<豪 州>

フライング・ドクターを尋ねて


ケアフライトのリアジェット救急機

 先月30日から一昨8日まで10日間ほど、HEM-Net調査事業の一環としてオーストラリアに出かけ、航空医療のもようを見てまいりました。

 南半球に行ったのは初めてですが、今や夏の真っ盛りでした。私の訪ねたブリスベーンやシドニーの辺りは気温30℃前後で真夏の太陽が照りつけておりました。しかし日本の夏とは異なり、余り湿度がないのでまことに気持ちの良い気候です。

 両都市の緯度を地球儀で見ると、ブリスベーンが南緯27°くらいで、北半球でいえば日本の奄美大島付近、シドニーが南緯34°くらいで伊豆半島の付近にあたります。けれども、どこか過ごしやすいのは、東アジアの湿潤なモンスーン地帯と異なって、大気の質が違うからでしょうか。

 したがって、飛行場やヘリポートなどに出て、しばらく日なたにいると、顔は火事場の金時か赤鬼のようになり、半袖シャツから出た腕もやけどをしたみたいで、ホテルに戻って熱いシャワーを浴びるとヒリヒリします。帰りの飛行機の中でも、スチュワデスが見かねたらしく「よく焼けましたね、大丈夫ですか」と声をかけられました。

 その程度ならまだいいのですが、メルボルンの周辺ではとうとう本物の火事になってしまいました。もっとも、旅の途中ではテレビも見なければ新聞も読まず、そのことを知ったのは帰国してからです。100人以上の犠牲者が出ていて、ヘリコプターで水をまいてもなかなか消えない。

 というのは暑くて乾燥していると同時に、コアラの好きなユーカリの木が多いせいではないでしょうか。ユーカリには油脂が多く含まれているそうです。その並木は町の中でも至るところで見かけました。


ゴールドコースト近郊の自然保護園でユーカリの葉を食べるコアラ

 オーストラリアで感じたもうひとつ大きな印象は、人びとの余裕のある親近感でした。こちらの目的は調査ですから、何かの取引をして相互に利益をもたらすような商行為ではありません。ひたすら先方の考え方や制度や実情、さらには知識を教えて貰うだけです。先方にとっては、いわば無償の好意ですが、それでも先週1週間、多くの人から親身になっていろいろ教えてもらいました。

 それも訪問先の関係者ばかりではありません。空港でもタクシーでもホテルでも、混雑した道路やレストランでも、人びとのどこかゆったりした雰囲気が感じられました。日本の20倍という国土に人口は2千万余。確かにコセコセする必要はないわけです。

 来客に対する礼儀正しい丁重ぶり――ポライトネスは、日本のそれが世界的に定評のあるところですが、オーストラリアでは日本以上のものを感じました。逆に近年、日本のポライトネスが落ちているせいかもしれません。

 オーストラリアには親日家も多いと聞きました。来日するオーストラリア人も多いとかで、今回の訪問先でも役員2人は、この2月に長野へスキーにゆくという話でした。日本は雪の質が良いからだそうですが、今年はまだ充分ではないとか。雪の状態があまり良くなければ行く先をサッポロに変えようとか、なかなか詳しい人たちでした。

 この会社はブリスベーンに近いゴールド・コーストの町にあって、この町は「サーファーズ・パラダイス」とも呼ばれていました。調査行の途中にかいま見た砂浜では、サーファーたちが波乗りに興じていましたが、ここで初めて見たのはカイト・サーフィンとでもいうのでしょうか。

 スポーツ・パラシュートのような横に細長い大きな凧の糸を体に巻き付けて、強い風に吹かれながら波を切って滑る遊びです。見ていても爽快な気がしました。


オーストラリアの空は大きい。このことも、
この国で受けた強い印象のひとつだった。
この広い空が人の心も広く大きくさせるのであろう。

 さて、オーストラリアの航空医療は昔から医師が小型飛行機でへき地の治療に向かう「フライング・ドクター」がよく知られております。

 これを創設したジョン・フリン(1880〜1951)は小学校の先生をしたのち神学校に学び、卒業後はカソリックの神父として、オーストラリアの内陸奥地の布教や救済にあたっていました。そのとき、へき地に住む人びとにとって最大の問題は医療であることに気がつき、各地に診療所をつくってゆきました。

 さらに1917年頃のこと、へき地医療の中でも特に問題の大きい救急のためには、無線機と航空機を利用するのが最良という考えに思い至りました。しかし、これらは当時としては最新の技術で、簡単に入手するわけにはゆきません。

 そこへ、フリンの考えを知ったあるパイロットが相談相手として名乗り出たり、刊行物で実情を訴えるなどして寄付を集め、ついに1928年フライング・ドクターの一番機が飛んだそうです。発想から実現まで10年以上を要しています。

 われわれが訪ねたRFDS――ロイヤル・フライング・ドクター・サービス(クィーンズランド事業部)はそのとき設立された組織で、航空機によるへき地医療の原点といえるかもしれません。

 ジョン・フリンは、その創設者というわけで、会社の入り口付近や会議室などに肖像画が飾ってありましたが、最も驚いたのは、20ドル紙幣にもなっていることです。


20ドル紙幣に描かれたジョン・フリン神父の肖像と
当時の救急機DH50A複葉機。
DH50Aは4人乗りだが、フライング・ドクター用として
胴体を延ばし、ストレッチャー2人分の搭載を可能とした。
この特別機はオーストラリア向けに9機つくられたと
昔のジェーン年鑑に書いてある。

 豪貨20ドルは1ドル70円として1,400円に相当し、最もよく使われる紙幣です。そこに描かれているわけですから、オーストラリア人の誰もがよく知っているのかと思いましたが、案内をしていただいたケアフライトの女性職員も、フリンがお札になっているなんて知りませんでした。

 さらに車の運転手に聞いても知らないという。「だって、お札などは貰ってもすぐ出てゆくから、じっくり見ている暇はないんでね」


RFDSの会議室に飾られたジョン・フリンの大きな肖像画

フライング・ドクターの詳しい調査結果は、いずれ本頁でもご報告する予定です。

(西川 渉、2009.2.10)

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