シコルスキーH-60

ブラックホーク・ヘリコプター

 

 今年は、シコルスキーH-60ヘリコプターの量産開始から丁度20年になる。量産型UH-60Aの1号機が初めて飛んだのは1978年10月17日であった。

 以来、今日まで、さまざまな派生型が開発され、生産総数は2,400機を超えた。米国では陸、海、空の3軍に加えて海兵隊と沿岸警備隊が使用し、米国外でも日本など23か国が採用している。

 受注と生産は20年後の今もつづく。たとえば昨年7月、アメリカ国防省はシコルスキー社との間に多年度契約を結び、向こう5年間に3軍向け108機のH-60を発注した。内訳は陸軍のUH-60Lブラックホークが58機、海軍のCH-60が42機、空軍のHH-60Gペーブホークが8機。このうちCH-60は海軍の艦隊支援輸送機として使われる新機種で、いずれ総数250機が採用される予定という。

 またH-60シリーズは、最近までの飛行時間が累計400万時間を越えた。このヘリコプターが世界的に広く、長く使われているのは、単に飛行性能にすぐれているばかりでなく、どんな用途にも適合できる多用性と、戦場における生還性(サバイバビリティ)が高いからであろう。

 実戦経験も豊富で、これまでにグレナダ、パナマ、湾岸戦争、ソマリア、ボスニアなどの闘いに参加している。また戦場外でも、さまざまな捜索救難、災害救援、救急救出の現場に飛ぶ。

 さらに飛行能力と搭載能力は今も成長と進歩を続けており、機外吊り下げ能力はエンジンとトランスミッションの増強によって現在4トンに達したが、近く主ローター・ブレードの改良によっていっそう増大する計画である。経済性も、飛行性能と搭載能力の成長に伴って高くなってきた。

 今回は以下、そうしたH-60ヘリコプターの全容を見ることにしたい。

 

 

地上3mの超低空飛行

 1990年8月2日、イラク軍のクェート侵攻にはじまった湾岸戦争では、91年2月末の地上戦で幕を閉じるまでの7か月間、およそ400機のUH-60ブラックホークがアラビア湾の砂漠地帯に送りこまれた。主基地となったのはサウジアラビアのイラク国境に近いところである。

 地上戦がはじまったのは91年2月24日。約300機のUH-60が参加する史上最大のヘリコプター進攻作戦となった。ブラックホークは兵員用の座席を取り外し、完全武装兵員15人と大量の火器、弾薬、水その他の資材を積みこんで、イラクの砂漠深く、目標地点に向かって飛んだ。周囲を護衛するのはAH-64Aアパッチ攻撃ヘリコプター。飛行高度は地上3〜6mという超低空で、むろん敵のレーダー網をかいくぐってゆくためである。

 高度5m前後という超低空飛行は、障害物の少ない砂漠の中だからできたのであろう。それに、作戦のはじまりは夜の白々明けを待って地面が見えるようになってからだった。しかも、この時間帯ならば敵はまだ充分に目覚めていない。このような超低空飛行をアメリカ軍は「ナップ・オブ・ジ・アース・フライト」(NOE飛行)というが、ここでは日本語で「匍匐(ほふく)飛行」と呼ぶことにしたい。

 匍匐飛行でイラク領土に入った大量のヘリコプター群は、敵に気づかれることなく、サウジアラビアの国境から100kmほど飛んで「コブラ地点」と名づけた目標の場所に着陸した。機内から跳び出した歩兵部隊は、ヘリコプターが飛び去るや砂漠の起伏を利用して直径約30kmの範囲にわたる円陣を固め、付近のイラク軍を攻撃した。イラク軍は多少の抵抗をしたが間もなく、続々と降伏してきた。

 コブラ地点を本拠とするヘリコプター群は翌日、今度は夕暮れがせまる頃、66機のブラックホークに約1,000人の兵員をのせ、偵察ヘリコプターと武装ヘリコプターで護衛しながら、再び匍匐飛行で砂漠を越え、ユーフラテスの谷へ向かった。バスラから出ているハイウェイ8号線を遮断するためである。

 これでイラク前線部隊は補給路が断たれ、同時にみずからの退路も断たれた。この作戦はアメリカ軍事史上、朝鮮戦争の戦況をひっくり返したマッカーサー元帥の仁川上陸作戦にも匹敵すると見られている。これで多国籍軍とイラク軍との間で半年余にわたって続いたにらみ合いが、一挙に片づいたのである。

 ブラックホークは、このときの進攻輸送では1機も失われなかった。ただし別の戦場で、撃墜されたF-16戦闘機のパイロットを救出に行った機体が、イラク軍の激しい攻撃によって撃ち落とされた。このときF-16のパイロットを含む4人が生き残ったが、いずれもイラク軍に捉えられ、捕虜になっている。

 湾岸戦争では海軍のSH-60Bシーホークも活躍した。LAMPSVとしての同機は、長距離レーダーによって水平線の向こうに存在する見えない目標物も正確にとらえ、その情報を海軍作戦本部に伝達した。これで米海軍は敵艦隊に対して大量の砲撃を加えることができたのである。

 湾岸戦争で、ヘリコプター部隊が最も悩んだのは砂漠の炎熱と白粉のようにこまかい砂塵であった。しかしH-60は、後述するような高い信頼性、整備性、生還性をもって、よく悪条件に耐え、任務を達成した。結局、この7か月間に失われたH-60は6機だけで、戦闘で撃墜された機体は2機しかなかった。ということは、このヘリコプターの開発がはじまった20年前の設計思想が正しく、かつ完璧に働いたことを示すものということができよう。

  

ベチナム戦争で任務拡大

 湾岸戦争で持てる能力を遺憾なく発揮したH-60ヘリコプターは、1970年代初めに開発構想が立てられた。その基本となったのはベトナム戦争の実戦から得られた経験と教訓である。

 ベトナム戦争で陸軍歩兵部隊の機動性を実現した移動手段は、チヌーク大型ヘリコプターとUH-1ヒューイ中型ヘリコプターである。UH-60の基本構想は、このUH-1の実績にもとづいている。もとよりUH-1に欠点があったわけではない。当時の技術水準からしても、ベトナム戦におけるUH-1はひとつの成果であり、その働きは近代歩兵戦におけるヘリコプターの役割を拡大し、その有効性を実証した。UH-60は、その長所をさらに伸ばし、陸軍の機動力をいっそう高めようというのである。

 余談ながら、UH-1はそれよりさらに20年前の朝鮮戦争で得られた経験と教訓にもとづき、戦場における負傷兵の救出を主目的として開発された。それがベトナムの実戦になると救急搬送と同時に、兵員の転送や火器制圧などに任務の重点が移った。また資材の搬送や空中指揮はもとより、電子戦にも使われるようになった。そして、ときには敵陣営に深く入りこみ、洋上遠くへ飛んで、撃墜された戦闘機パイロットの救出にも当たった。このようなベトナム戦争におけるUH-1の働きによって、ヘリコプターの任務は一挙に拡大したのである。

 とすれば、初めからそれらの役割を想定した多用途機を開発すれば、いっそう効果的な任務遂行が可能になる、というのが米陸軍の発想であった。しかもUH-1がベトナムで苦しんだ問題は、大量の兵員や重い資材を搭載して、高温下で飛ばなければならないということ。また砂ぼこりが多くて作業条件の悪いところで精密機器の整備をしなければならないのも問題で、それにもかかわらず何時でも飛び出せるな可動性の維持が求められた。

 そして第3に、ヘリコプターは敵に近い第一線で低空飛行をするため、どうしても被弾しやい。多数の敵弾を受けても、何とか基地へ戻ってくるヘリコプターもあったが、7.62ミリ弾が急所に当たると一発で墜落する。そんな中でUH-1はよく頑張ったが、陸軍はもっと生還能力の高い機体が必要と考えたのである。 こうして1960年代末頃から、歩兵部隊をのせて悪天候の中を飛び、敵の眼前で着陸が敢行できるようなヘリコプターの研究がはじまった。その基本概念がUTTAS(多用途戦術輸送用ヘリコプター)として完成したのは1971年のことである。

 

UTTASの基本条件と設計仕様

 UTTASの開発に当たって、米陸軍は先ず次のような基本条件を設定した。それは、最新の技術を採り入れていること、調達契約の前に実機による飛行試験をして設計要求が満足されているかどうか確認すること、複数の競合機による徹底的な評価試験をおこない、その結果によって最終調達機種を選定することというのである。

 具体的には、ベトナム戦争から得られた結果として、UTTASは次のような能力をそなえていなければならないとされた。気温35℃の高温下でも高度1,200mでペイロード一杯の重量を搭載し、最大出力の95%以下で毎分150m以上の垂直上昇ができること。また速度および航続性能は、145kt以上で少なくとも2.3時間は飛べること。

 操縦操作に関しては、水平距離1,100ft以下の助走距離で、1.75Gで引き上げながら、高さ200ftの障害物を越え、障害飛越後はマイナス0.5Gで降下できること。これは高温・高地の悪条件下でも超低空の匍匐飛行ができることを求めたものである。

 UTTASはさらに、毎秒46km/hの速度で地面に衝突しても、キャビン搭乗者には死者が出ないという条件を満たさなくてはならない。そして、この衝突時に主ローター・マスト、ギアボックス、エンジンといった大物装備品も機体と同じ耐久性を有すると共に、それらがキャビンの天井を突き破って機内に落ちてくるようなことがあってはならない。

 敵の火器に対する生還性としては、ミサイルの赤外線追尾を避けることが可能で、7.62ミリ弾1発があたったくらいでは全く故障しないような耐騨性を有することも要求することになった。このためUTTASの設計者は重要装備品については2重、3重の装備を相互に隔離して取りつけ、一つが破損しても別の装置が作動して、ヘリコプターとしての機能は失われないように設計しなければならなかった。また操縦席など、特殊な部分には装甲板を取りつけ、防御力を強化する必要もあった。

 信頼性と整備性に関しても高い水準が求められ、飛行1時間当たりの整備作業に必要な工数(マンアワー)を大きく減らすよう要求された。

 また、いったん緩急あった場合は米国外の遠隔地でも迅速に展開できるよう、たとえばC-130輸送機ならばUH-60を1機、C-141ならばUH-60を2機、C-5ならば6機を搭載できるように機体の大きさを設計するよう求められた。しかも、これらの輸送機に搭載するための分解時間を最小限に抑えるため、ローターマストを外さなくてもいいよう、マストの高さが制限された。原型機のマストが極端に低いのは、この要件に適合するよう設計されたためである。

  

YUH-60の採用決まる

 こうして構想を固めた米陸軍は1971年12月、正式に提案要求(RFP)を発してUTTAS計画に着手した。RFPに応じたのはヘリコプター・メーカー3社。その中から1972年8月、シコルスキーYUH-60とボーイング・バートルYUH-61の2案が選定された。これで両社はそれぞれ、飛行試験に使う原型3機を製作することになる。もっとも両社ともに、4機目の機体を自らの資金で制作し、評価試験の予備機として万一の場合にそなえることにした。

 試作機の初飛行は、シコルスキーYUH-60が1974年10月17日。試作契約の調印から27か月後のことで、当初の予定より1か月半ほど早かった。競争相手のYUH-61も同年11月29日に初飛行したが、これも予定より早い仕上がりであった。両機の違いは、シコルスキー機が尾輪式であるのに対し、ボーイング機は前輪式だったことである。

 だがYUH-60は試験飛行を重ねるにつれて、何か所もの改修箇所が出てきた。外観上最も大きな変更は、尾部の水平安定板(スタビレーター)を当初の固定式から可動式に改めたことである。これは着陸に際して大きなフレアをかけると、主ローターのダウンウォッシュが当たって過度の機首上げ姿勢になることが判明したためである。そこで1974年から75年初めにかけて、さまざまな対策が講じられ、多くの試作がなされた結果、全可動式のスタビレーターを取りつけることになった。それをつけた機体が初飛行したのは1975年3月13日である。スタビレーターは、主ローターのダウンウォッシュの影響を避けるため、ホバリング時と低速飛行中は40°ほど下方へ傾くようになっている。

 さらに当初の尾部パイロンは、幅の広い大きなものがついていた。これは尾部ローターが被弾して推力をなくしても、前進速度があれば機首方位を保てるようにするためであった。しかし、このままでは尾部ローターのダウンウォッシュの影響が大きいというので、小さいものに改められた。それをつけた機体が初飛行したのは1975年10月である。

 もうひとつの主要な変更は主ローター・マストの高さである。ローター回転面が余りに胴体に近すぎて機体が共鳴し、振動が生じることが判明したためだった。その結果、ローター・シャフトを38センチほど伸ばし、回転面を高く上げることになった。同時に延長部分の取り外しができるようにして、C-130やC-141に積みこむときはローター・ヘッドを外さずに頭を低く下げられるようにした。

 ほかにも、いくつかの小さな改修が加えられ、最終的な量産型と同じYUH-60が飛んだのは1975年5月17日であった。そして1976年3月19日、2機のUH-60試作機が米陸軍へ引渡され、評価試験を受けることになった。この2機は同年6月までの3か月間に812時間の飛行をして、砂漠の炎熱状態からマイナス50℃の酷寒状態まで過酷な評価試験に耐えた。

 結論が出たのは1976年12月23日。米陸軍はUTTASの開発競争の結果として、シコルスキー機の採用を発表したのである。

 こうして実用段階に入ったH-60ヘリコプターは、今日までさまざまな派生型が開発された。その一覧は別表の通りだが、細部については以下に見てゆくことにしよう。

 

H-60ヘリコプターの派生型一覧

UH-60A

米陸軍、税関などが運用する多用途機。

EH-60Aクィックフィックス

米陸軍の電子作戦機で、敵無線通信の発信位置を探知し、妨害する。

YEH-60B SOTAS

機体下面にレーダーを装備、戦場監視をする。ただしJ-STAR計画のために実用化されなかった。

UH-60L

米陸軍最新の標準方多用途進攻輸送機。

MH-60K

UH-60Lを基本として所定の装備をつけた特殊作戦機。

UH-60Q

米陸軍の救急輸送機。

VH-60

米海兵隊が運用する大統領専用機

HH-60Dナイトホーク

米空軍の捜索救難機だが、予算不足のために計画中断。

MH-60Gペイブホーク

米空軍の戦闘捜索救難機。

S-70A

多用途機。アルゼンチン、オーストラリア、ブルネイ、香港、日本、ヨルダン、メキシコ、モロッコ、フィリピン、トルコが採用。

S-70C

多用途機。ブルネイ、中国、台湾が採用。

UH-60A LFMS

多用途機。バーレーン、コロンビア、エジプト、サウジアラビアが採用。

UH-60P

韓国の進攻多用途機。

SH-60B LAMPSV

フリゲート艦、駆逐艦、巡洋艦を拠点とする対潜/対艦作戦機。米海軍のほか、スペイン海軍も採用。

SA-60F

空母搭載の護衛機。ソナーによる敵潜水艦の警戒探知をする。

HH-60H

空母搭載のコンバット・レスキュー海軍機。

SH-60R

米海軍のSH-60BおよびSH-60Fの能力向上計画。

CH-60

米海軍の戦闘支援/空中補給ヘリコプター。

HH-60J

米沿岸警備隊の中距離救難ヘリコプター。

SH-60J

日本の海上自衛隊機。

S-70B-6

ギリシャ海軍の対潜/対艦作戦機。

S-70B-2

オーストラリア海軍の特殊アビオニクス装備をしたシーホーク。

S-70B-7

タイ海軍機。

S-70CM-1

台湾海軍機。

 

 

基本型ブラックホーク

◇UH-60A

 H-60ヘリコプターの最初の量産型である。初飛行したのは、先にも述べたように、今から丁度20年前の1978年10月17日であった。そして2週間後の10月31日に米陸軍へ引渡され、翌79年6月19日に実戦配備についた。

 UH-60AはGE T700-700エンジン(1,543shp)2基をそなえ、最大巡航速度270km/h、超過禁止速度357km/hの飛行性能を持ち、実用上昇限度は5,800mであった。総重量は9,185kgである。

 構造上の特徴は、先に述べたような改修に加えて、胴体上部の形状が改められ、排気口が大きくなった。また主キャビン前方の窓は大きな1枚ガラスが小さな2枚ガラスに変わり、コクピットのドアの窓は、逆に2枚ガラスが大きな1枚ガラスになった。そして尾輪は初期の引込み脚が最終的に固定脚になった。主キャビンは通常13人の武装兵員を搭載し、分隊長や射手を加えて、総数15人分のシートがつく。

 主ローターは直径16.36mの4枚ブレード。ローターヘッドはチタニウム製の鍛造一体型で、エラストメリック・ベアリングを使っているため潤滑の必要がない。湾岸戦争で高い可動性を維持できたのもそのためで、このベアリングでブレードのリード、ラグ、フラップの全ての動きを支える。

 ブレードの構造はチタニウムのスパーとハニカム・コアをプラスティックの外皮で包み、前縁には摩耗防止のためにチタニウムの帯が貼りつけてある。ブレード先端には後方へ折れ曲がったような後退角がつき、飛行性能を上げると共に、騒音を減らす役割を果たしている。

 尾部ローターは直径3.35mの4枚ブレード。回転面が20°傾けてあるので、180kg相当の揚力が生じ、重心位置の移動範囲に余裕ができた。

 コクピットは2人乗り。航法装置は当時最新の装備を取りつけ、操縦席は23ミリ弾にも耐えられる装甲板が取りつけられていた。また燃料タンクを初めとする重要装備品も23ミリ弾に耐えられるよう設計されていた。

 UH-60Aは、その後も量産が進むにつれて、数々の改良が加えられた。ひとつは長距離空輸のための増加燃料タンクを機外に取りつけるめのESSS(機外搭載支持システム)の開発である。ESSSは左右のキャビン・ドアの前方肩のあたりに短固定翼を取りつけ、最大1,360ガロンの増加タンクがつく。これでブラックホークの航続距離は2,200kmまで伸びることとなった。

 このESSSには、燃料タンクばかりでなく、最大4.5トンまでの重量であれば、レーザー誘導のヘルファイア・ミサイル、20ミリ・キャノン砲ポッド、2.75インチ・ロケット弾、M56機雷投下ポッドなどの搭載も可能。

 もうひとつの大きな改良は、敵ミサイルを避けるためにエンジン排気口に取りつけた赤外線抑制装置である。この装置は当初150km/h以上の速度でなければ効果がなかった。しかし実際のところ、UH-60Aはホバリングや超低空飛行など150km/h以下で飛ぶことが多い。そこで1980年初め、ホバリング中の赤外線抑制装置(HIRSS、ハーズと発音する)が開発された。

 HIRSSはエンジン排気管の向きを改め、排気ガスの中に外気を混入する仕組みである。これで赤外線の抑制効果は速度の如何にかかわらず有効となり、1987年以降に製造されたH-60ヘリコプターには全機装備され、最終的にはそれ以前に製造された機体にも取りつけられた。

 また、UH-60Aの機銃装備は当初7.62ミリのM60Dマシン・ガンをキャビン前方の窓から突き出すようになっていたが、のちにM134の銃座が取りつけられ、射撃能力は大きく向上した。

 こうしたUH-60Aは米陸軍向けに総数974機が生産されたが、1989年末終了し、新しいUH-60Lへ移行する。ほかに米国では税関も14機を採用、いわゆる「麻薬戦争」に使うようになった。また米空軍も11機を採用し、HH-60Aの訓練機として使った。このUH-60AはのちにMH-60Gペーブホークに改造されている。

  

◇MH-60A

 特殊作戦機。既存のUH-60Aを30機改造してMH-60Aとした。機首下面に赤外線暗視装置FLIRを取りつけ、HIRSS、巡航赤外線抑制装置、夜間暗視装置、無線航法装置、チャフ/フレア散布装置、赤外線ジャマーなどを追加装備している。またM134ミニガンを標準装備とし、キャビンには117ガロンの補助燃料タンクを搭載していた。

 のちにMH-60Kに取って代わられる。

 

◇MH-60K特殊作戦機(SOA)

 1990年代に入って、UH-60Lを基本に米陸軍の特殊作戦用に開発された機体。前線警備が主任務で、機首先端のレドームの中に地形回避レーダーを搭載、機首下面のターレットにはFLIRを装備、夜間でも悪天候の中でも低空飛行ができる。

 さらに機首と尾部にはレーダー警報受信機(RWR)をそなえ、生還性が強化されている。また胴体左右に一と組のM130チャフ/フレア散布装置、胴体上面にAN/ALQ-144赤外線パルス・ジャマーをそなえる。

 機体構造もUH-60Aのそれを強化し、エンジンはT700-701C(1,857shp)が2基。それに吊り上げホイスト、折りたたみスタビレーター、HIRSS、ローターブレーキがつく。また短固定翼はUH-60Aのものとは異なって上反角がつき、これに230ガロンの燃料タンク2個が取りつけられ、翼先端にはスティンガー・ミサイルの搭載も可能。

 さらに機体の右舷前方には空中給油を受けるためのプローブがつく。機銃はMH-60AのM134ミニガンよりも強力なブローニングM2HB.50キャリバー・マシンガン2基を装備している。

 米陸軍は、このMH-60Kを1992年以降、60機調達している。

 

◇EH-60A/Cクィックフィックス

 UH-60Aを基本としてクィックフィックスUB電子パッケージを取りつけた特殊電子作戦機(SEMA)。敵の無線通信を傍受したり、妨害したり、発信位置を探知する。外観はテールブーム左右に細い棒状の双極アンテナ4本を垂直に取りつけ、機体下面には細長いむちのようなホイップ・アンテナ1本を垂らしている。原型機は1981年9月24日に初飛行した。66機のUH-60AがEH-60に改造され、最終号機は1988年9月に完成した。

 乗組員は5人――パイロット2人と指揮官、そしてクィックフィックス電子装備の操作員2人から成る。

  

◇YEH-60BSOTAS

 UH-60Aを改造した目標捕捉システム機。原型機は1981年2月に初飛行した。胴体下面に細長い箱型のレーダー・アンテナを取りつけ、飛行中はこれを回転させ、着陸時は胴体下面に密着させる。それでも通常の脚では地面に触れるため、脚を高く伸ばした。しかし、この計画は別のJ-STARS計画が優先することになって、1981年9月中止となった。

 

◇UH-60L

 1989年、米陸軍はUH-60Aを改善して新しいエンジンを搭載、トランスミッションを強化したUH-60Lの開発を決めた。それまでのUH-60Aとの違いは、エンジンがT700-701(1,857shp)に換装され、出力が300shpほど増強された。操縦系統も改善されている。

 エンジン出力の増強に伴なって機体構造も強化され、機外吊り上げ能力は4トンまで増加、総重量もUH-60Aの10,000kgから10,400kgへ増大した。将来に向かっては、さらにブレードの幅(翼弦)を広くしたり、エンジン出力を強化するなどの改善策が研究されている。

 


(UH-60L)

◇UH-60Q

 戦闘能力の向上に努力を重ねてきたH-60ヘリコプターの中で、これは人命救助を目的とする新世代の軍用救急ヘリコプターである。その能力は、戦場で負傷兵を救助し、後方の野戦病院まで長距離を高速で戻ることができる。また敵領土に撃墜された味方戦闘機の乗員救出にも当たれるよう設計されている。

 そのためUH-60Qは、機内の標準燃料タンク(360ガロン)に加えて、左右のESSSに増加燃料タンク(230ガロン)を一つずつ装備、1,000kmの遠方へ飛んで、救出作業をおこない、そのまま戻ってくることができる。ほかに救出用の吊り上げホイスト、FLIR赤外線暗視装置、最新の通信および航法電子機器などを装備する。

 キャビンには救急医療器具と担架6〜9人分を搭載、酸素発生装置、空気浄化装置、冷暖房装置、挿管装置、心拍モニター装置などもついている。乗員はパイロット2人のほか、救急隊員2人または救急隊員と医師が同乗し、総数4人で行動する。

 UH-60Qの開発がはじまったのは1966年2月。すでに4機が試作され、1998年から2002年にかけて87機が生産される予定。その後も、米陸軍はUH-60Qの増強を希望しており、10〜15年間で総数350機に達する可能性もある。


(UH-60Q)

 

陸軍に続いて海軍も採用

◇SH-60Bシーホーク

 H-60シリーズは、米陸軍に続いて米海軍も使用することとなった。新しいLAMPSV(多用途艦載機)として採用されたもので、その開発に当たっては再びボーイング社との競争が演じられたが、1978年2月28日SH-60シーホークの名前で採用が決まり、79年12月12日に原型機が初飛行した。

 このSH-60をUH-60とくらべると、構造上多くの点で異なっている。胴体は主キャビン前方の窓と左舷のドアがなくなり、大きな1枚ガラスの窓が取りつけられた。窓の後方には25個の穴があいていて、ソノブイ・ランチャーになっている。胴体側面には魚雷装備のためのパイロンがついた。また機体全体は海の水しぶきが吹きこまぬように密封された。

 尾輪の位置は前方へ移動して、せまい甲板でも着艦可能となった。主ローターはせまい艦内に格納するため、電動による折りたたみが可能で、ローター・ブレーキがついた。スタビレーターや尾部ローター・パイロンも折りたたみができる。

 悪天候の中で上下に動揺する甲板に降りるためには、RASTシステムがついた。着艦しようとする船の上でホバリングをしながらケーブルを降ろし、甲板に固定したのち機上ウィンチで巻き取りながら徐々に降下、そのまま着艦するという装置である。

 当然のことながら、対潜水艦作戦(ASW)、敵艦隊の探知、目標位置の捕捉など、LAMPSとしての装備もUH-60Aとは異なる。レーダーの到達範囲は150マイル。これによって捉えた目標の位置データは機上から母艦に送られ、対艦ミサイルの照準に使われる。武装は魚雷と対艦ミサイル。乗員はパイロット、指揮官、戦術士官、探知機操作員から成る。

 SH-60Bはさらに、負傷者の搬送、海上の捜索救難などもおこなう。そのため右舷キャビン・ドアの上に吊り上げホイストがつく。また艦隊への補給輸送もおこなう。

 SH-60Bの量産型1号機は1983年2月11日に初飛行した。また1991年には改良型が完成した。これは機体自体の信頼性と整備性が向上したほか、99チャンネルのソノブイ受信機、GPS、赤外線誘導の艦船攻撃用巡航ミサイル「ペンギン」を装備している。

 エンジンは初期のシーホークがT700-401(1,690shp)2基を装備していたが、88年なかばからT700-401C(1,900shp)に換装された。


(SH-60B)

 

◇SH-60F空母搭載機(オーシャンホーク)

 SH-60Bを基本として、空母搭載の対潜機として開発されたもの。従来のSH-3Hシーキングに代って、空母の周辺海面にソナーを降ろし、接近してくる敵潜水艦の警戒に当たり、魚雷攻撃もおこなう。

 SH-60Bとの違いは、任務に合わせてMAD機雷探知機、ソノブイ、RASTパッケージ、捜索レーダーなどを装備している。また燃料タンクが追加され、機体左舷には火器取りつけ用のパイロンが追加された。

 SH-60Fの初飛行は1987年3月19日。最初の実用配備は1991年で、空母ニミッツに搭載された。


(SH-60F)

◇HH-60H戦闘支援機(HCS)

 SH-60BとSH-60Fを基本として、SH-60Fと同じT700-401Cエンジンを装備する。異なるのは任務遂行のための装備で、主要任務は戦闘中のコンバット・レスキューと特殊戦闘支援。海軍におけるコンバット・レスキューの原則は気象条件の如何にかかわらず、敵の攻撃を避けながら、撃墜された味方攻撃機の乗員を救出することにある。そのためHH-60Hは赤外線ジャミング装置、チャフ/フレア射出機、レーダー警報受信機、HIRSSなどを装備する。さらに電波高度計、ドップラーレーダー、異常表示装置、夜間暗視ゴーグルなどを持つ。

 HH-60Hの救助能力は、空母から半径460kmの範囲で4人の乗員を救助してくることができる。武装内容はM60Dマシンガンが2基だが、必要に応じてミサイルや魚雷の搭載ができるよう、胴体両側に火器装備用パイロンが準備されている。

 1号機の初飛行は1988年8月17日。1990年1月から海軍の実戦配備についた。これまでに18機が調達され、さらに24機の発注が期待されている。


(HH/MH-60)

◇CH-60

 米海軍の補給輸送計画にもとづいて、1997年4月に試作契約が調印された新しい戦闘支援ヘリコプター。試作機は同年10月6日に初飛行し、11月には沖合の軍艦に向かって補給資材の輸送テストをおこなった。

 構造的にはブラックホークの胴体にシーホークのダイナミック系統、操縦系統、アビオニクスなどの装備品を組み合わせている。そのため開発リスクが少なく、機体価格も安くなり、経済性が高いという特徴を持つに至った。その結果、前任のCH-46Dにくらべて、飛行1時間当たりの費用は半分以下になるという。また任務の途中で断念しなければならないような事態は80%も少なくなり、予定外の整備作業は58%減というのが海軍の計算である。

 CH-60は、ESSSの装着も可能で、ここに増加燃料タンクを搭載して広範囲の捜索救難ができる。さらにレーダー警報措置、チャフおよびフレア射出装置、赤外線抑制装置などがついている。

 搭乗者数は乗員4人と兵員13人。貨物ならば機内に4.5トン、機外吊り下げで4トンの搭載が可能。

 当面の調達数は98年度予算で2機、99年度で6機だが、2000年度からは毎年18機ずつ製造され、最終的には200〜250機の調達が予定されている。

  

大統領専用機と沿岸警備機

◇VH-60大統領機

 米海兵隊が運用する唯一のH-60である。アメリカ大統領の乗用機は通常シコルスキーVH-3Dが使われるが、VH-60はそれを補完するもので、従来のVH-1Nに代わって1988年11月から9機が配備された。

 外観はブラックホークに似ているが、内容はシーホークに近く、SH-60Bと同じT700-401エンジン、ギアボックス、操縦系統などをもつ。機内はVIP仕様の内装で、防音効果が高い。また世界中どことでも無線連絡ができるよう特別の通信室があり、電磁パルスに妨害されないよう保護されている。

 アビオニクス装備も最新のものをそなえ、機首左側のレドームには気象レーダーが収められている。またHIRSSを装備していて、赤外線ホーミング・ミサイルに対して防護策を取っている。

 機体の塗装は胴体全体がダークグリーンだが、下の方に白線が走り、キャビン上方も白く塗られている。エンジン・カウリングには星条旗が描かれ、胴体後方には UNITED STAES OF AMERICA の文字が白く書かれている。

  

◇HH-60Jジェイホーク中距離救難ヘリコプター(MRR)

 1986年9月、米沿岸警備隊から2機の試作契約を受けた救難機。海軍のHH-60Hを基本とし、戦闘任務にかかわる装備を取り外して、機首に大きなレドームを取りつけ、気象レーダーを収めている。

 基本任務は洋上中距離の捜索救難。ほかに沿岸警備、麻薬取締まり、補給輸送、航法支援、海洋環境保全、そして戦争になれば予備役として活動する任務をもつ。

 エンジンは、SH-60B/FやHH-60Hと同じT700-401C。任務遂行能力としては、120ガロンの長距離飛行用の補助燃料タンクを胴体右舷のパイロンに取りつけ、さらに2個を左舷パイロンにつけて、550kmの沖合まで飛び、現場上空で45分間の捜索または救出作業にあたったのち、遭難者6人を救助して戻ってくることができる。また単なる捜索であれば550kmの沖合で1時間半の現場飛行が可能。最大風速30mの海上で救難作業に当たることもできる。

 量産型HH-60Jの初飛行は1989年8月8日で、約35機が発注された。塗装は白と赤の目立つ色で、何マイルも先から見える。そのすぐれた救難能力によって、米沿岸警備隊は毎年250人を救助している。

 

 

空軍では戦闘救助機

◇HH-60A/HH-60Dナイトホーク

 空軍のコンバット・レスキュー機。従来のHH-3ジョリーグリーン・ジャイアントに代わるもので、全天候性を有する。

 HH-60AはUH-60Aをわずかに改修した機体だが、その能力をもっと高めたのがHH-60Dナイトホークである。しかしHH-60Dは予算不足のために計画が中断された。またHH-60Aも新製機はつくられず、かねて空軍が保有していた10機のUH-60Aを改修するにとどまった。

 

 

◇HH-60G/MH-60Gペーブホーク

 UH-60Aを基本とするコンバット・レスキュー機。改造内容は空中給油装置の取りつけ、117ガロンの機内タンク取りつけ、折りたたみ式のスタビレーターの採用など。さらに機能を高めるために気象レーダーやドップラー・レーダー、185ガロンの機内タンク2個、航法機能強化のためのGPSなどを装備する。

 こうしたペーブホークは2種類があり、HH-60GはUH-60Aからの改造機でエンジン出力が1,543shp、MH-60GはUH-60Lからの改造で出力1,857shp。FLIR、0.50キャリバー・マシンガン、ESSSなどもついている。

 HH-60Gの基本任務は戦闘救助だが、MH-60Gの方は、悪天候でも敵地に潜入したり脱出したりする特殊作戦が本務で、さらに特別作戦機の護衛もMH-60Gの任務と考えられている。戦闘救難は2次的任務である。こうした任務の違いによって武装火器も異なり、MH-60Gにはキャノン砲がつく。

 乗員は4人――パイロット2人とフライト・エンジニア1人、射手1人である。兵員は武装火器を含めて、10人まで搭載できる。こうしたペーブホークを空軍は98機調達した。このうち16機はMH-60Gで、残りがHH-60G。さらに92年に5機を追加発注している。

 

 

H-60主要機種の主なデータ

UH-60A

UH-60L

SH-60B

MH-60G

米陸軍

米陸軍

米海軍

米空軍

ローター直径(m)

16.36

16.36

16.36

16.36

全長(m)

19.76

19.76

19.76

19.76

エンジン

T700-700

T700-701C

T700-401C

T700-701C

出力(shp)

1,543×2

1,949×2

1,900×2

1,857×2

総重量(kg)

9,185

10,659

9,927

10,206

最大速度(km/h)

293

294

272

293

実用上昇限度(m)

5,882

5,836

4,572

5,791

航続距離(km)

600

580

800

800

 

 

米国外のH-60ヘリコプター

 シコルスキーH-60ヘリコプターは、米国以外の外国軍でも幅広く使われている。最近までの採用国は23か国に上るが、その多くはH-60という米軍呼称を使わず、シコルスキーの社内呼称S-70を使っている。一部では、日本のようにライセンス生産もおこなわれている。

 オーストラリアのH-60はS-70A-9と呼ばれ、39機が発注された。これらのブラックホークは1987〜91年の間に豪州ホーカーデハビランド社で組み立てられ、オーストラリア空軍に引渡された。実際は陸軍が使用している。また海軍も16機のS-70B-2シーホークを採用したが、これはSH-60Bを基本とするもので、湾岸戦争にも貢献した。

 ブラジルは1997年7月、初めて4機のS-70Aブラックホークを発注した。同年秋には1番機が引渡され、陸軍の国境警備にあたっている。

 中国は1980年代なかば、24機のS-70C-2ブラックホークを購入した。ヒマラヤ高地の救難救助などにも使われている。香港も1995年までに捜索救難用として6機を受領した。

 サウジアラビア陸軍は1990年以来28機のS-70A-1を調達、デザートホークの呼称で運用している。そのうち8機は救急患者搬送のための特殊医療機器をそなえ、担架6人分の搭載が可能。

 韓国では、大韓航空がシコルスキー社と共同生産契約を結び、陸軍向け81機のUH-60Pを1990年から5年間で組立てた。内容はUH-60Lと変わらない。

 台湾空軍は14機のS-70C-1を採用し、捜索救難に使用中。海軍も1997年6月11機のS-70CM-2サンダーホークを発注した。

 トルコは12機のS-70A-17を保有する。そのうち半数は軍警察、残りは普通の国家警察が使用中。

 コロンビアは1988〜89年の間に10機のS-70Aを取得、ゲリラの警戒に当てている。

 スペインは6機のS-70A-3シーホークを空母に搭載している。ギリシャも1995〜97年の間に6機のS-70B-6エーゲアンホークを入手、空母搭載用の対潜機、対艦機、ならびに捜索救難機として配備している。97年10月さらに2機を追加発注した。

 タイ海軍は97年6月までに12機のS-70Bシーホークを受領した。空母に搭載して対潜水艦作戦および対艦隊作戦に使われる。

 ほかにもバーレン、ブルネイ、エジプト、ヨルダン、フィリピン、メキシコ、モロッコ、マレーシアなどがS-70/H-60を使用している。政府高官のVIP輸送に使っているところが多い。


(S-70A)

 

 最後に、日本では1989年から三菱重工がH-60のライセンス生産を開始した。航空自衛隊のUH-60J、海上自衛隊のSH-60JとUH-60J、陸上自衛隊のUH-60JAである。

 このうちSH-60Jは対潜用の艦載機で、米海軍のSH-60Bと共通の機体に日本で開発した戦術情報処理表示装置、自動操縦装置、母艦との間を結ぶデータリンクなど独自の装備品を搭載する。平成9年度までに75機を受注、年度内に54機が納入される。この調達は今後も続くもようで、従来のHSS-2の後継機として約100機の調達が予定されている。

 さらに海上自衛隊のUH-60J救難ヘリコプターは平成9年度までの受注数が16機になる見込み。うち12機が9年度末までに納入される。

 航空自衛隊のUH-60J救難ヘリコプターは平成9年度までの発注数が22機になる予定で、うち18機が納入される。

 陸上自衛隊のUH-60JAは1994年に採用が決まった新しい多用途ヘリコプターで、現用UH-1Hの後継機にあたり、70機近い調達が期待されている。平成9年度までの受注数は10機になり、年度内に2機が納入される。

 こうして日本のH-60発注数はすでに120機を越えており、米国外では最大の使用国になっている。

 
(SH-60J)

 

生還性と整備性を実証

 最後にもう一度、H-60のサバイバビリティについて見ておきたい。「サバイバビリティ」とは、辞書を引くと生存、生き残り、命拾いをすることなどの日本語が出てくるが、ここでは「生還性」ということにする。戦場で敵と闘って生還してくることこそが重要という意味である。

 アメリカ軍は、このサバイバビリティについて「敵の攻撃を避け、かつそれによく耐えて、損害をこうむることなく、与えられた任務を達成する能力」と定義している。H-60はこうした定義にもとづいて設計されたものであった。

 具体的には先にも見たように、湾岸戦争で地上5m前後の超低空を高速で匍匐飛行し、相手に気づかれることなく、敵地深く進入して行った実績がある。

 また1983年10月、UH-60Aはグレナダ侵攻で初めて実戦に参加した。カリブ海の島国グレナダで起こった左翼クーデターを鎮圧するためで、32機が戦場に送られ、すぐれた生還性を示した。たとえば1機はドライブシャフト、油圧系統、油圧ポンプ、コクピットなどに47発の銃弾を受け、乗っていた5人の兵員は、パイロットを含めて全員が負傷した。それでも同機は、任務を遂行して帰投している。

 また別の機体は79発の敵弾を受けた。うち2発は主ローター、1発は尾部ローターに命中し、パイロットも負傷したが、基地まで戻ることができた。さらに、ある機体は燃料タンクに5発の銃弾が命中したが、2〜3日間は燃料洩れがなかった。ほかにも何機か燃料タンクに被弾したが、燃料が洩出したのは1機だけであった。

 1989年12月のパナマ侵攻にも多数のUH-60とMH-60が参加した。独裁者のノリエガ将軍を麻薬密輸の容疑で強行逮捕するための軍事行動である。このときの戦闘では25機が被弾したが、翌日には24機が飛行可能な状態に戻っていた。H-60ヘリコプターの高い生還性と整備性を示すものといえよう。

 

 

生還性を高めるための条件

 このようなH-60の生還性は、もとよりUTTASの設計仕様で要求され、開発段階から組みこまれていたものである。

 第1に、生還性を高めるには、上の定義にもあるように、敵の攻撃を避けなければならない。そのためには敵に見つからないように飛ぶ必要がある。樹木の高さくらいの超低空を高速で移動する匍匐飛行の能力である。

 次いで、もしも敵に見つかったときは、その攻撃を避けるために敏捷な運動能力が必要となる。高い荷重倍数に耐えて、激しい急旋回ができなければならない。ブラックホークのローター系統は、こうした運動性を発揮できるような強度と柔軟性を有し、1.75Gで引き上げ、毎秒3°の旋回ができるし、横進速度は65km/hに達する。こうした運動性は、本機以前の中型ヘリコプターには見られないものであった。

 もちろんシーホークも同じ能力を持っている。そのため高波に翻弄される小型艦船の小さな甲板にも着艦できるし、激しい波浪すれすれの海面でソナーを降ろして敵潜水艦の監視と探知の任務に当たることもできる。

 生還性の第3の要件は、敵弾を受けてもそれに耐えられることである。実例は上述の通りだが、被弾しても飛行が続けられるよう、H-60はまず双発であり、操縦系統、油圧系統、電気系統などもバックアップ系統をもつと共に、取りつけ位置が相互に遠くに離してある。

 さらに重要装備品には、敵弾が命中してもそれに耐えられるだけの耐弾性がもたせてある。たとえば主ローター・ブレードはチタニウム製のスパーが入っているが、UTTASの開発試験では実際に23ミリ弾を撃ち込み、それでも飛行可能であることが確認された。また主ローター・ヘッドも鍛造チタンでできていて、エラスメリック・ベアリングを使っているため、やはり23ミリ弾に対して同様の耐弾性をもつことが確かめられた。

 トランスミッションは油液を内蔵する。しかしオイルの管が奥深いところを走っていて、外部に露出する部分を最小限にしているため、被弾してもオイル洩れの可能性は小さい。

 尾部ローターは、ローターヘッドが頑丈で耐弾性が高い。ドライブシャフトも厚さ2ミリのアルミ管で直径が大きく、23ミリ弾に対してよく耐えることが実証された。尾部ローターの操縦系統は2重になっている。それでも両系統が破損したときはブレードがスプリングによって予め設定されたピッチ角に固定され、前進飛行と着陸には支障がないようにできている。

 

 

発達型UH-60Xの開発へ

 H-60は、テールブームも頑丈である。多数のスパーとストリンガーが入れてあり、外板は柔軟で亀裂が広がりにくい。したがってテールブームや垂直安定板の中で23ミリ弾が破裂しても、飛行を続けることができる。

 コクピットは全体がグラスファイバー製で、操縦席には装甲板がある。また正副2つの操縦系統はできるだけ遠く離してあり、1発で両方が損傷することはない。燃料タンクの耐弾性がすぐれていることも先の実例で見た通りである。

 それでもH-60は、敵の攻撃で墜落することがあろう。その場合、機内の搭乗者が即死しないようにできていることは、これも実戦で証明された。たとえば脚には油圧による強力なショック・アブソーバーがついていて、きわめて頑丈な機体のメインフレームにつながっている。また座席や床板は破損する事によって墜落の衝撃を吸収する。逆にキャビン・フレームは頑丈で搭乗者を保護し、その上に取りつけたギアボックスが落ちてこないようにつくってある。

 具体的には43km/hの前進速度で突っ込んだ場合、キャビンが前後方向につぶれる割合は最大15%でしかない。同じように垂直方向に41km/h、左右方向に33km/hの衝撃を与えても、キャビンのつぶれる割合は15%以下である。また機首下げ15°、速度65km/hで突っ込んでも、コクピットと主キャビンの容積は5%しか減少しない。これらの緩衝能力は実際のクラッシュ・テストで確認されたが、同じような能力をもつヘリコプターはH-60のほかにアパッチ攻撃機とマングスタ攻撃機だけである。

 このようにすぐれた特徴を持つH-60ヘリコプターは、量産開始から20年を経た今日も進歩の歩みを止めようとしない。現在ひそかに検討されているのは発達型UH-60Xの開発である。ブラックホークを基本として、大きく改良しようという構想で、たとえばエンジン出力の増強、複合材ブレードの採用、最新のアビオニクス装備などが取り入れられるもようである。

 シコルスキーH-60/S-70ヘリコプターは、こうした改良と進歩によって今後も長く第一線で飛びつづけるであろう。

(西川渉、『エアワールド』98年4月号掲載)

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