<西川修著作集>

花月記(3)アオイ

牧野先生の「植物学雑誌」

 牧野富太郎氏には、夥しい著述の他に雑誌の刊行という仕事があった。『植物学雑誌』は日本の学術雑誌の最古のものの一つであるが、氏はその生みの親である。その創刊号は明治20年2月に出たが、ちょうどその頃、石版印刷の稽古をしていた氏は、自分で描き、自分で印刷したヒロハノエビモ及びササエビモの図版をこれに掲載した。この雑誌はその後順調に続刊されたが、牧野氏は別に、自分の研究を誰からも制肘を受けない発表機関として自分の雑誌を作り、非常な苦心をして育て上げた。『植物研究雑誌』(一時『植物ノ知識ト趣味』と改題されたことがある)がそれである。

 大正五年(1916)四月創刊の『植物研究雑誌』は氏の主宰するもので、その内容から、その体裁の隅々に至るまで、よく氏の性格を語って余す所がない。「氏はこれによって、何人にも拘束されることなく、思う存分に世界に向かって呼び掛け、訴え、叫び、嘆き、笑い、そして一人の人間を真裸にして解剖している。これを見てある人は憤り、悲しみ、心配し、迷惑を感ずるであろう。またある人は同情し、また痛快を叫ぶであろう。……」と篠遠喜人氏は書いているが、この雑誌の維持発行に注がれた氏の苦心は並々ならぬものがあった。

 その創刊号に掲げられた発刊の辞の中に曰く「本誌は時代之を生めりと。而して予が家久しく貧にして日常給せず。豈に出版費の余裕あらんや。而かも我抱負を行わんとするの念遂に自ら抑うべからず。偶々一人士に遇い乃ち頼りて小額の資金を得、以て僅かに之を上梓し得たり」とあるように、常に刊行の資金に悩み、大正5年の創刊から、昭和8年朝比奈泰彦薬学博士に譲って主筆を辞めるまで、17年間に80冊を刊行したが、はじめ及川智雄、次には当時未だ学生であった池長孟、さらに成蹊学園長中村春二および中将湯本舗津村順天堂の津村重舎など諸志の義侠的支援を受けなければならなかった。

 それだけに、この雑誌を愛する事もひと通りでなく、印刷インクは最上等のものを常に使用、時には印刷が出来上がっているのにインクの色が違うとか、擦過した傷があるといって印刷のやり直しをさせたこともあった。活字も無疵のものを揃えさせ、自分で活字を購入して印刷屋に渡したこともしばしばあった。網版や凸版の製版には最も心を使い、料金を惜しまず鮮明を心がけた。従って、その出来栄えは見事で、印刷の見本に使用されていたということである。牧野氏持ち前の凝り性が伺われる話である。


植物学雑誌第1巻第1号表紙(左)と植物研究雑誌表紙(一時改題された頃のもの)

モミジアオイ

 今年の本土上陸第1号になった台風七号が、紀伊半島から日本の中央部を通り、日本海に抜けて行った翌日の7月28日は青い空が初秋のように爽やかに晴れ渡っていた。この朝、本年始めてのモミジアオイの花を見たのである。この花は34年秋に鳴門から移植されて以来、一昨35年の夏も、昨年も2年とも7月22二日に開花し始めている。だから今年は何日に咲き始めるだろうかというのが私の関心事であった。

 毎朝窓から中庭の中央にあるこの木を見下ろす、庭に出て葉や蕾の様子を眺める。7月18日頃、今まで濃い緑一色であった葉が下葉の一、二枚が黄変、20日頃には黄葉は四、五枚となり、紅変しているのがる。蕾は八つ位あるがまだ咲きそうな様子がない。

 7月22日、葉の黄変しているのが多数になったが、今年は3年連続の記録は空しく、この日は開花しなかった。今まで病院の西側にあったのを、この冬に中庭に移したのが影響して花の時期が遅れたのかとも思われる。そして28日朝初めての花が唯一つ開いたわけである。この花は朝開いて夕方にはしおれてしまい、翌日まで咲き続けることがない。翌29日はひとつも咲かなかった。30日は二つその後毎日咲き続けて七つ八つ九つと多い日もあったが、近頃は花期の終りも近づいて次第に数が減り、咲かない日があったり、三つくらいの日があったりという状態である。花の終りはこの2年の経験では10月のごく初めの一日か二日であるからもう間がない。

 モミジアオイは北米原産のアオイ科の宿根草で学名はHibiscus coccineus, WALT。徳川時代の終り頃渡来して、その頃は紅花黄蜀葵(ベニバナトロロアオイ)と称したという。観賞植物として栽培され、掌状に深裂したモミジ様の葉があり、牧野氏の遺稿にあるように“輝く如き赤色の”大型の花を開く。花は五弁、花冠の基部は連合し、花片の形は下部の細長い倒卵形で、ヘラ形とでもいったらよいのであろうか。下が細いので弁の間に隙間ができている。芯柱が長く突き出ているのは、琉球の街上でよく見られる同属のブッソウゲ(仏桑花)に似ている。

 牧野氏はその晩年頃、渡来植物の運命、盛衰に興味を持ち、これについて著書を出したい意向のようであったが、それは実現しなかった。しかしこれに関連した記述は論著の中に沢山見られる。例えばかつて鉄道草といわれたヒメムカシヨモギ、ヒメジョオンが次第に姿を消して、これに代わってハルジョオンが素晴らしく繁殖していることは色々な所に書いておられるが、渡来植物の一つであるこのモミジアオイについても『近年絶えて見受けない』と詠嘆しておられる。そうしてみると、我が庭のモミジアオイは未だに生き残っている貴重な存在ということになる。


モミジアオイ

アオイの仲間

 モミジアオイの名に因んでアオイの仲間を少し並べてみよう。

 人の背よりも高くなる壮大な直立した茎に艶麗な花をびっしりと付けるのはタチアオイ(蜀葵)である。別名をハナアオイともナツアオイとも言い、五、六月梅雨の時期に咲き、茎の下から上に咲き上って行く花が、梢に達して咲き終わると梅雨が晴れるという。しかし、満州や北海道では真夏の七、八月頃にも見たから、梅雨期との関係は日本内地だけのことだろう。小アジアの原産だという。

 中学に入学して博物という学科があった。博物で教えるのは一年は植物、二年は生理衛生、三年は動物、四年は地質鉱物、五年は生物通論というようなことで、この入学早々の植物の時間の、最初の教材がゼニアオイであったから、ゼニアオイは印象深い植物である。心臓形の葉を持ち、紫紅色の濃い紫色の脈を持った花を付ける異国的な感じの植物だ。漢字では錦葵。

 葵という漢字はフユアオイを指すということだ。わたしはこの植物を知らないがゼニアオイと同じ属である。小さな目立たぬ花を付け、昔は薬用として栽培されたという。

 テンジクアオイ、今では園芸の書物に大抵ゼラニウムと書いてあるから、この名で呼ぶ人の方が多いだろう。茎が柔らかく折れやすい。全体に青臭い独特の臭いがある。これはアオイという名はついているがアオイ科ではなくて、フウロソウ科、ゲンノショウコなどと近縁のものである。アフリカ原産。

 徳川の葵の紋というのは大変な権威のあったものらしいが、このアオイはまた別物だということである。このもとの植物は例の『加茂の葵祭り』のアオイで、本当の名はカモアオイまたはフタバアオイ。ウマノスズクサ科の植物であるという。加茂神社を崇拝する諸氏の間でこのカモアオイを家紋に用いたが、その中の一族松平氏を徳川氏がおかして、その紋章を自家のものとしてしまった。カモアオイは1株に必ず2葉出るのでフタバアオイともいうのだそうだが、それがどういう訳で更に三葉葵となったものであろうか。

 加茂の祭りにはこの植物を車に掛け、また冠にも付けると聞いているが、その由緒に付いては私もよく知らない。どなたか教えて頂ければ有り難いと思う。

 モミジアオイの真紅の花に対し、トロロアオイというのは花冠が黄色、花の底は暗紫色で、秋葵の別名に相応しい優雅な花である。真直ぐに立った茎の梢上に大形の花が下から上へ順に咲き上る所も、朝開いて夕方にはしぼむところもモミジアオイによく似て、互いに極めて近縁の植物である。カボチャアサガオという変な別名もあるらしいが、そういえばモミジアオイもモミジアサガオと呼ぶ人がある。和紙を漉く時にこの根を混ぜて粘りを出すという話だ。

(南斗星、『大塚薬報』1962年10月号所載)


タチアオイ

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