<黄綬褒章>

岩崎嘉秋さん

 去る6月16日、岩崎嘉秋さんの黄綬褒章叙勲の祝賀会が開かれた。ヘリコプターパイロットとしての長年にわたる功績が認められたもので、祝賀会に出席したのは主として朝日航洋と、その前身の朝日ヘリコプターで一緒に仕事をしてきた人びと約40人であった。席上、祝賀の言葉を述べるようにいわれ、次のような祝意を申し上げた。

 岩崎嘉秋さん、黄綬褒章をお受けになり、誠におめでとうございます。航空の世界で長く活躍してこられ、多大の貢献をなさった結果であると、その功績をたたえ、お慶びを申し上げます。

 岩崎さんは2008年秋にも、(財)日本航空協会の「航空亀齢章」をお受けになり、私もその伝達式に出席いたしました。これは数え歳90歳の長寿をお祝いする賞ですが、その背景にあるのは単に長く生きてきたということではなく、『ヘリコプターと物資輸送』などのご著書によって、ヘリコプターの飛行作業の標準化と安全性の向上に貢献してこられたからでありました。

 長寿という点では、岩崎さんは大東亜戦争の当時から、わが日本海軍の操縦士として飛行機に乗っておられ、『われレパルスに投弾命中せり』のご著書にある通り、マレー沖海戦にも参加されました。あの戦いでは海軍航空隊の攻撃によって、イギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈したわけですが、これは世界の歴史の上で、戦闘行動をしている戦艦が航空機によって撃沈された初めての事例であります。しかも、日(ひ)没することなしといわれた大英帝国が消滅するきっかけとなりました。

 つまり、この戦いによって、それまで欧米諸国の植民地として抑えつけられていたアジア諸国が目覚め、インド、ビルマ、シンガポール、マレーシアなどが独立国家をめざして動き始めたわけです。したがって昭和16年から20年までの戦争は、戦後は太平洋戦争などという無意味な名前で呼ばれていますが、正しくは「大東亜戦争」というべきものであります。


岩崎機の放った爆弾がレパルスに命中。
上は回避運動をするプリンス・オブ・ウェールズ。

 しかし岩崎さんは和歌もよくなさる歌人でもあり、『昭和万葉集』にもお名前を連ね、文武両道の達人であることは皆さんご承知の通りです。

 岩崎さんに、私が初めてお目にかかったのは、昭和36年。もはや半世紀以上も昔のことで、かすかな記憶があるだけですが、あの当時、私の上司は小林末二郎さんでした。のちに常務になられたことはご存知の通りですが、当時は運航課といったか運航管理課といったか、その部署の課長でした。私はその下で場外申請や事業計画変更申請など、航空局への手続き申請係をしておりました。あるとき小林さんがついてくるようにといって、当時の日本橋の大同生命ビルにあった本社の2〜3軒先の喫茶店にゆき、そこで岩崎さんと小林さんとの面談がおこなわれました。

 あれは戦後自衛隊におられた岩崎さんの朝日ヘリコプター入社の打ち合わせだったと思います。私は黙って横に坐っていただけですが、岩崎さんの木訥な福島弁が印象にのこりました。その木訥な中に、レパルスを撃沈した闘志が秘められているわけです。

 それから間もなく、岩崎さんは朝日ヘリコプターに入社なさいました。最初はベル47で主に農薬散布などの仕事をしておられましたが、それに並行して鈴木行雄さんと今は亡き宮田豊昭さんのヘリコプター操縦訓練を担当なさいました。このお2人は、固定翼機については自衛隊で操縦してこられましたが、ヘリコプターは初めてで、岩崎さんはそのお2人をヘリコプター・パイロットとして育て上げられました。

 その後も岩崎さんは社内で多数の人材育成に当たると同時に、朝日ヘリコプターが当時最新鋭のベル204Bタービン・ヘリコプターを導入したときの最初のパイロットとして物資輸送など幅広い飛行作業に進んでゆかれました。それから後の足跡は、これから登壇なさる皆さんにおまかせするとして、もう一度岩崎さんに黄綬褒章のお祝いを申し上げます。おめでとうございます。

 祝賀会の帰りに岩崎さんのご著書『甦(よみがえ)った空』(文春文庫、2008.12.10)をいただいた。その中の著者紹介をここに再録しておきたい。

岩崎嘉秋(いわきき・よしあき)

大正7(1918)年福島県生まれ。昭和12年海兵団入団。14年第51期操縦練習生を経て航空兵に。16年美幌海軍航空隊、18年第一航空基地隊、1001航空隊などで勤務の後、飛行兵曹長で終戦を迎える。戦後海上自衛隊に勤務、ヘリコプター操縦術を習得し、除隊後朝日ヘリコプター鰍ノ入社。朝日航洋理事、新日本国内航空渇^航部長を歴任。平成20年、長年の航空活動に対し、日本航空協会より航空亀齢賞を授与される。埼玉県在住。

(西川 渉、2014.6.19)

 

 

  

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