<ヘリワールド2016>

ヘリコプター博学知識〔補遺〕

 このほど『ヘリワールド2016――わが国唯一の総合ヘリコプター年鑑』がイカロス出版社から刊行された。A4版の、大きなムックである。

 その中の特別企画は「ヘリコプター博学知識」という表題で、実は私の書いたものだが、私自身が考えた表題は「物語 ヘリコプターのすべて――ダ・ヴィンチから将来構想まで」というおとなしいものだった。これに対し、出版社の方でもっと迫力が欲しいというので改題されたのはいいとしても、迫力があり過ぎて「羊頭狗肉」のそしりを招きはせぬかと心配している。

 おまけに私の肩書きも冗談半分どころか冗談全部のようなものになっている。身分詐称で訴えられるのではないかと、身を縮めている次第。

 原稿を頼まれたのは今年夏の初めであった。8月末までの2〜3ヵ月間に34,000字を書くようにとの依頼で、いささか張り切ったせいもあって36,000字の原稿ができあがった。昔の数え方でいえば400字詰め原稿用紙90枚に相当する。

 その中から誌面20頁分が採用され、一部が外された。その外された部分を、ここに収録しておこうと思う。

エジソンの出力計算

 19世紀の終わり頃、多くの先駆者たちが垂直飛行の謎に取り組み、さまざまな模型実験を試みた。トーマス・エジソン(1847〜1931年)もその一人で、ローターの種類をさまざまに変え、それらを電気モーターで回しながら重量計につなぎ、各ローターの発揮する揚力を測定した。

 その結果、どんなに効率の良いローターでも、当時存在するエンジンでは最大70キロ程度の揚力しか発揮できない。逆に、ヘリコプターを飛ばすためには、重さが1馬力あたり1.2〜1.7キロ以下でなければならないという計算結果に達した。

 つまり、そのくらい軽くて強力なエンジンが実現するまでは、回転翼機も実現できないという結論になり、ヘリコプターの実験を中止してしまう。

 このことをもって「エジソンは計算高い」などといえば叱られるかもしれぬが、事実エジソンは自分の発明をもとにしてエジソン電灯会社(今のジェネラル・エレクトリック社)をつくっている。その会社に入ったのがエジソンにあこがれたニコラ・テスラ(1856〜1943年)という人であった。

 テスラは発明王エジソン以上の発明大王で、交流電気を発見した結果、直流にこだわるエジソンに嫌われ、1年ほどで会社を追い出されてしまった。ほかにも多数の発明をしたが、とりわけ無線送電は注目すべきで、たとえばラジオのように受信機さえあれば、どこでも電力を受け取ることができる。と、すれば送電線などは不要になり、ヘリコプターの電線衝突事故もなくなるはず。

 ニューヨークからロサンゼルスまでの実験では、当時の銅線による送電で30%ほどの電力が失われるのに対し、無線では2%の損失しかなかったという。これでテスラは全ての家に電気を供給するシステムをつくると言い始めた。それが実現しなかったのは、当時のアメリカの発電会社、送電会社、電気工事会社、変電部品製造会社など電力業界あげて自分たちの利権を守るために反対したからで、その影響は今に及んでいる。

 原子力発電所なども、月その他の地球外の天体に設置して、そこから無線で地球へ電気を送ればよい。いわゆる「宇宙発電」で、これが実現すれば、いま世界中で絶望的な問題となっている原発問題も解消されるにちがいない。

 エジソンは「天才は1パーセントのひらめきと99パーセントの努力」と言ったようだが、テスラは「天才は1パーセントの直観と99パーセントの徒労」と言って、エジソンを冷笑した。つまりエジソンの発明は完成までの見通しがないまま当てずっぽうでやり始め、無駄な時間と労力を費やして、その一部がようやくモノになったにすぎないという皮肉である。

 ヘリコプターもまた、エジソンにとっては「あわよくば」という程度の直観と徒労にすぎなかったのではないか。


ニコラ・テスラ

カモフを見にゆく

 小型で、しかも双発というヘリコプターKa-26を初めて見たのは1966年2月であった。思えば半世紀前のことだが、当時のアビアエクスポルト(ソ連航空機輸出公団)の案内でモスクワ近郊のブヌコーボ空港へゆき、実機を前にしてこまかい説明を受けた。まだ試験飛行中の試作4号機で、機内には測定機器が積んであった。

 総重量3,000kg、ペイロードは最大900kgくらいか。ローターはカモフ特有の同軸反転式。3枚ブレードのローターが上下に重なり合っている。ブレードはグラスファイバー製。当時としてはドイツのベルコウBo-105に並ぶ最先端の技術であった。

 エンジンは325馬力の星形ピストンが2基。コクピットは2座席。そこから左右2本のテールブームが後方へ伸びて尾翼につながる。降着装置は2つの前輪と丈の高い主脚が2本。この左右の主脚の上にずんぐりしたエンジンがつき、その間の空間に客席ポッド(6席)、貨物パレット、農薬散布装置、カーゴスリング(最大吊り上げ容量900kg)などを取りつける。

 なお、コクピットには簡単な与圧装置とエアフィルターがつく。これで農薬散布のときは薬剤の侵入を防ぐことができるという。

 帰国後、このKa-26について日本の航空専門誌に現地で撮った写真と共に見聞記事を書いたところ、雑誌の発売と同時にアメリカ大使館から電話がかかってきた。詳しい話を聞きたいという。

 その頃、Ka-26は米アビエーション・ウィーク誌(AW&ST)に1頁の簡単な記事とぼんやりした写真が掲載されただけで、西側ではほとんど知られていなかった。私も実は、そのAW&ST誌を見てモスクワへ行ったのだが、冷戦の時代とはいえ、アメリカ情報当局の敏感さに驚いた。しかし私の収集した情報では、米国にとってロクな情報はなかったはずである。

 その後、Ka-26は何機か日本に輸入され、社用機のほか農薬散布や物資輸送に使われた。またロシアでは現在、タービン・エンジンに換装したKa-126/-226Aが飛んでいる。


1966年2月、雪のブヌコーボ空港で見た
カモフKa-26ヘリコプター
(当時のガリ版刷り報告書から再現したものだが、
試験飛行中の機体を、よくまあ写真を撮らせてくれたもの)

ミルMi-6で飛ぶ

 ソ連(当時)のミルMi-6はペイロード20トンの搭載能力と最大300q/hの速度性能を持つ大型ヘリコプターである。前項カモフKa-26を見に行ったとき、ブヌコーボ空港で乗せて貰った。離陸してしばらくするとコクピットに案内され、「ほら、速度計をよく見てくれ」という。たしかに針は、ヘリコプターとして驚異的な300q/h近くを指していた。

 のちにMi-6は、大阪万博のときであったか、日本に飛来して展示された。そのときソ連代表部主催のカクテル・パーティに招かれた。会場はなんとMi-6のキャビンの中で、「パーティが開けるほど大きなヘリコプター」を実証して見せた。日本では、朝日ヘリコプターが最大ペイロード4トンのミルMi-8を買ったものの、20トンのMi-6までは手が出なかった。

免税品も買えない合理性

 ヘリコプターは、その飛行特性から、これを旅客輸送に使えばどんなにか便利であろうとは誰しも考えることである。事実、この半世紀余りの間に、世界中さまざまな都市でヘリコプター定期便の路線開設が試みられた。しかし、いずれも長続きしなかったのは採算が合わないからである。ヘリコプターの運航費は、乗客が鉄道やバスと同じ程度の運賃を払って飛ぶには高すぎるのだ。

 そこでニューヨークではヘリコプター定期便がなくなった後、大手エアラインがファーストクラスやビジネスクラスの旅客サービスとして、空港とマンハッタンとの間でヘリコプターによる無償の送迎をするようになった。その一つがパンアメリカン航空のベル222によるサービス便で、私もマンハッタンの今はなくなった東60丁目ヘリポートからケネディ空港(JFK)まで乗ったことがある。

 ホテルから電話で予約すると、何時までにヘリポートにくるようにいわれ、そこで待っているとヘリコプターが飛んできて、降りてきた係員が搭乗手続きと手荷物のチェックインをして、東京までのボーディングパスを渡してくれる。JFKまで8分ほど。東京ゆきの747ジャンボ旅客機が停まっているボーディング・ブリッジのすぐそばに着陸、そのまま階段を上って機内に入ることができる。時間の無駄がなくて便利なことこの上ない。

 もっとも当時、外国旅行というとジョニクロや香水が日本向けのお土産だった。ところが、余りに無駄のない時間設定がなされているので免税店に立ち寄る暇もなく、なんだか大きな忘れものをしたような気持ちで帰国した覚えがある。

天皇の「お召し機」

 日本の政府専用ヘリコプターは1986年に導入された。3機のスーパーピューマで初代航空隊長は星野亮氏であった。星野さんとは後に親しくさせていただいたので、昭和天皇初飛行の機長を務めたときのもようを直接聞くことができた。それによると、陛下は飛行中わざわざコクピットまでお出ましになり、機長の背後から計器パネルを興味深げにご覧になったらしい。

 その後、昭和63年(1988年)8月、ご静養中の那須御用邸から戦没者追悼式のために東京へお戻りになるときもヘリコプターをお使いになった。テレビで見ていると、迎賓館の前庭に着陸した機体のタラップを降りる陛下の足もとがおぼつかない。

 あのようなときは、お側の人がお手を支えてあげたらいいのではないかというと、星野さんからは「とんでもない」という返事が戻ってきた。「神様に触れるなど、そんな畏れ多いことができますか」。天皇の「お召し機」を操縦するクルーの皆さんの緊張ぶりが分かるような気がする。

ドクターヘリが飛ばねば首が飛ぶ

 ドクターヘリは今でこそ全国46機まで普及したが、その始まりはドイツやアメリカに遅れること30年であった。医学界やヘリコプター界が必要性を主張し始めてからも政府の動きは鈍重で、役人たちの怠惰な反応が続いた。結局「ドクターヘリ調査検討委員会」(内閣府)が発足したのは1999年のことである。

 委員会は8月から始まり、翌2000年4月まで5回にわたって開かれた。本来ならば2月まで4回の会議で終わるはずだったが、ヘリコプター救急が必要という意見と、そんな費用ばかりかかって医療効果の怪しいものは不要という反対論が錯綜して決着がつかず、年度末を越えて4月までもつれこんだ。

 このとき会議を主宰していた内閣府の内政審議室長は「ドクターヘリが飛ばなければ、私の首が飛びます」と、悲壮なジョークを飛ばしたほどである。

 これら議論の内容は、極論をやわらげた文章になって、今も首相官邸のホームページに議事録が掲載されているから、誰でも読むことができる。最終報告書は2000年6月に公表された。これで翌2001年4月から、ドクターヘリが正式に実施されることになる。 

 そこで、次の問題は経費である。ヘリコプター救急なんぞは税金の無駄づかいではないかという人が未だに存在する。確かにそのように見えるかもしれぬが、現在46ヵ所でおこなわれているドクターヘリの費用は、政府と自治体が1ヵ所あたり約2億2千万円を出している。したがって救急費が患者に請求されることはない。

 これで2014年度は、20,806人が救護された。1ヵ所平均470人。1人当たりの救護費は50万円弱になる。一方、人の命の値段はいくらだろうか。生命保険などに照らして1人1億円とすれば、拠点1ヵ所で2人を救えば元を取ったことになりはせぬか。また1人4〜5千万円ならば、4〜5人で採算点に達する。

 かくしてドクターヘリは医学的にも経済的にも社会貢献をしているということができよう。決して税金を無駄に使っているわけではない。

ヘリコプター救急の模範

 ロンドンのヘリコプター救急は1989年に始まった。以来25年間に救護した傷病者は3万人。その内訳は交通事故が3分の1、高いところからの転落事故が4分の1であった。

 これら重い外傷患者に対するロンドンHEMS(Helicopter Emergency Medical Service)の救命率は、世界でも最高水準の効果をあげている。というのは拠点とするロイヤル・ロンドン・ホスピタルが世界的な外傷治療の病院だからである。と同時に、救急ヘリコプターは市内のどこにでも着陸して、その場で開胸手術といった高度の治療をするからである。

 なぜロンドンという大都会のどこにでも着陸できるのか。そのほとんどは路上だが、「わざわざ無理をして道路に降りなくても、ロンドンには公園が多く、芝生が広がっているではないですか」。いつぞやロンドンHEMSのパイロットにそう言ったところ、「交通事故は公園では起こらない」という答えが返ってきた。

 ヘリコプターが安全に路上着陸するには警察官の協力が欠かせない。ロンドン救急本部はヘリコプターの出動指令と同時にロンドン警視庁に連絡を入れる。すると警視庁から現場の警察菅に着陸地点の選定と交通規制の指示が出る。

 そこへヘリコプターが飛んでくると、警察官とパイロットがあたかもコントロール・タワーと旅客機のパイロットが着陸進入の交信をするように無線で安全を確認しながら降りてゆく。市民もそれに協力し、歩行者も自動車もその場に止まって靜かに事態を見守る。さらにロンドン市内には電線がない。すべて地中に埋設されているから、それだけでも東京とは異なる。

 さらに安全上の方策として、パイロットは2人乗りで、ロンドン上空の混雑した空域を最優先で飛ぶ権利が認められている。女王陛下の乗用機ですら、離陸を遅らせたり空中待機をしたりするほどだ。また夜間飛行はしない。その代わり夜は、高速の乗用車にHEMSの医師が乗って現場に走るといったやり方をしている。


雑踏の中へも着陸するロンドン救急機

寄付金と富くじで飛ぶ

 イギリスの救急ヘリコプターは市民の寄付金と富くじで飛んでいる。国や自治体の公的な経費はほとんど出ていない。企業の寄付金が多いが、25年前にロンドンHEMSが始まったとき、使用機のドーファン・ヘリコプターはデイリーエクスプレス新聞社の寄贈であった。のちにMD900に替わるが、これはヴァージン・アトランティック・グループの寄贈になる。

 他の地域でも市民のガレージ・セール、音楽会や食事会などのチャリティ・イベントで集めた資金を積み立ててヘリコプターをチャーターし、それによって救急飛行を始めたところが多い。

 それでも間に合わないときは、富くじを売り出しているところもある。ロンドンHEMSの場合は、2013年の救護患者数が1,819人に達し、ヘリコプターを2機にする計画が出てきた。その導入資金を集めるために目下、富くじを売り出している。

 これは、篤志家を募って会員登録をしてもらう。会員は毎週1ポンド(約200円)ずつの会費を払いこむ。そのうえで毎週1回ずつ抽選をおこない、誰か1人に1,000ポンド(約20万円)が当たるという仕組み。

 今のところ会員数が4万人になり、目標の600万ポンドに対して400万ポンドの資金が集まったもよう。2016年初めには現用機種と同じMD902中古機を導入する予定という。


 中央の青い高層ビルがロイヤル・ロンドン・ホスピタル。
最頂部に屋上ヘリポートが見える。
2011年12月から運用を開始した。地上84m。
手前下に低く見えている茶色い建物が旧病院で
その上に昔のヘリポートが見える。

(西川 渉、2015.11.26)

 

表紙へ戻る