<ADACOPTER>

ドイツ・ヘリコプター救急発展の足跡


ミュンヘン・ハラヒン病院を離陸する救急機

 

 ドイツのヘリコプター救急は1970年にはじまった。同年秋から医療装備をした専用ヘリコプターが、救急体制の一環としてミュンヘンのハラヒン病院に待機するようになる。ヘリコプターが日常的な救急制度に取り入れられたのは、これが世界最初であった。

 それより先、ミュンヘンでは1960年代後半から、医師を乗せたヘリコプターが近郊アウトバーンの事故現場に飛び、けが人に対して迅速な救急治療をおこなう実験がおこなわれた。主体はドイツ自動車クラブADACである。

 当時、戦後20年を経たドイツでは自動車が増えてブームになっていた。そのため事故が頻発し、交通事故による死者は年間2万人を超えた。死者の中にはADACの会員も多く含まれ、関係者は心を痛めていた。のみならずADACが自動車保険を扱っていたため、保険金の支払いも急増した。

 こうしたことからADACは会員たちの安全を守り、保険金を抑えるため、ヘリコプターによっていち早く事故現場へ医師を送りこむことを考えた。これで迅速な治療をして大量出血を止め、けがの程度をやわらげ、後遺症を軽減することができる。そして死者を10〜15%ほど減らすことも可能と考えた。それを実証するのが実験飛行の目的である。


患者は乗せられない
当初の実験飛行に使われたのはベル206ジェットレンジャー。
小型5人乗りの単発機で、医師の現場到着は早かったが、
患者の搬送はむずかしかった。

 実験飛行の背景には、ベトナム戦争で多くの負傷兵がジャングルを越えてヘリコプターで搬送され、救命率が上がったという実績がある。負傷兵の搬送には第2次世界大戦でも航空機が使われたが、当時はヘリコプターが存在しない。その5年後、朝鮮戦争(1950〜53年)では、実用化されて間もないベル47小型ピストン機やシコルスキーS-55が連絡飛行や偵察飛行の合間に、救急搬送にも臨時に使用された。

 ベトナム戦争(1960〜75年)では最初から救護を目的とする大型タービン機が派遣され、およそ100万人がヘリコプターで搬送される。このことにより、アメリカ軍の負傷兵100人当たりの死亡率は、第2次大戦では4.5人だったものが、朝鮮戦争では2.5人、ベトナム戦争では1人以下に下がった。

「ミュンヘン・モデル」と死者半減

 ミュンヘンの実験飛行でも同じような効果が認められ、ハラヒン病院を拠点とする1号機は1970年11月から日常的な救急体制に組み入れられた。

 使用機はドイツのヘリコプター・メーカーMBB社で開発され実用になったばかりのBO105。5人乗りの小型ながら、エンジン2基の双発機で安全性が高く、胴体後部に観音開きの貝殻ドアがあり、患者を寝かせたストレッチャーの出し入れに適していた。

 待機の体制は、病院敷地の一角にヘリポートを設け、ヘリコプターと共にパイロットとパラメディックが常駐する。救急本部から出動要請が出ると、パイロットがエンジンを始動し、医師が駆けつける。そして原則2分以内に離陸するという出動方式で「ミュンヘン・モデル」と呼ばれた。

 こうして始まったヘリコプター救急は、その拠点がミュンヘンからフランクフルト、ケルン、ハノーバー、ブレーメンへと広がった。初めのうちはADACが運航費を負担したが、だんだんと負担の重みに耐えられなくなる。そこでADACは政府に働きかけ、一部を健康保険から出すという仕組みに改められた。

 もうひとつ重要なことは、いわゆる「15分ルール」である。ドイツ連邦は16州から成り、各州の「救急法」附属規則に救急治療の着手時間を定めている。州により12分、14分、15分、17分など多少の違いはあるが、全体ではほぼ15分以内に治療を始めなければならない。

 このような「レスポンス・タイム」にヘリコプターの活用が相まって、救命効果も向上したのであろう。1970年ヘリコプター救急が始まった年に21,332人だった交通事故死のピークが、15年後の1985年には10,070人まで半減した。これには車や道路の安全性の向上、運転マナーの改善などさまざまな要素が含まれるだろう。が、ヘリコプターの導入も大いに貢献したはずである。

 偶然にも同じ1970年、日本でも交通事故死がピークに達し、16,765人が死亡した。これが半減するのは32年後の2002年で、8,326人となった。しかし半減までにドイツの2倍以上の期間がかかったのはヘリコプターの導入が遅れたためといえば、言い過ぎだろうか。


書類の壁
初めのうちはドイツでも法律やら規則やら協定やら
救急ヘリコプターに関して沢山の書類が積み上げられ
なかなか飛ぶことができなかった。

拠点数の普及と東西ドイツの統一

 こうしてドイツのヘリコプター救急は、発足10年後の1980年に29ヵ所となり、20年後の90年には42ヵ所まで普及した。ちなみに、日本は現在43ヵ所だが、これは発足13年目のことである。

 ドイツでは1987年、西ベルリンにも拠点が設けられた。当時はまだ東西ドイツに分断され、東ドイツ圏内のベルリン空域は西ドイツの航空機が飛べない状態にあった。そのためADACはアメリカのオムニフライト社をチャーターし、アメリカ国籍のまま救急飛行に当てたのだった。


ベルリンでも救急飛行
西ベルリンの救急飛行は、せまい空域に限って
東側の監視のもと、米国チャーター機でおこなわれた。

 それから間もなく、1990年に東西ドイツが統一される。それまで東側には救急拠点などなかったが、統一後は東側にも次々と拠点が新設され、2000年までにドイツ全土を合わせて69ヵ所となった。

 現在は75ヵ所で、ほぼ全域が救急ヘリコプターの保護下にある。そのうち半分、36ヵ所の拠点を持つADACは2014年前半の半年間に27,356回の出動をして、24,689人の患者を救護した。年間では約5万回、1ヵ所平均1,400回に近い出動となる。またドイツ全体では75ヵ所の拠点から年間10万回以上の出動をしている。

 なおADACの現有機はBK117、EC145、EC135など総数51機。いずれも黄色い塗装に赤十字のマークをつけ、「黄色いエンジェル」と呼ばれる。中にはホイスト装備をした機体もあり、アルプス登山者の救出にも出動する。


飛行の安全
安全の構築はきわめて難しく微妙だ
ちょっとしたミスで全体が崩れる

クグラーさんが発展の中心だった

 このようなドイツ・ヘリコプター救急の中心には、常にゲアハルト・クグラー氏が存在した。1935年生まれのクグラーさんは、ミュンヘンの実験飛行の当時から主体的に活動し、大きな展望をもって仕事を進めた。その結果1970年、世界初のヘリコプター救急を実現し、翌71年にADAC救急事業部門の責任者となり、83年にはADACエアレスキュー有限会社として独立、1990年社長に就任した。

 それから10年間、クグラーさんは2000年まで社長をつとめたが、引退と同時に欧州航空医療委員会(EHAC)を設立、ヨーロッパ諸国の航空医療に関係する企業や団体を会員として国際的な活動を本格化した。このEHACにはオーストリア、チェコ、ドイツ、イギリス、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポーランド、スイス、スロバキア、スペインなどのヨーロッパ諸国が加盟、アメリカまでが参加している。

 その活動目的は、加盟各国の航空医療に関する情報を集積し、各国の関係団体や研究機関に運用方式改善のための助言をする。と共に、欧州航空安全庁(EASA)および各国の航空当局に提言をおこなう。

 また航空医療に使用するヘリコプターや装備品の改善について提言する。さらに航空医療に従事するパイロット、医師、パラメディックなど関係者の訓練基準策定、航空医療の有効性向上のための調査研究といった事業目的が掲げられている。

 日本の航空医療もクグラーさんの助言を受けた。クグラーさんは何度も来日して、さまざまな講演を繰り返した。われわれがドイツに行ったときも惜しみなく、各地の施設へ案内して貰い、多くの要人を紹介していただいた。今のドクターヘリ体制がドイツのそれに似ているのも、クグラーさんのお陰にほかならない。

クグラーさんの描画集"ADACOPTER"

 ここに掲げた漫画は全て、クグラーさんご自身の描いたものである。ヘリコプターによる救急飛行を創案し、実行に移し、拡大し、世界中にまで広げた思い出を、文字ではなく描画で振り返りたいとして、2002年に"ADACOPTER"と題するハードカバー240ページの本を出版、その1冊が筆者にも贈られた。その中には150点に近い漫画が収められているが、そのうち数点を選んでお目にかける。

 いうまでもないが、ADACOPTERとはADACとHelicopterを組み合わせた、クグラーさんの造語である。


ADACOPTERの表紙

 なお、描画のキャプションについては、ドイツ語の翻訳にあたって、伊藤忠グループの要職にあった倉成正也氏のご助力をいただいた。また、著作権については山野豊氏を通じて、クグラー夫人のご承諾をいただいている。さらに、クグラーさんは、これらの絵を竹ペンで描いた。それも日本の竹ペンが描きやすいというので、それを買って日本から送り続けたのは山野さんである。

 かくて、ヘリコプター救急の体系をつくりあげ、国際的な普及に力を尽くしてこられたクグラーさんは、2009年11月3日74歳でこの世を去った。その後半生、40年間の活動により、世界中でどれほど多くの人が命永らえることができたか、はかりしれない。


「ちょっと待て」
交通事故を起こしたからといって、すぐに昇天するのは早すぎる。

(西川 渉、『ヘリコプタージャパン』2014年8・9月号掲載)

 


クグラーさん
2007年来日したときの会食

     

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