【インターネット版】

ヘリコプターの歴史

その前史と誕生と発展と――(11)

 

ヒューイ・シリーズの足跡

 ヘリコプターの歴史の上に大きな足跡を残しているのは、ベル・ヒューイ中型機シリーズであろう。

 ここではもはや、その発展の跡を細かくたどる余裕はないが、開発が始まったのは1955年6月、モデル204と呼ばれた設計がアメリカ陸軍の新しい多用途ヘリコプター設計競争に勝利を収めたときであった。原型機は1956年10月22日に初飛行。陸軍はこれにXH-40の呼称を与え、3機が試作された。次いで6機のYH-40が試作され、1958年9月には最初のUH-1がロールアウトした。そして量産型UH-1Aは1959年6月から引き渡しに入った。

 ヒューイ・シリーズの特徴は設計の主眼を簡単な構造、高い信頼性、容易な整備性に置いた結果、経済的で取り扱いやすく、多様な任務に耐えうるヘリコプターとなったことにある。また主ローター・ブレードは全金属製で、当時としては初めて各ブレードが完全な互換性をもち、片翼交換も可能となった。

 エンジンはライカミングT53ターボシャフト。トランスミッションと共にキャビン上後方に装着したため、機内は広く大きく使えるようになった。そして操縦席を再前方に持ってきて、特に足もとの視界を良くしたが、これらの設計思想と機体形状は中型ヘリコプターの最も標準的なレイアウトとして、その後の同級機の開発に大きな影響を与えた。

 かくてヒューイ・シリーズはUH-1B、UH-1D、UH-1Hと発展、民間機も204Bと205Aがつくられた。また1970年には双発型のUH-1N(民間型212)が完成、1972年にはイラン政府の大量発注によって214Aが量産されることになり、1976年からは吊下げ能力3トンの民間型214Bも登場した。ベル社ではさらに、この214を双発化して飛行性能を上げる214STの開発を進めつつある。

 ヒューイ・シリーズから派生したベルAH-1攻撃ヘリコプターも、歴史の上で忘れることはできない。開発の端緒となったのはベトナム戦争におけるヘリボーンの護衛、特に進攻輸送用の大型ヘリコプターを地上の対空砲火から守り、目標地域を制圧するためのヘリコプターが必要になったことである。

 原型209は1965年9月7日に初飛行、米陸軍の評価テストを経て1966年春、量産型AH-1Gとして発注された。同機は先に述べたUH-1B/Cを基本とするもので、動力系統とテールコーンはほとんど同じだが、機体を細くし、胴体幅を1m弱として、前方に射手席と操縦席が置かれている。また胴体両側に短固定翼をつけ、これにロケット弾やミサイルなどの火器が装備される。

 AH-1Gは1967年6月から引渡しが始まり、AH-1Qを経て、最近は出力向上型のAH-1Sに発展した。また1969年からは双発型AH-1Jも米海兵隊向けの引渡しに入ったが、これもAH-1Tに発展している。

 こうしたヒューイコブラは、軍用ヘリコプターの新分野を開き、軍事作戦の上に大きな変化をもたらした。その考え方は現在さらに発展し、アメリカではAAH(発達型攻撃ヘリコプター)としてヒューズAH-64の開発が進み、ソ連でも1974年これらに対抗するミルMi-24が出現した。同様にヨーロッパではいくつかの攻撃ヘリコプターの開発が計画され、日本の陸上自衛隊も今年AH-1Sを導入したところである。

 

人類最古の夢の実現

 ヘリコプターの歴史を終るにあたって、次のような言葉を紹介しておきたい。

「ヘリコプターは人類最古の夢であり、空飛ぶじゅうたんのおとぎ話はヘリコプターの概念を完全に表したものであろう。山の頂上でも、船の甲板でも、森の中でも、ヘリコプターは人が立てるところならどこにでも降りることができる……」

「ヘリコプターは空中停止が可能だが、これは他のものには見られない独自の特性である。この能力によって、ヘリコプターは救難にも、クレーン作業にも、地質調査にも、何にでも使えるし、戦争にも大きな威力を発揮する……」

 これは1947年、ヘリコプターの開発に乗り出したばかりのミルが語った言葉である。当時の高揚した気持が充分にうかがえるが、実はそれから30年を経た今も、ヘリコプターの発展に携わる人びとの気持ちは一向に変わっていない。

 ヘリコプターの歴史はまさに人類最古の夢の実現をめざす歩みである。それは今後なおとどまるところを知らないであろう。(完)

(西川渉、『航空情報』別冊「ヘリコプターのすべて」1979年刊に掲載)

 

[注1]本文の中で各機種の現状説明が古いのは、今から20年前に書いたものだから。当時はイランが米国と密着し、ベル社もイランとの合弁会社をつくって、ヘリコプターの現地生産をすすめようとしていた。214Bや214STはその遺産で、214STはイランで350機を生産する計画だった。

[注2]UH−1のことを何故ヒューイと呼ぶのか。当初はHU−1という軍呼称で、これを棒読みにしたからである。その呼称がUH−1に変わったのだが、口頭の呼び名はそのまま「ヒューイ」が続いた。「ウヒー」では、ちょっとヘンである。

 

【関連サイト】

 UH−1シリーズについては「米陸軍ヘリコプター史」のサイトが詳しい。 

 

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