『日本航空新聞』1,000号記念に寄せて

航空ジャーナリズムへの期待





 パリ航空ショーは「プレス・デー」で幕を開く。この日は報道関係者でなければ入場できない。そこへ、先日経験したことからすれば、シラク大統領が登場して開会式となる。

 2日目以降も報道陣は大事にされる。胸に「プレス・カード」をつけていれば、どこにでも入ってゆくことができる。展示航空機について、そばについているメーカーの係員に質問しても丁寧に答えてくれるし、見たいと言えば柵の中に招じ入れられ、機内を案内してもらえる。

 各メーカーの記者会見も、企業のトップが出てきて説明し、記者団の質問に答える。説明資料も、あらかじめ充分に用意されている。午後からのデモ飛行を写真に撮る場合でも、プレスの席は正面最前部の最も航空機の見やすい位置に確保されている。


 何故プレスは大事にされるのか。ジャーナリズムが「第四の権力」だからである。航空ショーに限らず、選挙やサミットなどの政治ショーであっても、ジャーナリストには常に特別席が用意される。それもこれも第四の権力だからである。

 しかし、その権力は伊達や酔狂で与えられたものではない。当然のことに責務が伴う。権力の行使に忙しいだけで、責務の遂行を怠るようなことがあってはならない。

 だが今、ジャーナリストは、あるいはジャーナリズムは、社会的、歴史的な期待に応えて責務を果たしているだろうか。単なるマスコミに堕して、権力者の宣伝の具に使われ、大衆心理に迎合するだけの三面記事と娯楽の具になり下がってはいないか。

 ヒトラーやゲッペルスの例を持ち出すまでもなく、ときの権力者はマスコミを政権の維持と権力の保持のための宣伝媒体として利用しようとする。プレスが大事にされるのは、反面ではそうした利用価値があるためである。

 企業の宣伝マンたちも同様、何とかして商品の売りこみにマスコミを使おうとする。単に広告を出すのと違って費用はかからず、しかも影響力が大きいからである。いつぞやも、思い出すだけで吐き気を催すが、宗教団体の名を借りた狂団が恐ろしいまでに巧みな方法でマスコミを利用したことから、日本中にマインド・コントロールの嵐が吹き荒れた。

 その結果、多数の犠牲者が出て、報道のあり方に関する論議が改めて巻き起こった。そしてテレビ局の社長は辞任に追い込まれたが、あんな事態を惹き起こすようでは、半世紀前のゲッペルスを嗤うことはできない。

 単に国の方針や商品の宣伝に使われるだけのマスコミはジャーナリズムではない。官報や宣伝文がジャーナリズムと呼ばれないゆえんである。しかし世の中には今、官報や商品パンフレットにも似た報道がジャーナリズムの顔をして、まかり通っていることが多い。


 ジャーナリズムの果たすべき役割は何か。ひとつは社会的に腐敗した病根を明確に指し示すことである。腐敗は人の目につかないところではじまる。その隠れた部分を照らし出すことが重要な役割である。そのためには自主規制や自縄自縛に陥ってはならない。

 政府の情報公開こそは、ジャーナリズムの真っ先に追求すべき問題である。しかるに今、この問題をもっと深く、しかも明確な意志をもって追求してゆこうという論調はどこにも見られない。

 一時あれほど騒がれた情報公開問題が、自治体の食糧費やカラ出張を槍玉に上げただけで終わろうとしている。一連の不正支出問題は自治体の幹部職員に弁償させただけで、何の罪科も問われなかった。国民の方もそれだけで不満が解消し、溜飲を下げたような気分になってしまった。

 しかし情報公開問題は自治体だけで終わってはならない。官僚たちが情報隠しをしたために厚生省のエイズ薬害問題が起こった。隠された情報は多数の人命を奪うばかりではない。その多くは利権につながるから、いち早く情報を手に入れようとする業者にたかられ、特別養護老人ホーム問題を惹き起こした次官が破廉恥罪と共に辞任に追い込まれた。

 このような情報追求の責務を放棄して、権力の宣伝媒体として使われているのが今のマスコミではないのか。

 私は日本の国営放送が、なぜ朝からアメリカのプロ野球を生中継するのか理解できない。おまけに夜のゴールデンアワーには、これも外国のサッカーが長時間にわたって放送される。これらの放送には恐らく莫大な費用がかかっているはずだ。高い費用をかけてまで、外国のスポーツ放送を続けるのは何故か。察するところ、ゲッペルスの宣伝にならって、日本国民を愚民化するための陰謀ではないか。そして国民が野球やサッカーにうつつを抜かしている間に、権力者たちは、政治家も官僚もマスコミのトップも含めて、日本占領の実を着々と上げているのである。

 国鉄も電電公社も日本航空も次々と民営化される中で、国営放送だけは昔から誰も民営化しようと言わない。権力者にとって、これは必要欠くべからざる宣伝手段だからである。


 権力は腐る。ジャーナリズムが第四の権力であるとすれば、やはり同じように腐って行く。その結果は日本国のメルトダウンであろう。

 ジャーナリストたるもの日本を溶融させてはならない。第四の権力者としての責務を果たさなければならない。もとより、これらはジャーナリズム一般論だが、同じことが航空界にも当てはまりはせぬか。日本の航空界が発展するか否かは、航空ジャーナリストの働きにかかっている。

 本紙記者の皆さんが今後ますますジャーナリストとしての腕を磨き、感覚を研ぎすまして、航空界発展の原動力となられんことを期待してやまない。

(西川渉、『日本航空新聞』、97年7月17日付1,000号記念特集より)


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