃からから叩きこまれてきた美風である。自分より年長者には、君づけなどで呼ぶことはできない。もう何年も前のことだが、同じ会社に勤める人が役員になった途端、年長者をつかまえて「何々君!」と呼んだので私は天地がひっくり返るほどびっくりした。

 お互いの立場がどうであろうと、会社の中の役職が何であろうと、年長者に対して何々君などというのは神を冒涜するような恐ろしさを感じる。「橋本君」が「中曽根さん」の言うことを聞かざるを得なかったのも当然のことである。

 しかしまたよく考えてみると、中曽根氏がごり押しといわれるほど強く主張しなければならなかったのは、逆に今の日本には長幼の序という意識が薄いからであろう。それが薄くなければ、老人が人に嫌われてまでがみがみ言わなくても、脇を見てつぶやくか、そっぽを向いてうそぶくだけで、穏やかに聞き入れられるにちがいない。無論すべてが聞き入れられるわけではないが、仮に聞き入れられなくても、独り言をいっただけだからメンツをつぶされたことにはならない。

 ところが長幼の序が薄くなった社会で、尊敬もされていない老人が自分の希望を押し通すには相当なごり押しをしなければならない。結果としてろくなことにはならないのである。中曽根氏の意見が通ったかに見えて、やっぱり駄目だったのは、長幼の序があるかに見えて実際はすたれてしまっている現代の実状を証明したようなものである。そのあたりに気が付かなかったのが中曽根氏のピエロぶりであった。

 そういえば、この人がまだ現役の頃、マスコミは「ナ」の字を「バ」の字に変えて揶揄したが、どうやらまだ治っていなかったらしい。古人の言う通り、あれは死ななきゃなおらないのである。何のための勲章だったのか。早く楽隠居をさせないのは、周りの取り巻きもよくないね。

(幸兵衛、97.9.20)

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