ヘ リ コ プ タ ー の 歴 史

――その前史と誕生と発展と――

 

 

 ここに掲載するのは『航空情報』別冊「ヘリコプターのすべて」(酣燈社、1979年10月刊)に書いたヘリコプターの歴史である。もはや20年前の文章で、何か一貫した歴史観を書いたわけではないが、事実関係については可能な限り正確を期するつもりで、こまかく調べたことを憶えている。

 あの本は今では誰の目にも触れなくなっただろうから、ここらでもう一度陽の目を見せてやろうかと思う。実は、日本のウェブサイトでヘリコプターの歴史について書いたものがあれば、昔の作文など持ち出すのはやめようと思ったのだが、どうやら私の調べた限りでは見当たらない。そこで古い作文にも何か取り柄があるかもしれないと思って掲載する次第。

 分量は400字詰め原稿用紙にして50枚以上。長いうえに、当時はまだワープロやコンピューターを使っていなかったから、改めて電子化するのは大変である。少しずつ区切って続けて行きたい。

近代ヘリコプターの誕生

「信じられない!」
「こんなヘンなもの見たことがない!」 
「頭がおかしくなったのか、それとも酔っぱらったのか?」

 これは1942年5月、アメリカ初の実用ヘリコプター、シコルスキーXR-4が米陸軍へ引渡されるために空輸されたとき、燃料補給のために途中の寄港地で出会った人びとの驚嘆の声である。当時、第2次大戦がはじまって間もなく、飛行機は決して珍しい存在ではなかったが、ヘリコプターはまことに信じがたい奇妙な航空機だったのである。

 見物人の中には「いつになったら、われわれもこれに乗ったり、買ったりできるようになるのかな」といった将来への期待を示す人もいれば、「どうやら、あれは我が軍の秘密兵器らしい」などとまことしやかにいいふらす人もいた。

 こうしてヘリコプターの実用化は、ふつうの飛行機よりもはるかに遅れてはじまったのである。

 

 これより先の1939年9月14日アメリカ北東部のコネチカットで、近代ヘリコプターの原型となったVS-300が初飛行した。操縦桿をにぎっていたのは同機を設計し、製作したイゴール・シコルスキー(1889〜1972年)である。

 初飛行は機体がロープで地面につながれ、やや馬力不足のまま、わずか数インチの高さに離昇し、数分間飛んだだけであった。作業にあたった人びとは機体の周囲に集まり、地面にひざまづいて、4つの車輪がいつ同時に地面を離れるかを見守った。そして、この小さなヘリコプターが空中に浮かんだとき、それは間違いなく新しい時代を開く歴史的な飛行となったのである。


(山高帽にフロック・コートの正装でVS-300を操縦するイゴール・シコルスキー)

 

 VS-300は、その後3年間にわたって試験飛行を続け、さまざまな改造がなされた。

 初期の機体は鋼管溶接構造で、75hpの空冷式4気筒エンジンを搭載、直径8.5mの3枚ブレードから成る主ローターをVベルトとベベルギアを介して駆動するようになっていた。

 一時は、機体の尾部左右に桁を張り出し、水平に回る2つの尾部ローターを加え、そのピッチ角を変えて前後左右の操縦をしようという試みもなされた。

 しかし結局は、主ローターのサイクリック・ピッチでコントロールするのが最良という結論に達し、今につながるシングル・ローター方式に落ち着いたのである。そして1940年5月13日、機体を地面に縛りつけていたロープが外され、始めての自由飛行がおこなわれた。VS-300はこのとき15分間空中にとどまり、十分な操縦性を示した。

 その後シコルスキーは米陸軍とイギリス軍の代表、ならびに政府高官を招いて、ヘリコプターというものの飛行ぶりを見せた。

 地面に6m四方のマークを描き、その中からVS-300を離陸させ、再び正確にその四角の中に着陸させる。また空中停止から横進、後進に移ったり、木立の間を縫うように低く飛んだり、離陸してから高度150mまで真っ直ぐ上昇し、エンジンを切って滑空して見せたりした。こんなことは、むろん現在では何でもないことだが、当時としては画期的な飛行能力だったのである。

 さらにシコルスキーは手品師のような演出を準備していた。まず低空でホバリングしながら、パイロットが地上員から小包みを受け取る。次いで1本のロープを機体からたらし、これを伝って同乗者のひとりが地面に降り立つ。逆に、このロープで4人の兵員を空中に吊り上げるといった演技である。

 最後にVS-300は1ダースの生卵をいれた網袋を長いロープの先にぶら下げて離陸し、空中高く引き上げて、揺れが止まったところで静かに地面に降ろした。もとより割れた卵はひとつもなかったが、シコルスキーはわざわざその中の一つを取り出し、みんなの前で割って見せ、ゆで卵ではないことを示した。

 VS-300は、その後の改造によって、およそ130km/hの速度記録をつくった。これは当時のドイツの記録を破ったはずだが、戦時中だったために公認されなかった。

 しかし1941年4月15日には1時間5分4秒のアメリカ滞空記録をつくり、同年5月6日には1時間32分26秒の飛行をした。これはドイツのフォッケ教授が1937年、Fa-61でつくった1時間20分49秒の公式世界記録を上回るものである。

 かくてVS-300は、わずかな間に改良を重ね、テストを繰り返して、進歩して行った。そして完成の域に達したとき、イゴール・シコルスキーは本格的なヘリコプターの誕生を確信するようになった。

「ヘリコプターはこれまで事実上存在しなかったし、ほとんど知られず、理解もされていなかった。特に垂直飛行の価値などは誰も考えなかった。……しかし、その将来には限りない可能性がある」と。

 そこからXR-4が誕生し、陸軍に採用され、R-4Bとして大量生産がはじまった。それは、まさしく近代ヘリコプター産業のはじまりであった。(つづく

 

【参考リンク】

 シコルスキー・ヘリコプターの歴史については「イゴール・アイ・シコルスキー歴史文書館」のサイトが詳しい。

(西川渉、99.4.29)

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