<西川修著作集>

鮴(ごり)

 

 年末の佳日、あちらこちらの御歳暮にまじって、珍しいところから珍しい物を頂戴した。その案内の葉書は次のような文面だ。

 今年も余すところ十余日となりまして何となく気せわしいことです。先日は倍々御壮健な御姿に接し欣快の至りでした。大安でお約束したゴリ(鮴と書きますが漢和辞典に無いようです)の佃煮少し許りお送りしました。御笑味下されば幸せです。近頃聞いた話では佃煮にするのは犀川や浅野川の本物ではなく、河北潟辺でとれるインチキゴリとのこと。そう言われれば、料理屋で出すものとは、近頃形が違っているようです。前にはもっと頭も体も平べったいものだったようです。しかし佃煮としては今はこの手しか売ってないのですから御勘弁下さい。近岡屋の提灯を持つわけではありませんが、当市第一のゴリ佃煮店です。本物を召上りたければ、わざわざ当地の料理屋においで願う外ありません。好いお年を迎えられ、本物を食べにおいで下さい。

 短いながら達意の文章で、差し出し人は北陸、金沢のU先生。文中、大安とあるのは、去る十一月、福岡市で精神衛生大会が開かれた時、九大精神科教室の同門があつまって久しぷりの水炊きを囲んだ家の名である。葉書の主のU先生とも、その席上で久闊を述べたわけだが、先生すこぶる風格に富む。

 U先生は、九大法文学部を出て既に就職していたのに親戚や周囲の人々の熱望に負かされて、またやり直して医者になったという経験を持っている。従って私などより大分年長なのであるが、人局の年次が一年遅いということで、何となく私に兄事される気配があるのには恐縮する。その晩、まだ人が揃わず、宴会に入らぬ前のしばらくを、水たきの準備調った食卓を前にして、U先生と私は、隣合わせに坐って、懐旧談にふけっていたわけだが、その中に「イヤどうも……気のつかんことで……お茶を一つつぎましょう」と言って、揃えて伏せてある湯飲みを二人分並べて、傍のシャレた形の土瓶を取りあげて、わざわざ注いで下さる。恐縮しながら、頂こうとして中を見ると馬鹿に色が濃い。先生も私の様子を見て、湯飲みの中をのぞき込み、けげんな顔つきである。先生せっかくのご好意であったが、これは水炊きにつける酢醤油を間違えられたのであった。先生は几帳面に匂いをかいでみて、はじめて「ヤ、これは酢ですワイ」などと驚いた上、改めて私に陳謝されるという調子である。

 昔話になるが、医局会のあと茶菓子が出る。たまたま大きなシュウクリームが出たことがある。これは、皮の上の方の蓋の部分をつまんで取りのぞき、タップリと入ったクリームがこぼれないようにあんばいしながら食うのが、普通のやり方である。ところがU先生はそんな技巧をろうすることがない。イキナリ大きなやつの横腹に食いつく、昔のシュウクリームは、近頃のものよりクリームがたくさん入っていたせいもあるのだろうが、たちまちクリームが溢れ出て、U先4の指の股をつたって顎のあたりに流れ出し、白い回診着の襟から胸までダラダラとくる。「イヤこれは……。どうも食い方を知らねェもんで……」などと北国なまりで述懐される。すこぶる落ち着いたものだが、あと始末は厄介だったろう。

 食い方といえば、私が食い方をU先生がら教えてもらったものがある。「いちぱん安くてうまい昼飯の食い方Jというのである。

 某日、医局で閑談の際、いちぱん安くてうまい昼飯を知っているかと問われる。何か特別の料理があるかと思って謹聴していると「私が法医の教室にいる時に習ったのですが、飯にウドンを巻きつけて食うのです。今日の昼食にやってみませんか」という話である。小使いが昼飯の注文にきた時、いつもなら私は中華弁当などというのを注文するのだが、この日はU先生が六銭の白飯と五銭のスウドンを二人前頼まれた。小使いは不思議そうな顔をして出て行く。さて、昼食の時間になる。大テーブルの正面には下田教授が坐って、恒例の半熟卵とトーストを召上がっておられる。その他そうそうたる先生が、思い思いの昼飯を食っている中でU先生と私は十一銭の昼飯の食い方の実習である。シュウクリームでは不器用なU先生だが、此時は手つきも鮮やかに、ウドンの数本をとり、飯の上にくるくると巻きつけて食われる。「なるほど、ウドンを菜にして食うわけか、ウム、ちょっとうまいもんですな」などと言って、私がウドンと飯を別々に食うと「いや、こうやって巻きつけないといけません」とそのつど注意をされる。実に律義なものであった。申し訳ないが私はこの後これを試みたことがない。

 U先生は医学校を出た時、もともとこの職業が好きでなかったから、最も医者臭くないものを選ぶつもりで、法医学の教室に入った。教室の主任は有名なT教授である。ところがその頃、長崎大学である事件があって、T先生が学長として赴任し、その収拾に当たられることになった。U先生は、T先生が教室を去られることになると、自分も法医学を捨ててしまった。法医の次に医者らしくない所を志して入ってきたのが九大精神科だったわけである。三十年前の精神科には確かにそういう気分があった。

 ある日、U先生が長崎に行き、恩師を訪ねたことがある。T先生は非常に喜んでいろいろな話の末、よく来た、自分で市内を案内したいのだが、都合がつかないから君ひとりで見物して帰りたまえ、と市街地図を取りだし、見るべき場所と順路に赤鉛筆で記入して渡された。U先生はかしこまって地図を頂戴し、示された通りに一日を費して市内を廻って歩いた。あに計らんや、U先生は前から長崎の街はよく知っていて、名所も旧跡も今更見なければならぬ所はなかったそうである。冗談めかして語られたこの話に、私は、なぜそんなことをしたのですと聞いたものである。真面目な顔でU先生は「T先生はこわい先生で、言う通りしないと怒られるのです」と答えられたので笑ったことだが、私はU先生のT先生への傾倒と、抱いていた敬虔な気持ちを理解し得なかったらしい。

 大安での雑談の間に、私はU先生のお宅でゴリを御馳走になった話をして、謝意を表した。十年ほど前に新潟に行く用件があって、その帰途金沢に立寄った時のことだが、夜遅くしかも雨降りだったので、その夜はタクシーの案内で旅館に泊った。翌朝電話帳で住所を探し出して、U先生のところに出向いたのである。医局を出てから後の先生が、台湾に赴任されたこと、台湾が暑くてたまらず、満水したバケツの中に両足をつっ込んで暑さをしのいでいると、いかにもU先生らしい噂を聞いたりしているうちに、そのむやみに暑いのは台湾のせいではなくて、バセドウだと分かったこと、またその手術をされた噂を聞いたり、その後郷里に帰られたらしいなど遠い噂ぱかりであったたが、訪ねて見ると、U先生は古い旅館を買い取り、少し手を入れて医院を開業しておられた。十七、八年ぷりに会ったわけである。

 私はその時、よく開業されたものだと感心したり、また旅館を借りたといりことに、おかしさを感じた。というのはU先生がかって下田先生とこんな話をしていられたからである。

「私も一つ自分で病院をやろうかと思いますが、自分でやるとなると、どうも開院式とか地鎮祭とかがいろいろ煩いので……」

「そんなに煩いかね」

「私はああいう儀式が大嫌いで、今の病院で正月に式をやる時も、私はこういうことは下手だからと言って、看護人のいる所に一緒に立っていることにしている位です」

 筆者は傍できいていると、つい口を出したくなる。

「しかし、開院式や地鎮祭はたった一ペんで済むでしょう。僕は病院をやり始めてから経営こそ煩からろうと思うけれど、地鎮祭などはどうにかなると思いますがね」

「いや、経営のことは習慣通りにやればよいので何ともないが、地鎮祭は厄介です。地鎮祭のことを思うと開業の決心がつきません。第一、地鎮祭の神主をどこから連れて来るのか、それが分かりません」

 古い建物を利用してU先生が開業したのは地鎮祭を恐れたためだったのか。私はその二階の座敷で、お酒を御馳走になりながら、次第に洒が回るに従って、当時夢中になっていた金沢出身の小説家泉鏡花のことを語り、鏡花の小説の中にゴリという魚が出てくるが、今もいますかなどと言ったようだ。まもなく、奥様がお膳の上の小皿に盛ったものを持参された。「これがそのゴリです」といわれる。長さはほぼ一寸ばかり、細くて、メダカのちょっと大きなものといった感じである。金沢市内を貫流する犀川、浅野川の清流に住むというから、鮎かヤマメのような川魚だと想像していた私は、その意外な形に驚いたものである。U先生はこのことを全く記憶してないようだったが、いやゴリがお好きなら送りましょうと約束され、几帳面な先生のことである、旬日の内に冒頭の葉書となり、続いて小包が到来した。開くと立派な木箱で、中を二つに仕切り、片側にはこの小魚の佃煮、あとの半分には加賀白山の麓でとれるというクルミが飴煮にして入れてある。見事なものである。

 私は、今、この寸に満たぬ小魚の佃煮をかみしめながら、先生の風貌をしのぴ、その風格を懐かしみ、またこの十年の間に古い医院でなくて、新しい立派な病院を建てられたU先生の手腕に改めて驚嘆し、かく病院ができ上かったからには、開院式も地鎮祭も先生のご心配はもはやなくなったたものと、心から喜ぶ次第である。

(南斗星、大塚薬報、1964年)

 

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