<西川修著作集>

居眠りの癖

 学生の頃、居眠りをするので有名だった。高等学校のときもよく眠ったし、大学のときは尚いっそう眠った。居眠りがよほど有名になって、あるとき大学の事務官が父に「お宅のご子息については少し監視していただかなければいけません。夜、ご家族がやすまれてから家を出て、赤の地下運動ををやっておられるという噂があって、そのため昼間たいへん居眠りをされるという評判です」と注意したそうだ。

 父は、
「いやいや、居眠りは私も士官学校や陸大の頃(私の父は古い陸軍将校だった)盛んにやりましたから遺伝でしょう」と答えたというが、思いがけないことで親父に心配をかけたものだ。

 一体いつ頃から居眠りが始まったかは、かなりはっきりしている。他人(ひと)がお前はよく眠るなあというので、自分の「居眠り史」について何回か回顧してみたことがあるからだ。

 中学の二年のとき、風邪をひいて少し熱があったのに、ちょうど英語の書取りの試験があって、うとうとしていて良くできなかった。これが学校における居眠りの最初の記憶である。でも、これは病気の副現象とも考えられるから、本格的な居眠りとしてはいささか疑義がある。

 しかし、すでに三年の頃には、いつという特定の記憶がないくらい、しばしば居眠りをした。将棋をやりはじめた頃だったので、その夢を見て「角」をここに打てばよいなどと思っているうちに眼が醒めたり、また海老の天ぷらの夢を見て食おうと思って頭を前に突き出した途端に、頭のガクンとした動きで眼を醒ましたこともある。

 しかし、このような夢を見る程度に及ぶのは居眠り――少なくとも学校の授業中における居眠りとしては少し行き過ぎであって、正式の居眠りは半醒半睡という程度のところが、頻度も高いし趣きも深い。

 「カンチャン」というあだ名の、恐ろしい数学の先生があって、早口で「エエカ……ワカッタカ」と連発しながら代数を講じておられた。

 うっかり本の頁をめくったり、ノートに何か書いたりすると怒鳴られる。何しろ講義の間は、膝に手を置いて、ひたすら聞き入っていなければならないのだ。

 そのうちに先生の単調な低い声がだんだんと途切れがちになり、黒板の字が消えてしまって、その代わりに何本もの縦縞が黒板上にあらわれてくる。おや、黒板ははっきり見えているのだから、眠っているはずはないがなと思って一所懸命に黒板を擬視するけれども、縦縞は消えない。

 そのうちに縞の中程が波を打ってゆがんでくる。おやおや、縞ではなくて松原に並んでいる松の木だったのだなと思っていると突然頭がガクンと前に傾いて、驚いて本当に眼が覚める。すると黒板の松の木は消えて、ちゃんと二次方程式の根の公式などが書かれてある。矢っ張り眠ったのか。「カンチャン」に見つけられたら大変だぞと思うけれど、またも頭に霧がかかったようになり、先生の声が妙にぼやけ、今度は黒板の上につぎはぎのような大小の方形が現れてくる。早く眼が覚めないと恐ろしいと思うのだけれど、こうなると自分の努力ではどうにもならぬ。もう一度頭がガクンとして、ハッと眼が覚めるまでは何とも仕方がないのである。このガクンが大きすぎると「カンチャン」に見つかる懸念があるが、それさえも自分の意志ではどうすることもできぬ。ただ、この居眠りの発作が早く無事に経過することを祈念するのみなのである。

 高等学校に入ってからはいよいよ本格的になり、一日に大抵一回は欠かさず居眠りをした。多いときはほとんど毎時間少しずつ眠った。もっとも時間はそう長いわけでなく、長くて二十分、短かければ一分ぐらいだ。

 市川三録先生の随筆を見ると、一高時代のある友人は居眠りをはじめて次の時間を眠りつづけ、その次の時間まで、つまり足かけ三時間眠ったという話や、またある人は、これは夜の話だが、目が覚めたらまだ朝早かったので、充分眠ったようだったが案外早起きしたわいと思って学校に出てみたら、すでに翌々日だったなどという途方もない話が満載してある。私の居眠りは持続時間の点でははなはだ小規模であった。

 朝の第一時間は大抵頭が冴えているものだが、その一時間目でも遠慮なく眠るようになった。面白い学科は緊張して眠くなさそうなものだが、そうとも限らぬ。高等学校の頃は国語や動植物が最も好きであったが、その時間にも相当に寝た。

 人の前に出ると緊張して眠くならないはずだと思うが、それも少しもそうでない。大学を出てから後の話だが、精神科教室の副手をしている頃、下田教授が学生の眼を集めるところに別に小机があって、そこで若い副手連が交代に講義の筆記をするのだが、その筆記をしながら眠ったこともある。

 同じ頃、教室で病理組織学の指導を担当していた武谷博士が、われわれ新入局者だけを集めて毎日講義をしてくれたことがある。精神科というのは、内科や外科と違って小世帯だから、その年の新入局者というのはわずか三人だった。その講義のときもだいぶ居眠りをした。

 どうも講義口調が耳に入ると、一種の条件反射で眠くなるものと見え、目の前で一心に講義をしている武谷先生に気の毒だと思うのだけれど、矢張り駄目なのである。それで武谷先生は講義をしながら、ときどき起してくれた。武谷先生は苦笑していたが、あまり好い気持ちではなかったに違いない。

 聞くならく、だいぶ昔の九大内科の熊谷教授は、患者の胸に聴診器をあてながら、居眠りをされることがしばしばだったというが、私はまだそこまでは行かない。

 (西川 修、二豊随筆、1948年)

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