<本のしおり>
やがてかなしき大本営 野次馬之介がまだ子馬だった頃、「大本営発表」という遊びがはやった。みんなで遊んでいるとき、誰かが不意に「大本営発表ッ!」と大声を出す。「あした、馬男くんとヒン子ちゃんがケッコンすることになりましたァ」とか「馬次郎クンがボクのエンピツを盗ったので、牢屋へ入れられまァす」などとからかい合うのである。
これは戦後まもない頃だが、そんな他愛もない遊びが本気でなされたのが戦時中の「大本営発表」だった。開戦当初の真珠湾攻撃やマレー沖海戦があまりにうまくいったので、その後の負け戦(いくさ)を正直に発表できなくなり、ミッドウェイ海戦では日本側の空母4隻が撃破されたのに対し「わが方損害1隻喪失、1隻大破」と発表する一方、敵空母は無傷だったにもかかわらず「2隻撃沈」と「架空の戦記小説」のような発表がおこなわれたのである。
幻冬舎、2016年7月30日刊![]()
同じような「勝った、勝った」の連呼はその後も続き、日本国民は広い太平洋海域が全面的に日本軍の手中にあると思いこまされていた。この状況を高松宮は日記の中で、「でたらめ」と「ねつぞう」であると痛烈に批判している。
大本営の方も、みずからの発表が心苦しかったのか、発表の回数は目に見えて減少した。開戦時の1941年12月には90回もおこなわれた発表が、翌1月は68回、3月は34回、5月は19回となり、ミッドウェイに負けた6月は9回に急落してしまった。真珠湾から半年で10分の1に減ったのである。
以後9月と10月は各2回にまで落ちこんだというから、大本営発表の回数は日本の負けを如実に示していたといえよう。おまけに、発表のたびに「サラトガ」や「エンタープライズ」を沈めたことにしたので、昭和天皇から「サラトガが沈んだのは、こんどでたしか4回めだったと思うが」と苦言を呈されたらしい。
かくて、大本営発表と実際の数字は、下表に示すように大きく異なる結果となった。すなわち日本の空母は3年8ヵ月の戦争中に19隻が沈められたが、大本営発表では4隻しか沈まなかった。同じように連合軍の空母は合わせて84隻が沈んだはずだが、実際は11隻だった。
空母と戦艦の喪失数
日本海軍の喪失 連合国海軍の喪失 大本営発表 実 際 大本営発表 実 際 空 母
4 19 84 11 戦 艦
3 8 43 4 ![]()
子馬たちの「大本営発表」は大笑いのうちに終わったが、現実の戦争は「勇ましうて、やがてかなしき」悲劇となったのである。
(野次馬之介、2016.9.26)
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