<朝日航洋60周年>

史上最も危険なヒヤリハット

 

 かつて40年余り勤務した朝日ヘリコプター、現朝日航洋が間もなく創立60周年を迎えるらしい。設立は昭和30年(1955年)7月20日である。

 その記念に先日、のりたけの白磁の鉢が送られてきた。上の写真に見るように立派なもので、早速果物などを入れてテーブルの上に置いている。

 この記念に合わせて、OB会の方では在職中の「ヒヤリハット」に関する経験談を寄稿するよう求められた。出来上がった小冊子には元パイロットや整備士の皆さんがそれぞれ、現場で遭遇した具体的な問題を書いていて、後輩たちの役に立ちそうな教訓を語っているが、私にはそこまでの経験は少ない。そこで以下のような作文を送った。

アメリカで出会ったヒヤリハット

  初めてアメリカへ行ったのは1962年であった。ある朝、当時の朝日ヘリコプター堤清二社長に、上司の小林末二郎課長(のち常務取締役)と共に呼ばれ、ロサンゼルスでヘリポート会議があるから出るようにといわれた。

 まだ入社3年目だったが、折角のことなので、小林さんと相談して運航会社のペトロリアム・ヘリコプター社(PHI)やオカナガン社、メーカーのベル社やシコルスキー社を訪ねることとした。

 半世紀余り前の羽田空港で、旗や幟(のぼり)こそなかったけれども、家族や親戚や会社の偉い人たちに見送られ、小林さんと一緒に日本航空ダグラスDC-8に緊張して乗りこんだ。途中ハワイで給油してロサンゼルスへ飛ぶと、西武百貨店ロス支店の人に出迎えられた。空港からホテルまで「高速道路」というものを初めて体験し、何も買うつもりはなかったが「スーパーマーケット」なる店に案内された。沢山の商品が並んだ陳列棚の間を大きな籠を持って回り、欲しいものを籠に入れて出口で精算する。道路も買い物も便利にできているのに驚いた。

 ヘリポート会議の第1日は、今のようなスライドを使うわけではなく、演壇から英語でペラペラしゃべられても何のことかさっぱり分からない。しかし陸軍航空士官学校の教官だった小林さんは「このまま黙って引き下がるわけにはいかん」と闘志を燃やし、日本も負けずにヘリコプター事業を盛んにしてゆくぞという決意表明のような演説草稿を書き、それを百貨店の人が徹夜で英訳した。

 翌日は強引に時間をあけてもらい、登壇した小林さんが大声で演説し、その横に立った私が段落ごとに英訳文を読み上げた。すると思いがけず満場の拍手となり、1人の紳士が「自分はFAAの者だが……」と小林さんに握手を求め、夜の食事を誘われたのだった。

 その後アメリカ大陸を横断して運航会社やメーカーを見学し、大いに刺激を受けた。PHIのロバート・サッグス社長は、われわれをベル47Jに乗せてメキシコ湾沖合いの石油リグまで飛んだあと、自宅へ連れて行った。数人の子供たちが遊んでいるところで「こっちが娘、こっちが孫」という。しかし孫の方が歳上で、娘といわれた幼児の子守りをしている。サッグス社長が「娘は今の女房から生まれたのでまだ小さい」と説明し、「わが家はテリブル・ファミリーだ」といって大声で笑った。

 シコルスキー社では、S-58などの組立て工場を見学したのち、夕刻、社員食堂へ案内された。大勢の社員たちが集まっている正面に白黒テレビが置かれ「これから重大放送がある」という。まもなくケネディ大統領の演説が始まると食堂は静まりかえったが、またもや何のことか分からない。

 あとになって知ったのは、ソ連がキューバに持ちこもうとしていた核ミサイルを阻止するための海上封鎖措置の発表であった。歴史に残る1962年10月22日午後7時から17分間。世界は米ソ核戦争の危機に直面して凍りついた。むろん戦争にはならなかったが、この瞬間こそは史上最も危険なヒヤリハットであった。

 同時に、日本には高速道路もスーパーもない時代だったから、われわれの旅もヒヤリハットの連続だった。しかし無事帰国することができて、アメリカで得た知見を少しでもわが社の事業に生かしたいという志が生まれた。小林さんの情熱と努力からは所沢の整備工場でオカナガンのようなエンジンの分解整備やトランスミッションのオーバホールが始まり、私の胸の中でもPHIのようなオフショア運航への希望がふくらんでいった。

(西川 渉、2015.6.21) 

   

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