<西川修著作集>

骨性人

 変な題ですね。何のことだか分りますか。

 読み方はコツセイジンと言うのです。その意味は――はっきり説明するのがむずかしいのですが、実は精神病の患者が造った言葉なのですよ。

 Iという青年がその患者でした。小学校の尋常科高等科は優等の成績で通し、某師範学校に入ったのですが、三年の時に大した理由もなく一学期間欠席して落第、本人に言わせると学生が皆不勉強で其上圧制的でがまんができなかったので学校がいやになったと言うのですが、所持の書籍や外套を金に換えて、中国の天津に渡りました。お断りしておきますが、これは昭和七年頃の話です。ところで当時、彼は中華四百余州の民を救うという気持で天津行の船に乗ったのでしたが、実際は船の中で女と知り合い、そのあとについて阿片窟のような所に紛れ込み阿片密売の手伝いをさせられて、『理想と現実はかくも違うか』と言うようなことを叫んで、一ヵ月ばかりでまた内地に帰って来たのだそうでです。姉さんに当る人の話では丁度その頃からI青年は陰気な無口な性質になってしまって何をするのにもうちとけて相談すると言うことがなく、姉さんも頭がおかしいのではないかと思いはじめたのでした。十八才の時です。


阿片窟

 その後I青年は遠洋漁業の船に乗り込んだり、香港でホテルのボーイになったり、台湾で警察官の下の警丁と言うのをしたり色々の仕事を転々したのですが、徴兵検査の機会に帰郷、姉さんの家にいましたが、食事中にぼう然と考えこんだり、時には小説と称するものを書いて雑誌社に送るようなこともありました。二十四才の頃に大阪神戸あたりで職工とか人夫などをやったこともあるそうですが、そこから乞食をしながら半年がかりで郷里に帰り、その後は明かに精神病の状態で、姉の家では全く無為徒食し、食事の際にたべ物をわざわざ床の間において見たり、戸外の庭石にならべたり、入浴すれば浴槽の中で、一時間も動かず、夜中に庭を歩きまわり、突然カラカラと笑うこともありました。除々に発病して既に十年を経過した精神分裂病だったわけですね。

 本人の話を聞いて見ると、山陽道を乞食しながら下って来る頃、『生命の高塔』が出たと言うのですが、それがどう言うことを意味するのか私共にははっきり分りません。しかし精神分裂病の患者はI青年に限らず『永遠の力』とか『宇宙の終り』だとかそういう類の言葉をよく使うもので、分裂病患者の精神の世界では超人間的な力との結びつきのようなものがしばしば感じられるらしいのです。

 同頃『天の声』『地の声』というものがきこえはじめ、『天の声』と言うのは宇宙を創造したスフィンクスに属し母の愛のような声で、『地の声』は暗の力でどろ棒とか罪を作る力に引きずり込む力があるのだそうです。

 彼の世界では『エチオピア』とか『アメリカーインディアン』が非常にえらいことになっており、髪の毛を食うと旨くはないが、力持ちになると言って、暇あるごとに髪の毛を噛みまた木を噛んだり紙を食ったりもします。彼の一つの理想は水の上を歩いたり、パンを限りなくふやした奇跡のキリストでした。同時に現実の世界に生きている人間は最も憎むべきもので、豚、犬、ライオンと同じように卑しいしかも乱暴なものだと言うのです。こういうところはガリバー旅行記の作者の嫌人癖を思い出させますね。そしてこれらの不快な人間共――その最も野蛮で然も大きな権力を持っているのが天皇だと言うのですが――に対抗するものとして、彼の精神の世界に生れたのが骨性人というものでした。骨性人は地球上のどの人間よりも力が強く、男でも女でも殺すことが出来る。そういう骨性人は然し無暗に暴力を振うものではなく、霊感的な人間の頭を借りて、卑しい人間どもに色々の進んだ生活、最高の生活を教えているのに、卑しい人間はそれを理解しないと言うことらしいのですね。

 旧約の神のようなものでしょうか。しかし骨性人はひとりではなくて沢山あるらしいのです。

 精神分裂病の患者がこういうような超人を妄想することはたびたびあって、それぞれ色々な名をつけるのですが、火星人とか『星の人』とか、この地球のそとに存在を求めるのが随分あります。泉鏡花の小説にしばしば出る魔界の人や大魔、魔道などというのもやはりこれと一脈通ずるものと言えましょう。

 骨性人と言う奇妙な呼称もこうやって書いているうちに段々親しみが出て、何だかいかめしく恐ろしくしかも正義の守護者として頼もしいような気がして来ましたね。そして何となくそれにふさわしい言葉の調子を持っているではありませんか。

 この患者はこういう妄想が原因で御真影を破り捨て、日華事変中のことでしたから不敬罪に問われ、私の精神分裂病との鑑定にもかかわらず有罪になったように聞きました。この裁判長はI青年にいわせれぱ『ライオン人間』だったのでしょう。

(西川 修、精神衛生、1951年8月)

 

 

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