<紙 魚>

硫黄島栗林中将の偉功

 『硫黄島栗林忠道大将の教訓』(小室直樹、WAC、2007年1月31日刊)は、読みながら粛然として襟を正さずにはいられなかった。昭和20年2月、アメリカ軍の猛攻を迎え撃って、硫黄島を死守した栗林中将の偉功が、いかにもこの著者らしい筆致で理論整然と書いてある。

 硫黄島の激戦は「勝者なき死闘」といわれるほどで、死者は日本軍の方が多かった。ところが負傷者を加えた死傷者全体ではアメリカ軍の方が多い。すなわち日本軍の戦死19,900名に対し、米軍は6,821名だったが、戦傷者を加えると総数28,686名となり、日本側の20,933名を上回る。

 アメリカ軍は、小さな硫黄島などは5日で落すつもりだった。ところが、上陸3日目でノルマンディ作戦の死傷者を超え、海兵隊は米国内で轟々たる非難を浴びた。最終的に日本軍の玉砕までに1ヵ月以上もかかり、多大な損害を蒙って、もう二度と日本とは戦いたくないと思わせた。太平洋戦争の島嶼戦でアメリカ軍の損害が日本より多かったのは硫黄島だけである。


硫黄島へ押し寄せるアメリカ軍上陸部隊

 このような結果は、全て栗林中将の独創的な作戦とすぐれた指揮によるものだった。独創的というのは、小さな島の中に全長18キロ余の地下道を網の目のように掘りめぐらし、兵も戦車も地下を走り回って上陸してきたアメリカ軍を攻撃した。指揮の執り方も後方から命令を出したり号令をかけるのではなく、「余は常に諸子の先頭に在り」として第一線に立ち、枯渇しがちな水や食料も兵卒と全く同じように分け合った。

 最後は圧倒的に優勢な米軍の前に散ったけれども、栗林中将麾下の守備隊が偉かったのは単に戦闘に強かっただけではない。もっと大きな功績を、その後に残したのである。


硫黄島に立つ栗林中将

 本書の説くところを、私なりに整理すると次のようになる。第1に「アメリカ人の心理に大きな影響を与えた」。硫黄島が余りにすさまじい戦闘だったために、当時アメリカ軍が考えていた日本本土への上陸作戦を断念させることになった。硫黄島の結果から、アメリカは、内地へ侵攻すれば260万人が殺されると計算したのである。

 第2に終戦の時期を促進した。これ以上、日本と戦いたくないと考えたアメリカは、原爆を投下し、ソ連をあおって対日戦に引き込むなどの強硬手段を取りながら、ポツダム宣言を発して戦争終結への手順を急いだ。

 第3に、アメリカが原爆を落さざるを得なかったことから、戦後の日本は米軍をほとんどタダで使うことができた。中国や朝鮮は今だに日本に謝れなどと吠え立てているようだが、日本はアメリカに原爆投下を謝れなどと言ったことはない。しかし両国暗黙のうちに、アメリカが詫びを入れてきたのが日米安全保障条約にほかならない。この条約をもって、日本は「敗戦国にして戦勝国を傭兵にした」のである。

 第4に、日本に軍隊を持たせようものなら、再び硫黄島のような手痛い目に逢うかもしれないというので、憲法第9条ができた。この戦争放棄条項によって、日本は朝鮮戦争でもベトナム戦争でも湾岸戦争でも、出兵する必要がなく、それを求められても拒否する口実ができた。イラクには出かけたが、実戦はしていない。イラク軍も自衛隊には何もしなかった。いざとなれば硫黄島で見せたような反撃を受けるかもしれないと思ったからではないのか。

 こうしたことから多額の軍事費を捻出する必要がなくなり、戦後日本の経済繁栄がもたらされた。これが硫黄島の第5の功績である。

 かくして、硫黄島守備隊の将兵は、今の日本に繁栄と安寧をもたらした「神様」である。師団長の栗林中将は玉砕の10日前に大将に昇進したが、本当は「大勲位菊花章頸飾」を贈らねばならないと著者はいう。本書を読めば、厚顔な中曽根某も、さすがに大勲位を返上したくなるであろう。

 栗林大将の辞世「國の為重き務(つとめ)を果たし得で矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき」

(西川 渉、2007.3.27)

  

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