<HEM-Net>

みのりの季節

  発足15周年を迎えたNPO法人救急ヘリ病院ネットワーク(HEM-Net)では、このほど15年間を振り返る記念誌『救命の未来へ』(A4サイズ126頁)を発刊した。

 以下の文章はそこに掲載された拙文の一部を修正したものである。ここに記録しておきたい。

 HEM-Netでは、人生の終わり近く、10年余にわたって意義深い充実した季節を与えられました。

 私は子供の頃から作文が下手の横好きで、小学校6年生のときは『クラス・ウィークリー』という学級新聞を毎週つくっておりました。昭和22〜23年頃の、終戦直後としてはちょっと洒落た名前で、父の考えた命名です。その記事もガリ版切りも謄写印刷も、数人の友だちに手伝って貰いながら、ほとんど1人でやりました。小説の真似ごとを連載したこともあります。

 戸山高校では新聞部に入って原稿を書き、他の部員の記事も集めて普通の新聞と同じ大きさの紙面4頁に割り付けると、飯田橋にある中くらいの新聞社で植字工が活字を拾うのを待ち、赤鉛筆で校正して鉛版と紙型をとり、1,200部ほどの印刷が出来上がるまで徹夜で作業しました。それを学校へ持って行って全校に配るわけです。

 会社勤務後も、航空専門誌に毎月5〜6頁分の国際航空ニュースを書きつづけました。当時は今のようなインターネットやメールなどの電子手段がないため、世界中の航空会社やメーカーから郵送してくるニュース・レリーズを読み、400〜600字くらいに要約する作業です。無論そのほかに普通の航空関連の文章も書きました。

 最後は、勤務先の地域航空総合研究所で毎月講演会を開き、その講演録を年4回発行の『コミューター・ビジネス研究』誌に掲載するため、テープ起こしから文章の整理、編集などをやりました。それが10年ほど続きましたが、この連続講演会ではドイツADACのクグラーさん、シュトルペ先生、川崎医科大学の小濱啓次先生にもご登壇いただきました。1990年秋のことで、ドクターヘリの始まる10年前、日本ではまだヘリコプター救急が無視されていた頃です。

 こうした作業は誰に頼まれたり強制されたわけでもなく、ただ面白いだけで夢中になりました。そして篠田伸夫さん(現理事長)のお誘いを受けてHEM-Netに参加するや、またしても似たような機会に恵まれたのです。というのは参加して早々、2001年のことですが、当時の魚谷増男理事長が欧州ヘリコプター救急の調査を発案、辺見弘先生、山野豊さん、原英義さんと一緒にスイス、ドイツ、フランスを1週間余りで訪ねたのです。スイスでは当時の國松大使みずからREGA本部へご案内いただくなど破格の待遇を受けました。

 その結果を、私は勝手に報告書にまとめ、理事会に提出しました。それが皆さんに認められ、A4版70頁ほどの印刷物に化けたもです。これに味を占めて2003年秋には益子邦洋先生と一緒に米スタンフォード大学病院を訪ね、「命の飛行」の第一線に立つフライトナースやパラメディックに対するメディカル・コントロールの実態を見学しました。

 以後10年余り、さまざまな国のヘリコプター救急を見て歩き、報告書にまとめてきました。数えてみると、多くの医師や理事の皆さんによる分担執筆分も合わせて20冊ほどになります。さらに2009年には思いがけず『ドクターヘリ 飛ぶ救命救急室』(時事通信社)と題する本を、当時の國松孝次理事長の序文をいただいて上梓することもできました。

 今、HEM-Netのさまざまな資料類を読み返すとき、この15年間にわれわれが何を考え、何をしてきたか、改めて辿ることができるような気がします。

(西川 渉、HEM-Net15周年記念誌『救命の未来へ』所載、2015.12.26)

     

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