二つの大量救出活動

 

 先日、シンガポールに本社を置くアシスタンス会社、AEAインターナショナル社の話を聞く機会があった。それによると同社は五月なかばのインドネシア暴動に際して、千五百人の脱出者を飛行機で輸送したという。チャーター機を使ってジャカルタ〜シンガポール間のピストン輸送をしたらしい。

 AEAはシンガポールや日本ばかりでなく、韓国、台湾、中国、フィリピン、ベトナム、インドネシア、豪州、ミャンマー、さらには中東、欧州、北米にもアラーム・センターを置き、普段は国際救急搬送をしている。外国旅行中に怪我をしたり急病になったりした人を、現地から自国まで航空機で帰省搬送をするのが仕事である。

 こうした医療搬送システムは欧州を中心に発達し、今では世界中でさまざまな組織が、ほとんどは民間企業としてビジネス・ジェットを使い、国際的な長距離搬送に当たっている。ただし、日本にはまだこうした組織はない。常に何十万人という日本人が国外に出ていながら、自前の救急システムがないのはそれでいいのだろうか。緊急時に迅速、的確な対応をするには普段からのシステムづくりが必要であろうに。

 しかも今回、AEAインターナショナルの場合は、病人の医療搬送という概念を広げて、革命や暴動といった緊急時における大量脱出をアシストしたのである。あのときインドネシアでは学生のデモ、軍隊の出動、投石や放火、そして中国系商店街の略奪などが起こり、大混乱に陥った。死亡者の数も一日で五百人を超える日があり、わずか一週間で千二百人以上に達した。

 この間、インドネシアを脱出した人は十五万人に上る。そのうち外国人は約八万人、中国系住民が七万人であった。全員が航空機を使ったわけではなく、船舶による人も多かったと思われるが、航空機に関しては国際線を飛んでいる大手エアラインの臨時便が多かった。しかし大きな国際企業は自分たちだけで飛行機をチャーターしていたのである。その一つが上に述べたアシスタンス会社の手助けによる飛行機の手配と出国である。その手慣れたやり方は危機管理のプロとでもいうべきであろう。

 日商岩井が駐在員の家族をチャーター機で脱出させたという新聞記事が出たのも、この頃である。それがアシスタンス会社によるものかどうか、新聞だけでは分からぬが、シンガポールの民間会社と契約し、まず五月十五日夜に家族など五十四人が独自のチャーター機で脱出、十六日にはさらに二十四人が続いたという。

 そうした救出飛行のために、自衛隊のC-130輸送機が小牧基地を飛び立ったのは五月十八日というから、その後のことである。そしてシンガポールで待機し、日本政府がもたもたしている間に、五月二十一日になってスハルト前大統領の辞任が決まり、インドネシアの混乱はおさまった。

 一年前のカンボジア危機のときと同じく、今回もまたC-130は手ぶらで戻ってくる結果となった。といっても自衛隊が悪いわけではない。むしろ考えようによっては、手ぶらの方が良かったといえるかもしれない。

 しかし日本政府の判断はいかにも鈍く、決断も遅い。私は自衛隊機の海外派遣に反対する積もりはないし、人命救助のためには積極的に行くべきだと思うが、いつまでも無駄な動きを繰り返すようならば、初めから危機管理のプロである外国のアシスタンス会社に頼んでしまってはどうかと思わざるを得なかった。

 

 

 

 インドネシアの騒ぎから間もなく、東京ビッグサイトで六月初めに開催された国際消防防災展に行ったときのこと、「伊勢湾台風の教訓を生かそう」という趣旨の展示が目に入った。

 伊勢湾台風は昭和三十四(一九五九)年九月、中部地方を襲った大型台風である。特に伊勢湾では満潮時に記録的な低気圧が通ったため、平常潮位を三メートル半も上回る観測史上空前の高潮となり、海岸の堤防が決壊して大洪水が発生した。

 そのため愛知県と三重県では、合わせて四千七百二十八人――つまり五千人近い犠牲者の出たことが記録されている。ほかに負傷者は四万人、被災者は百五十三万人であった。

 しかし、このときはヘリコプターが活躍した。シコルスキー社の一九六一年の文書では、日本に駐留していた米軍と発足間もない自衛隊のヘリコプターが多数出動し、濁流の中から五千人を救出したという。とすれば、ヘリコプターの活動がなければ、犠牲者の数は二倍になっていたかもしれない。

 もはや四十年近く前のことだが、名古屋市はそうした災害の教訓を現代に生かそうとして、伊勢湾台風の展示をしたのであろう。この展示を見て、私は伊勢湾台風とヘリコプターの関係を記した日本側の文献かニュース映画はないかと思い、会場にいた係りの人に訊いてみた。ところが、ヘリコプターがそんなに沢山の人を救出したことなど聞いたことがないという。

 これにはいささか落胆したが、何か見つかったら教えていただきたいといって帰ってきた。返事がきたのは、それから三日後である。名古屋市消防局予防課から『伊勢湾台風災害誌』の中でヘリコプターに触れた部分を送っていただいたもので、そこにはヘリコプター四十機と舟艇を合わせて七千人を救出したことが、次のように書かれていた。

「自衛隊の活動はまず人命救助と救援物資の輸送に向けられた。自衛隊のヘリコプターあるいは舟艇等は水中に孤立している家々の屋根等から尊い人命を次々に救出していった。この時期において特筆さるべきは、陸・海・空自衛隊ヘリコプターおよび米軍ヘリコプター(陸・海・空軍および海兵隊)が十月二日前後に実施した計四十機による七千人に及ぶ孤立被災者の救出避難作業であろう」

「その最も顕著なものは、米第七艦隊と極東空軍の活躍で……空母ケアサージ号と空軍派遣のヘリコプター部隊は被災の翌朝から数週間にわたり、優秀な機動力を駆使して人命救助・医療・救急物資の輸送などに昼夜をわかたず協力、緊急事態収拾のため大きな功績を残した……」

 その頃のヘリコプターはシコルスキーS-55(軍用呼称H−19)が主力である。兵員十人乗りのキャビン前方に、重くてかさばるだけのピストン・エンジンをつけたもので、現在の強力、高速、軽快なタービン・ヘリコプターとは比べものにならない鈍重な機材であった。それでも、これだけの働きをしたのである。

 とすれば、われわれはもう一度、伊勢湾台風の記憶を呼び起こし、阪神大震災のていたらくを振り返りながら、カンボジアやインドネシアでの不甲斐なさを考え合わせる必要があるのではないか。軍隊の出動はいかがなものかなどと詰まらぬ論議をする前に、まず大災害にそなえて、国の内外を問わず、被災者の大量救出システムを普段からつくり上げておかなければならない。

(西川 渉、『日本航空新聞』98年6月25日付掲載)

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