<ストレートアップ>

救急医療の課題

 救急医療の基本はいうまでもなく、迅速な治療着手である。そのため依頼を受けた医療スタッフは、急ぎ患者のもとへ駆けつけるわけだが、その現場到着までの時間を「レスポンス・タイム」と呼ぶ。日本では救急車が現場に着くまでの時間に相当し、2008年の実績は全国平均7.7分であった。世界的に見ても遜色のない記録といえよう。

 たとえばイギリスはレスポンス・タイム8分と定めている。ただし達成率75%という条件つきだから、出動4件のうち1件は8分を超えるのもやむを得ないとする。その目標達成のために、ロンドン・アンビュランス・サービス(LAS)は市内の至るところに救急車、オートバイ、自転車を配し、短時間で救急現場に駆けつける態勢をとっている。救急自転車は後方の荷台に治療器具や医薬品を振り分け荷物のようにして搭載、狭い路地でも、渋滞の合間をぬってでも、最短距離で患者のもとへ走る。

 そして市内中心部、シティに近いロイヤル・ロンドン・ホスピタルの屋上には救急ヘリコプターが待機し、ピカデリーサーカスの雑踏の中でも、トラファルガー広場のネルソン像の足もとでも、ところ構わずに着陸し、年間1,000人以上の患者を救護する。

 ただし夜間飛行はしない。暗いところに着陸する危険を避けるためだが、だからといって手をこまねいているわけではない。乗用車を改造した高速ドクターカーに乗って、ヘリコプターと同じ医療スタッフが夜の街を走り回る。

 逆に、イギリスの全国4つの行政区画のうちウェールズでは、2005年のやや古い話だが、救急隊が8分以内に現場に到着した事例が56%しかなかった。そのためウェールズの救急責任者が辞任に追いこまれたという話もある。それほど厳格な制度なのだ。

 イタリアは都市部8分、山村部20分という時間制限を設けている。それに応ずるため、日本の8割という国土面積に47機の救急ヘリコプターを配備する。

 アメリカも統一的な規定はないけれども、全米消防協会はパラメディックの現場到着8分以内、達成率90%というガイドラインを市や郡などの自治体に勧告している。またニューヨーク市は10分以内の対応を要求し、現場に15分以上とどまってはならないと定めている。病院への搬送を急げということだ。

 同様にシアトルは、ボーイング社の本拠地として777旅客機にちなんだのかどうか「777ルール」を設け、7分以内に現場に到着、7分以内に応急処置をして、7分以内に患者を連れてくるよう規定している。

 このようにさまざまなレスポンス・タイムから見て、日本の7.7分という実績は確かに世界水準にある。けれども悲しいかな、救急救命士にはほとんど医療行為が認められていない。イギリスやアメリカはメディカル・コントロールという制度の下にパラメディックによる救急治療を認め、そのための高度の教育と訓練を施す。

 一方で、ヨーロッパ諸国は医師以外の医療行為を認めない代わりに医師みずから現場に出てゆく。したがって、いずれの場合もレスポンス・タイムが即ち治療開始時間となり、実際に8分前後で処置が始まる。

 しかし日本の制度はどちらでもないので、救命救急士がせっかく7.7分で現場に着いても簡単な応急手当しかできない。実際の治療が始まるのは病院に着いてからで、救急車の病院到着時間は2008年の全国平均が35.0分であった。最も遅いのは東京都の49.5分。続いて千葉県(40.7分)と埼玉県(40.6分)で、なぜか首都圏が良くない。逆に石川県(27.0分)、富山県(27.2分)、香川県(27.5分)が早い方のベスト3県だが、それでも30分近く要して手遅れの感を免れない。

 それを補うのがドクターヘリで、2009年度の実績は拠点21ヵ所で救護した患者が6,715人であった。しかし、これがもっと普及して全国50ヵ所で年間1,000人ずつ、合わせて5万人を救護したとしても、年間およそ500万人の救急要請に対して1%にしかならず、とうてい応じきれない。

 とすれば、欧州大陸諸国のように医師が救急車や高速ドクターカーで現場に出て行くか、英米のように救急救命士に医療行為を認めるか、どちらかに踏み切る必要がある。それには医師の数を増やすか、救急救命士の教育課程を医学部に準じたものに改めるか、いずれにせよ費用と時間のかかる方策を実行しなければならない。

 ドクターヘリの普及は却って、日本の救急医療制度のいびつな実態を明らかにした。根本の問題はレスポンス・タイムが規定されていないことではないか。目標も基準もないまま、場当たり的なやり方をしてきた点を改める必要がある。

(西川 渉、航空ニュース特集版、2010年10月29日号掲載)

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