わが国ヘリコプター黎明期の試み

 

 去る10月なかば、日本航空宇宙学会主催の「第37回飛行機シンポジウム」(三宅司朗実行委員長)で、特別講演の機会をいただいた。まことに光栄の至りで、勇を鼓して登壇させていただいた。

 表題は「わが国ヘリコプターの歴史」だったが、その草稿の一部をここに掲載しておきたい。

量産された萱場オートジャイロ

 日本でヘリコプターが飛ぶようになったのは、もとより戦後のことだが、回転翼航空機としては戦前にもオートジャイロが実用になっていた。

 1932年(昭和7年)、2機のシエルバ・オートジャイロがイギリスから輸入され、1機は海軍が研究した。もう1機は朝日新聞が使用し、実際に漫画家をのせて東海道漫歩などをおこない、1935年頃まで使っていた。

 1933年(昭和8年)には、陸軍がアメリカからケレットK-3を2機輸入し、研究した。40〜50mの滑走で離陸し、風があれば5〜6mでも離陸できるという特性をもつので、最前線の弾着点の観測に使う考えであった。しかし2機とも研究中に事故を起し、ものにならなかった。

 この事故を起したケレット・オートジャイロの修理を依頼された萱場工業は、その研究の結果、1941年(昭和16年)「萱場カ号」と呼ぶ独自のオートジャイロをつくり、5月26日に初飛行させた。萱場工業は航空機の部品、とくにオレオ降着装置を製造していた。

 カ号オートジャイロ(複座)は何と98機も生産され、弾着観測のほか対潜哨戒にも使われた。対潜機としてはエンジンが240馬力、複座で、60キロ爆弾2発を搭載し、空から潜水艦を狙うものであった。

 アメリカの文献を見るとカ号――すなわち「Ka-1」の名称で、米ケレットと英シエルバの両方の良いところを取り入れて、驚くなかれ240機が生産されたと書いてある。事実は98機なのか、240機なのか、私は決めかねている。


(萱場カ号オートジャイロ)

戦前にも研究されたヘリコプター

 ヘリコプターは日本でも戦時中から研究されていた。横浜高等工業専門学校(今の横浜国立大学)の広津万里教授が助手や学生の協力を得て、双ローター形式のヘリコプターをつくった。「特殊蝶番レ号」と呼ばれ、1号機は1944年(昭和19年)7月から試運転に入り、わずかに浮き上がったところへ突風を受けて転倒、大破した。

 そして2号機は、間もなく完成というところで終戦となり、未完成のままで終わった。これが、わが国で大戦中に試作された唯一のヘリコプターである。蝶番とは言うまでもなくヒンジのことで、ローターブレードの取りつけ部を関節方式としたものであろう。


(特殊蝶番レ号)

航空再開後の輸入ヘリコプター 

 戦後の日本に初めて入ってきたヘリコプターは、当然のことながら米軍が持ち込んだものである。終戦から1か月後の1945年(昭和20年)9月、横浜伊勢佐木町に米陸軍のR-6ヘリコプターが飛来し、空襲で焼け野原となった市街地に砂塵を巻き上げて舞い降りる写真が残っている。ヘリコプターの試作にいそしんでいた横浜工専の人たちは喜んで見に行った――というような話は伝わっていないのだろうか。

 しかし日本の空は、戦後7年間にわたって飛行が禁止された。1952年(昭和27年)解禁になると、早速ヘリコプターも輸入されるようになった。運輸省の登録台帳を見ると、JA7001――すなわち民間ヘリコプターとして日本で初めて登録された機体は、昭和27年10月31日付け、産経新聞社のシコルスキーR-6Aであった。米軍払い下げの複座機だが、ほとんど飛ばないうちに格納庫が台風でつぶれて破損し、修理できずに終わったとある。

 つづいて同じ昭和27年10月31日、これも産経新聞社がヒラーUH-12BをJA7002として登録した。実際に各地で飛んで見せたのは、この機体である。

 JA7003は11月24日に登録された毎日新聞社のベル47D-1。7004は数字の4が縁起が悪いというので欠番とし、JA7005は同じ11月24日登録の読売新聞社ベル47D-1であった。JA7006はこれも11月24日に登録された中部日本新聞社のベル47D-1である。

 つまり、わが国のヘリコプターは最初の5機がすべて新聞社のものであった。日本の新聞航空が戦前からの長い歴史を持ち、常に民間航空界に新しい風を吹き込んできたことはご存知の通りである。航空再開後すぐにヘリコプターを輸入したのも、そうした伝統のあらわれであろう。

 JA7007とJA7008は日本ヘリコプター輸送のベル47D-1。昭和27年12月と28年1月の登録である。この会社は、のちに全日本空輸と名前を改め、そのマークにレオナルド・ダビンチのスケッチを採用した。

 今や押しも押されぬ大航空会社だが、その始まりはベル47D-1が2機という小さなヘリコプター会社であった。全日空の2文字コードは今も「NH」である。

読売Y-1の開発

 次に登録されたJA7009が「読売/東京機械工業Y-1」と呼ばれる、純日本製のヘリコプターである。持ち主は読売新聞社。

 これは読売新聞社が戦後の航空再開と同時に国産ヘリコプターの開発を提唱し、糸川英夫、堀越二郎、大森丈夫などの有識者13人の委員を集めて「日本ヘリコプター研究会」を結成、昭和和27年5月から設計に着手したもの。制作は旧陸軍の航空技術将校を集めた東京機械化工業という会社が担当した。読売新聞社の資金に加えて、昭和28年には工業技術院から800万円の補助を受けて試作を続けた。

 構造は130〜150hpの星形エンジン「神風3型」を搭載した複座機で、外観はベル47に似た透明風防がつき、2枚ブレードのシングル・ローターは直径10m。テールブーム先端に尾部ローターがついている。総重量は750kgであった。

 ところが、トランスミッションの機構が外国の特許にひっかかって設計変更を余儀なくされた。変更の結果は構造が複雑になり、重量がかさんでしまった。それでも昭和29年1月ようやく完成、読売玉川飛行場で3年近く地上試運転をつづけ、航空局からは飛行許可も得たが、ついに飛ばないままに終わった。


(地上試運転だけに終わった読売Y-1ヘリコプター)

 

 萱場ヘリプレーンの試作

 同じ頃、戦前に実用オートジャイロをつくった萱場工業は昭和27年3月から「萱場ヘリプレーン」の設計に着手した。在日アメリカ人から譲り受けたセスナ170Bの胴体(4座席)をそのまま使い、エンジン(180〜185hp)と2枚羽根のプロペラ、ならびに機首の前輪も変わらないが、セスナ特有の高翼を外して、低翼の短固定翼(スパン2.74m)を取りつけ、その翼下面に車輪式の降着装置をつけていた。

 またキャビンの屋根の上にローター・パイロンを取りつけ、そこに3枚ブレードのローター(直径10.97m)をつけて、先端に小型ラム・ジェットを装着して回転させる仕組みとした。これで複雑なトランスミッションが不要だし、尾部ローターも要らない。萱場工業にはY-1のようなトランスミッションの外国特許に関するトラブルを回避する考えもあったらしい。総重量1,200kg。

 ブレード先端のラム・ジェットは石川島重工業が開発したもので、1基あたりの推力は20kg。ローター回転数は毎分310回転。オートジャイロとヘリコプターを合体させたユニークな複合機(コンバーティ・プレーン)である。巡航飛行中はラム・ジェットの作動を停止、ローターを自由回転させながら飛ぶという構想であった。 

 このヘリプレーン開発のためには、国から萱場に200万円、石川島に120万円の補助金が出され、1954年(昭和29年)3月にほぼ完成したが、同年7月タイダウンによる地上運転中に横転大破し、開発中止に追い込まれた。


(セスナ機にローターを取りつけた萱場ヘリプレーン)

 

萩原JHXヘリコプター 

 3つ目の研究開発は萩原久雄氏の「JHXヘリコプター」である。ローター先端にラム・ジェットをつけた試作機を昭和34年までに4機つくり、長年にわたる実験を重ねた。

 下の写真は1人乗りの「JHX-2」試作機で、1954年(昭和29年)に撮影されたもの。翌年には「JHX-3」が完成した。まだオープン・コクピットだったが、翌1956年(昭和31年)には「JHX-4」が出来上がる。コクピットは透明なプラスティックでおおわれていた。ものの本には「数メートルの浮上に成功したものの、自由飛行には至らなかった」と書かれている。


(ローター・ブレード先端にラム・ジェットをつけた
萩原JHXヘリコプター)

 

航空再開直後の独自の試み

 以上の試みをまとめると、下表の通りとなる。

 

読売Y-

萱場ヘリプレーン

萩原JHX

研究開発資金

読売新聞社、工業技術院(800万円)

萱場工業、国(320万円)

萩原久雄氏

開発者

日本ヘリコプター研究会、東京機械化工業

萱場工業

萩原久雄氏

形 状

シングル・ローター機、透明バブル

コンバーティ・プレーン、胴体はセスナ

ラム・ジェット・ローター

ローター直径

10

11

 

エンジン出力

星形130hp

185hp+ラム推力20kg×3

ラム・ジェット×2

総重量

750kg

1,200kg

 

座席数

複座

4席

単座

開発着手

昭和27年5月

昭和27年3月

昭和27年から34年までに試作4機

機体完成

昭和29年1月

昭和29年3月

努力の結果

3年近い地上運転のまま飛行できず

昭和29年7月地上運転中に横転大破

数m浮上したが、飛行には至らず

3機種の試行を整理すると 

  この表から3つの計画が、いずれも昭和27年、航空再開と同時にはじまったことが分かる。いかに当時の人びとが航空活動の禁止に苦しみ、喉の乾きをいやすようにして解禁を喜び、すぐに手を着けたかが察せられるであろう。

 第2に気づくのは3つの開発計画がヘリコプターという同じものをめざしながら、いずれも全く異なる方式であること。萱場機はラムジェットとプロペラおよびエンジンを組み合わせた複合機である。萩原機はラムジェットによる純ヘリコプター。そしてY-1はきわめて常識的な構造だが、それぞれに個性があっておもしろい。

 技術の進歩や生物の進化というものは、当初はさまざまな試みがなされる。それが、だんだんまとまった方向へ収斂してゆく。そうした技術的進歩のパターンを示す典型ではないかと思われる。

 第3に、Y-1はオーソドックスに過ぎたといえるかもしれない。あまりに常識的すぎて、既存技術の特許にふれるような結果になったのは残念である。斯界の権威者を集めたことが却って仇になったのか。新しい発想や技術革新というものは、なかなか権威者や経験者からは生まれないものである。 

 こうして、いずれも残念な結果に終わったが、もっと残念なのはそれから半世紀近く、日本独自の試みが全くおこなわれなかったことである。改造や共同開発はいくつか見られるけれども、純国産ヘリコプターが完成したのは今年初めてMH2000とOH-1であった。

 日本のヘリコプター黎明期を振り返りつつ、新しい両機の今後の発展を期待したい。

(西川渉、飛行機シンポジウム、99.10.13)

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