パソコンの達人になる法




『パソコン自由自在』

(石田晴久著、岩波新書、1997年1月20日発行)

 本書はパソコン愛好者にとっては、まことに心楽しい本である。パソコンがいかに素晴らしい道具であるか、パソコンにどんな素晴らしいことができるか、その素晴らしいパソコンを使いこなすにはどうすればいいか、ということが興味深く、分かりやすく書いてある。

 結論から先にいうと「パソコンは非常に複雑な機械であり、これを自由自在に使いこなすには……次のような技能を身につけていくといいと思います」として、11項目の技能が提示されている。

 @マウスがいじれる。特にダブルクリックができる。

 Aキーボードが打てる。特にタッチタイピングが理想。

 Bローマ字(かな)漢字変換ができる。

 C新しいフロッピーのフォーマット(初期化)ができる。

 D新しいソフトウェアのインストールができる。削除もできる。

 Eデータのフロッピーディスクなどへのバックアップができる。

 Fパソコンにいろいろな周辺機器がつなげる。

 Gパソコン通信やインターネットに、電話線経由でパソコンがつなげる。

 Hソフトウェアのダウンロードができる。

 ICD−ROMやインターネットで必要な情報が探せる。

 Jホームページがつくれる。すなわち自ら情報発信ができる。

 

 一見して、どの項目も簡単なようだが、私自身反省してみると、完璧な項目は一つもない。いずれも中途半端で、とてもまだ本書のいうような自由自在というわけにはゆきそうもない。

 そのうえ、パソコンの多彩な機能を手中にして使いこなしてゆくには、次々と買い換えてゆかなければならないのが苦しいところである。昔でもパソコンは3年くらいで使いものにならなくなり、5年はもたなかったような気がする。最近は、せいぜい2年になってしまった。

 著者も「買うときは、5年も10年も使うつもりではなく、2〜3年したら買い換えるつもりでいないといけません。……2〜3年すると、同じような価格で、ずっと性能のよいものが出てきます……。古いパソコンでは、新しい機能・周辺機器・ソフトウェアは使えません」と書いている。

 そして、こちらの懐の痛みを慰めるかのように「パソコンは大量生産で安くできるようになっていますので、もう一種の消耗品と考えていいのです」という。しかし、その消耗のたびに何十万円の出費がかかるわけで、私としてはせめて「消耗品と考えるべきです」と書いて欲しかった。

 いずれにせよ、そのように割り切らざるを得ないとすれば、まことに贅沢な話だが、止むを得ない。というのは、よく考えてみると、どうも自分も本書と同じ程度か、結果的には著者以上にひどい消耗をしてきたきらいがあるからだ。

 著者は1936年生まれというから、私と同じ年齢である。私は、しかし、これまでそんな割り切り方はしていなかった。それでいて、この10年余りで何台のパソコンを買ったのか。いま身の回りにあるものだけでも4台で、それ以前の憶えのあるものが2台はあるから、少なくとも6台にはなる。まあ2年に1台の割合で買い換えたり、買い足したりしてきた。著者も2〜3年に1台ずつと書いているから、同じようなペースであろう。

 そのための出費は、安くなったといっても30万円はかかる。以前は確かに4050万円以上だった。けれども、本体が下ったといっても、さまざまなソフトと周辺機器が必要だから、本体の償却を合わせて、少なくとも毎月平均2万円くらいの出費になる。インターネットの経費を合わせれば3万円にもなろう。

 ともかくもパソコンの進歩と発達を取りこんで活用してゆくには、特にわれわれのような素人は常に買い換えてゆくほかはない。

 その結果、昔はペンやエンピツの代わりでしかなかったものが、色んな機能を発揮するようになって、DTP機能から通信機能へと発展してきた。それも、ニフティ・サーブやPC-VANに代表されるようなパソコン通信を経て、あっという間にインターネットに変身した。前者が手紙や電話の代りでしかなかったのに対し、インターネットは後述するような大変な機能をもっている。したがって、毎月2〜3万円の費用でも、費用効果は相当に大きくなった。

 このようなパソコンの進歩を、私のささやかな体験から区分けすると次のようなことになる。

ソフトウェア代替品扱いの対象
ワープロ筆記用具 文字
表計算そろばん 数字
DTP印刷機 活字
パソコン通信手紙・電話 デジタル文字
インターネットテレビ、ファクス、CDプレイヤー 映像
バーチャル・リアリティ交通機関 肉体

 

 すなわち、ワープロ・ソフトによって筆記用具の代わりとして使うことからはじまったパソコンは、表計算ソフトを加えて算盤や電卓の機能をそなえ、さらにデータベース・ソフトを組みこんで、一種の整理または管理用具となった。

 しばらくしてマッキントシュがDTP機能を喧伝するようになった。あの頃は私もつられて、それまでのPC98に加えて、マックを買い込んだが、宣伝通りにDTPソフトを使えるところまでは行かなかった。ただし当時、そのことにこだわった余り、ついに定価180万円のキャノンDTPを150万円ほどで買ってしまったのは、今から思うと夢のような気がする。この機械は今も雑誌編集の際のレイアウトに使って、重宝はしているが。

 やがてモデムという電話信号の発信と受信の装置が取りつけられて、パソコンは通信機能をそなえ、手紙や電話の代わりとなった。それが、さらに進歩してインターネット機能をもつようになって、テレビ、ファクス、ビデオ、CDプレイヤー、カラオケといったマルティメディア機能を有するに至った。

 そればかりではない。自分のホームページの開設が可能になり、個人が世界中へ向かって情報発信ができるようになった。これは新聞や雑誌の出版、さらにはラジオやテレビの放送局にも匹敵する機能で、かつては大資本にしかできなかった文化・情報活動を、誰もが自在に、殆ど費用をかけずにできるようになったわけである。

 将来はもっとすごくなるだろうと思うのは、いわゆるバーチャル・リアリティが身近かになったときで、これは書斎にすわっていながら、あたかも現場に出かけていって肉体的な体験をすることも可能になる。すなわちパソコンは交通機関の代わりになるかもしれない。それに近い状態は、すでに航空機のシミュレーター・ソフトが実現している。

 もっとも考え方によっては、パソコンだって大したことはないかもしれない。何故って、コンピューターなんぞはイワシが焼けぬから七輪に劣るし、シャツが洗えぬから洗濯機より駄目で、酒の燗もつけられぬからコンロの代わりにもならぬではないか。 (西川渉、97.5.18)

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