ハンナ・ライチ冒険の生涯

 

 99年5月下旬、カナダのモントリオールで開かれた国際ヘリコプター学会AHSの総会で、VS-300のレプリカが展示されていた。1939年9月に飛んだシコルスキーの実験機である。私は、そのそばにいたシコルスキー社の技術者に、ちょっと質問をしてみた。

 イゴール・シコルスキーは、このVS-300を操縦するのに、なぜ山高帽をかぶり、フロックコートを着ていたのだろうか。答えは「そういえば、あの人はいつもそんな服装をしていましたね。習慣ではなかったのでしょうか」という平凡なものであった。

 私は、しかし、単なる習慣ではなくて、シコルスキーが写真うつりを気にしていたからではないかと思う。つまり自分がこれから歴史的な飛行をしようというのでカメラマンを呼び、写真を撮って記録に残す。変な恰好では後世に恥をさらすかもしれないし、写真を見る人に失礼があってもいけない。ここはきちんとした服装を整えるべきだという律儀な気持があったのではないのか。

 もっともミヤタさんにいわせると、それは逆で、歴史的な飛行であろうと何だろうと特に改まるわけではなく、普段着のまま飛ぶ。ヘリコプターでも何でも自転車と同じくらいにしか考えていなかったところにシコルスキー、ひいてはアメリカ人の良さがある。実用的な技術はそういう日常性から生まれてくる。アーサー・ヤングだってベル30を試作したとき、空を飛んだこともないのに、いきなり自分で操縦桿をにぎり、試験飛行をはじめたではないか、と。

 

 ところで、VS-300の少し前、1938年2月ベルリンのドイチュランド・ホール屋内で、ハンナ・ライチがフォッケFW-61ヘリコプターを飛ばして見せたことはよく知られている。これもヘリコプター史上見逃すことのできない歴史的な飛行だが、ハンナの方は女性だったにもかかわらず、服装を気にしたようすは見られない。普通の飛行服に丸い飛行帽をかぶっていただけで、この人が男まさりのテスト・パイロットだったことからしても、まさかドレスを着るようなことは考えなかったであろう。

 そのハンナ・ライチについて、私はヘリコプターで史上初の屋内飛行をやって見せたことは知っていたが、それ以外の詳しいことは知らなかった。ところが先日、インターネットで別の調べものをしていて、偶然ハンナの話を見つけたのである。

 そのウェブ・サイトによると、無論たいして長い説明ではないが、ハンナは当初、医者になろうとしたらしい。しかし医学生の当時、1932年に初めてグライダーで空を飛び、すっかり航空の魅力に取りつかれてしまった。その結果グライダーの練習に打ちこみ、たちまちにして滞空記録や高度記録をつくると共に、とうとうグライダーでアルプス山脈を越えるという希有な航空人の仲間入りを果たした。

 そのころ飛行学校におけるハンナ・ライチのニックネームは「成層圏」であった。名前のきっかけはグライダーで飛行中、嵐につかまったとき動力機よりも高く、かつてない高度にまで上昇して嵐を避けたことがあったからという。勇敢で大胆な飛行ぶりを示す話である。

 ハンナは1934年に医学の勉強を中断し、家族の反対を押し切ってドイツ空軍に入るや、男でも躊躇するようなテスト・パイロットとなった。当時のドイツは第三帝国と呼ばれたヒトラー支配下のナチス時代で、彼女自身もいつしかヒトラーの目に留まるようになった。

 というのも、ハンナは世界最初の女性テスト・パイロットとして、数多くの危険な飛行に従事したからである。戦争中のドイツは懸命に新しい航空機の開発を進めつつあった。そのためハンナも数多くの未完成の航空機を操縦した。その間には自分も死ぬかと思われたこともしばしばであったが、彼女は常に冷静で、異常事態にぶつかったときも、そのもようをしっかりと観察していて、航空機開発の貴重なデータをもたらしたのだった。

 たとえば防空気球をつないだスチール・ケーブルに爆撃機をぶつけて、ケーブル切断の試験をしたこともある。またV-1飛行爆弾にコクピットをつけて飛んだり、Me-163ロケット機のテストにもあたった。FW-61ヘリコプターによる屋内飛行も決して安全ではなかったはずである。

 こうした危険な試験飛行によって、ハンナは怪我をして入院したこともある。しかし、そのことによって飛ぶことを恐れるふうもなく、5か月後に退院するとすぐに飛びはじめたらしい。

 彼女の空への情熱とナチス政治との間に特別の関係はなかった。むしろ政治的な判断力は余りなかったといわれる。けれども若い時代に友人に当てた手紙を見ると、ナチス政権が強大化するにつれて自分もその中で出世できると考えていた節があり、悪魔との取引に応じたようにも見える。

 その結果、世界最初の女性空軍大尉に任ぜられた。また鉄十字章と空軍のダイアモンド勲章を受けた唯一の女性でもある。そのことを示すかのように、ハンナがヒトラーからパイロット記章を受けている写真もある。このとき一緒に剣とダイアモンドが渡されたらしく、そばにはナチス空軍最高司令官のH.W.ゲーリングも立ち会っていた。ハンナがドイチュランド・ホールでFW-61を飛ばしたときも、ヒトラーが見ていたらしい。

 しかし、ハンナはテスト・パイロットとして余りに優秀だったため、実戦にはほとんど出なかった。そのことはハンナよりも、むしろ連合国側のパイロットにとってラッキーだったかもしれない。こうして彼女はナチス・ドイツよりも、航空の進歩そのものに大きく貢献した。

 1945年、第3帝国最後の日、ハンナはベルリンの道路上に飛行機で着陸した。市内の大部分はすでにソ連軍に占拠されつつあった。彼女はヒトラーのところへゆき、親衛隊の一員として最後まで闘って死ぬことを希望した。しかし、そのことは許されず、ソ連軍の激しい銃撃を浴びながら離陸し、ベルリンを脱出した。ヒトラーが愛人のエヴァ・ブラウンと結婚し、自ら命を絶ったのは、それから間もなくのことである。

 戦後ハンナの行動はヨーロッパで政治的な不評を買った。戦争犯罪を裁くニュルンベルグ裁判では、第三帝国崩壊の目撃者として証言したが、その調べに当たった調査官は、当時の状況をきわめて正確に証言したものとの印象を受けている。

 ハンナ・ライチは、空を飛ぶことは男性のものであるという航空界の思いこみを破って危険な試験飛行に従事することにより、航空における男女の区別をなくしてしまった。その生涯には、グライダーからエンジンつきの航空機まで、40種類以上の高度記録や滞空記録を保持していた。

 ハンナ・ライチは1979年に死亡した。1912年生まれだから、67年の生涯は数奇な運命と冒険に彩られ、誰にでも興味をもたれるところである。特に戦前および戦中の軍事色の強いドイツの抑圧されたような時代にあって、ひとり抜きん出たような女性であった。

 それというのも妻や母の役割から脱け出し、航空の世界に情熱を燃やしたからであろうか。

(西川渉、99.12.19)

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