<壁を壊せ>

生きる権利と走る権利

 

 去る11月12日の日本航空医療学会では、ドクターヘリの普及がなかなか進まないことについて、多くの問題点が出された。先進諸国の中で、なぜ日本だけが遅れを取るのか。さまざまな理由が上げられたが、ここでは三つにしぼって考えたい。三つとは、高速道路の壁、行政の壁、コストの壁である。

なぜ高速道に着陸を認めないのか

 「高速道路の壁」については、去る6月23日の東名高速多重玉突き事故の事例など、今回の航空医療学会でも多くの参会者から指摘された。ドクターヘリが2機も現場上空に来ていながら、道路公団が路上着陸を認めず、1機は11分、1機は7分も上空待機を強いられたのち、近くの空き地に着陸する結果となった。

 そのためヘリコプターの着陸地点まで、道路から担架にのせた怪我人を大勢の手でガードレールを越え、高い土手を降りて運ばなければならなかった。したがって、医師がせっかくヘリコプターで駆けつけていながら、応急治療がはじまったのは長い無駄な時間がたってからのこと。応急手当てを受けた患者はヘリコプターや救急車で搬送されたが、17人中4人が死亡している。

 学会の会場では、このときの上空現場写真が映し出された。事故で炎上している何台かの車があって、その前方左側の路肩でトリアージがおこなわれている。その先の路面は完全にあいているし、対向車線も車が止まっている。これほど広々したところに、ヘリコプターが着陸できないはずはないし、よく言われるような二次災害の危険もほとんど考えられない。飛来したパイロットも、着陸は可能だったと後に語った。

 このような一刻を争う緊急事態に、なぜ道路公団がいちいち着陸の是非を判断するのだろうか。むろん公団職員が現場にいるわけではないから、具体的な地形や道路の状況が分かるはずはない。にもかかわらず、どうすれば迅速な判断できるのか。初めから否定的な結論を出すためではないのだろうか。

 それにしても、人の命を無視してまでヘリコプターの着陸を拒否するのは何故か。二次災害が起こったときの責任を取りたくないのであれば、初めから警察や消防に判断をまかせてはどうか。そうでなくても、救助に駆けつけた現場の指揮者が判断するのが普通であろう。

 それとも、高速道路は公団の私有物ということかもしれない。なるほど私有の土地や建物ならば、他人の無断侵入は許されないだろう。しかし道路は公的な資金でつくった公有物である。その公的資産を国民のために有効に運営するのが公団の責務である。したがって路上で事故が起こり、人命が危険にさらされているとき、救急ヘリコプターの着陸がいいとか悪いとかいう権利はないはずだ。

 その権利があるとすれば、公団は救急車やパトカーに対してもいちいち許可を出しているのだろうか。これらの公用車が許可なしでいいとすれば、ドクターヘリも消防本部の出動要請を受けて飛んできたのである。決して趣味や酔狂で飛んでいるわけではない。


東名高速道の事故現場を、上空で待機中のドクターヘリから撮影。
写真中央の白煙が炎上中の事故車(複数)。
その前方左側の路肩で負傷者のトリアージと応急手当がおこなわれている。
さらに、その向こうは道路が広くあいている。対向車線の車も止まっている。
この無人の路上に、救急ヘリコプターはなぜ着陸が認められないのか。


医師をのせてきた救急ヘリコプターは高速道への着陸が認められず、
無駄な時間を上空ですごしたのち、道から外れた付近の空き地に着陸した。
そのため救急患者はガードレールを越え、土手の斜面を下って、
ヘリコプターの着陸地点まで大勢の手で搬送されなければならなかった。

消防車と救急車は別物

 近頃よく聞くのは、地方自治体がドクターヘリを導入しようとすると、先ず防災ヘリコプターを活用せよという結論になるらしい。たしかに一理はあるが、いうまでもなく消防車と救急車は別物である。

 救急車が出払っているとき、咄嗟に救急救命士が消防車に乗って出動する。それは結構だが、だからといって消防車だけで救急システムをつくることはできない。上の考え方は、消防車があるから救急車は要らない、消防車だけで救急業務をまかなうと言っているようなものだ。まさに「行政の壁」である。

 だからといって、消防・防災ヘリコプターで救急をするなというのではない。しかし、やるからには、それなりの体制を整える必要がある。理想としては救急専用機を置くことである。それができないのであれば、今の防災機に救急装備をつけたままで待機し、出動要請があれば専用機同様、数分で飛び立てるようにする必要があろう。

 待機の場所も病院が望ましい。そのうえで出動の際は医師が同乗する。さもなければ、メディカル・コントロールを徹底させる必要がある。そのためには救急救命士の訓練を深め、業務範囲と権限を拡大する必要がある。さらに病院内の医師と消防ヘリコプターとの間で常に話ができるような無線ネットワークを整備するなどの体制を取らなければならない。

 出動範囲も、消防ヘリコプターだからといって、所属市内の行政区域に限定するのではなく、県全体をカバーしなければならない。望むらくは、時間距離にして15分程度の範囲を県境を越えて飛ぶような体制にすべきである。

 こうした体制が不備のままで、名目だけ消防・防災ヘリコプターで救急業務をするというのは、地域住民の命を軽視するものである。現に出動までの時間がかかり、出動回数も2002年は2,068回で、1機平均30回しかなかった。このままではドクターヘリがあった場合にくらべて、死者の数は倍増し、重傷から社会復帰のできる人は半分になるであろう。言い換えれば現在、救急死者の半数は死なずにすんだはずである。


壁を壊す(ベルリン、1989年)

自衛隊機と民間機は違う

 もうひとつ再確認をしなければならないのは自衛隊機と民間機は別物ということだ。わが県は自衛隊や米軍が駐留し、タダで飛んでくれるから救急専用機は不要という考え方がある。

 しかし、そこにはいくつかの問題がある。第1に、自衛隊は自衛隊法第3条(自衛隊の任務)に定められているように、外敵の「侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務」としている。たしかに自衛隊法第83条には「災害派遣」の定めもあるが、これは大災害が起こって民間手段だけでは手に負えなくなったときに出動するのであって、最初から出動するわけではない。

 つまり本来の任務ではないからこそ県知事から防衛庁長官への出動要請が必要なのだ。もしこれが第一義的な任務ならば、いちいち知事の要請がなくても出動できるはず。したがって、知事から長官への要請に手間と時間がかかって、とても日常の緊急対応には適さない。

 第2に装備の内容が異なる。自衛隊機は必ずしも救急装備をしているわけではないし、機内の騒音も激しい。防衛戦争が目的だから、そのための重装備をしている。したがって民間機よりもはるかに高価である。

 そこで第3のコストの問題になる。自治体からすればタダで飛んでくれるというが、国民全体からすればいずれも税金である。ある自治体にとって、目先の出費は少なくてすむかもしれない。けれども国全体から見れば、同じことをするのに高いものを使うことになる。それも本来の目的とは異なる目的外の仕事に、わざわざ高いコストをかけて使うわけである。

 要するに、ドクターヘリや救急専用機の代わりに消防・防災機や自衛隊機を使うのは、救急車の代わりに消防車や戦車を使うようなものだ。むろん咄嗟の間に合わせに使うのは構わない。しかし消防車や戦車という臨時の手段をもって、日常的、恒久的な救急システムをつくることなどできよう筈がないのである。


壁を壊す(ベルリン、1989年)

コストの壁をなくすには

 第3の問題は「コストの壁」すなわち費用負担の問題である。日本やフランスのように全額公費でまかなうような制度は、どうしても普及が遅れる。患者に負担をかけないというのは美しい建前だが、本音は国民全体の負担である。

 ヘリコプター救急のための基本的な経費、つまりヘリコプターの配置に要する固定費は公費でまかなうこととし、飛行に必要な変動費には健康保険その他の社会保険を当てるようにすれば、もっと容易に普及するであろう。むろん個々の患者にも直接負担がかかるわけではない。

 全国土の95%以上が救急ヘリコプターでカバーされ、もはや完成の域に達したかと見えたドイツの救急ヘリコプターが、この2年間で51機から69機に増えた。詳しくは8月28日付の本紙に書いた通りだが、この急増もヘリコプターの運航費に社会保険が適用されているからにほかならない。

 結果としてドイツの普及密度は日本の10倍に達した。スイスは17倍である。アメリカも救急ヘリコプター350機が飛んでいて、広大な国土の9割以上をカバーしている。


壁を壊す(ベルリン、1989年) 

万里の長城も乗り越えられた

 このような日本の後進性は、どうすれば立て直すことができるのか。ドクターヘリの普及を阻む壁は如何にして打ち破ることができるのか。最近『バカの壁』というベストセラーを書いた養老孟司教授は、この壁を必ずしも悲観的、批判的にとらえているわけではない。が、何もしなければ壁はいつまでも立ちはだかるであろう。

 壁の向こうにある開放的な楽天地に立つためには、壁を破るか乗り越える必要がある。それには体を使うことだと教授は言う。体を使って行動しているところから突破口が見つかる。幸いヘリコプター救急の関係者は、救急専門医、フライトナース、救急救命士、パイロットなど普段から体をつかって仕事をしている人ばかりだ。その点では養老教授の言う条件に当てはまるが、高度な専門職にたずさわっている人びとだけに頭が良すぎるのかもしれない。

 強いて言うならば、バカの壁は利口者では破れないのではないだろうか。こちらもバカになって常識や良識を捨て、できれば半狂乱くらいになって壁にぶつかる必要があるかもしれない。

 ベルリンの壁も30年で崩れたし、万里の長城もしばしば乗り越えられたことを忘れてはならないだろう。

(西川 渉、『日本航空新聞』2003年11月27日付掲載) 


壁を壊す(ベルリン、1989年)

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