<西川修著作集>

花月記第二回

 牧野富太郎氏が親しく指導する、植物採取会が行なわれるという新聞広告を見て参加したことがある。東京付近にいればこんな機会はいくらでもあるらしいが、いなかでは全く千載一遇という経験だし、中学生の頃からその名を聞き、偉大な業績と、それにも拘わらず不遇な生涯を過ごしたこの学者に、英雄崇拝的な気持ちを抱いていたので、一度はその風貌に接したかった。

 それに採集指導に関しては、氏自身が東京植物同好会の紹介文に述べているように、「この会を指導することのできる人は、将来はイザ知らず、今のところ実際世間に幾人もありはしまいと思う。先ずどんな植物でも、山野で出会うものに対してトッサにその名称がわかり、その話ができる知識経験を積んだ人、即ち、考えておくの、詮議しておくの、また花がないからわからないの、実がないからハッキリしないの、と云ってその場逃れをせぬ人でなければならぬ。……拙者が死んだら、植物の名前をきくにも今日のようにそう容易には行かない。世間の学者は、なかなか拙者のように、それきたホイきたと面倒がらずに、そう簡単には教えてくれんよ。……拙者が死んだらその不自由さが初めてわかるよ。牧野先生が生きておればナアと、嘆声を発するときがキット今にくるからマア見ていてごらんなさい。」というような指導ぶりを直接見たいとも思ったのである。

 この時の先生は、数えて見ると年令七十九才。しかし元気は五十才前後の壮者と変わらず、ちょうど萩の研究でもしておられたのか、自分で採集されたのは殆ど萩ばかりのようだった。次から次といろいろな場所で一抱えに余るほども採集しては供の人に渡される。採集のためには山腹の急斜面を平気でよじ登り、戻りには四、五尺くらいの崖なら身軽に飛びおりるという有様で、途中で小休止をすると道傍に腰を下ろして、今採集してきた萩の花や葉を拡大鏡で仔細に観察しては、懐中にした名刺大の白紙を取り出してこまごまと記載される。その字がまた驚くような細字なのである。全く年令を超越したその様子には驚嘆するぱかりであった。


牧野富太郎博士(中央)と著者(左端)

 現在サボテン科には百四十余属千三百余種あるというが、サボテソの正品はそのうちで扁平な杓子状のものが枝分れするウチワサボテソの一種なのである。

 ところでこんなに多くの種類を擁するサボテン類の中でモクキリンという奇妙な植物を知ったのは、大分県に在住していた頃で、九州採集旅行の途中大分県に来られた牧野先生を迎えて、その指導による植物採集会が行なわれた時である。今から二十余年前のことだから、往時茫々、記憶もあやしいのだが、一行はおもに師範や小学校中学校の先生で、新聞社の人達も加わって三十人くらいだったかと思う。柳田国男氏の海南小記に「……永くなつかしいのは豊後では臼杵湾頭の津久見島である。山が険しいためかこの島ばかり保安林に編入せられる以前も一向に斧斤を知らず、隙間もなく茂った緑の樹の中から、色々の鳥の声が遠く波の上の舟まで聞こえる。今は目白の名所だというが、ツグミと呼ぶのも矢張り鳥の名からはじまったように思う。農家が唯一戸対岸から渡って小屋を構え、わずかの薯畠を作っている。村からも稀に枯枝を拾いにくるくらいで、人の歴史には縁の薄い島らしい。そこから出てくると、左手の海上に神の無垢島と地の無垢島が見え、次第に前に話をした保土島に近づくのである。保土の山に登ると佐伯湾を隔てて南に鶴見崎に接して大島というのが指点せられる……」とある津久見島がこの日の第一の目的地であった。というのは、琉球や中国にはあっても、日本内地では庭園に栽植されるだけで自然には生じないハランの自生地がこの島にあったからである。


モクキリン

 津久見島は臼杵港から出る船の上から見ると、海南小記の文章の通り、海から険しく盛り上がって全山円く樹木に覆われた形が、のりで包んだむすびを連想させる。島について見ると二十年後のこの時も、大正九年の柳田氏の旅の頃と全く同じく唯一軒の小屋があるきりであった。何しろ海からそそり立っている島で、道はせいぜい杣道なのだから険しく歩きにくい。しかし八十才に近い牧野先生は平気でこの山を登り、途々次から次と採集しては植物の名を尋ねにくる会員達に片端からその名を教え、時にはいろいろな説明を加えられる。道の両側はうっそうと繁った森で、大きな樹には必ず太い蔓がまきついているが、このカズラの類には特に注意しておられたようだ。テイカカズラ、マサキカズラ、ビナンカズラ、セッタカズラなどといろいろ名を教えられ繰り返されるのだが、私にはどれがどうなのか結局わからなかった。屡々崖に乗り出して仔細に観察される木があった。イヌビワという木であるが、それに特に葉の細いものが混っているのだという話であった。路傍の草の名はいくつも聞いては書き留めた。その多くはもう忘れてしまったが、センブリ、アキノキリンソウ、コウヤボウキなど島ではもう秋が深まっているのを知らされた。

 ハランの自生地は頂上までは行かない七合目くらいの山腹の窪地であった。取ってしまってはいけないが、せっかく来た記念だから各自葉を一枚ずつ持って帰るようにと牧野先生の話で、私も貴重な一枚の標本を持ち帰ったのだが、それは間もなくカピを生やしてしまった。本来そう植物のことを調べているわけでなく、ただ中学生時代から名を聞いて渇仰していた先生の風貌をこの眼で見ようという弥次馬精神でついて行ったものだから、植物のことよりも、食物の記憶の方がいまだに鮮かに残っているのはあさましい。


葉 蘭

 昼食は山の中腹で摂った。われわれが植物を採ったり話し合ったりしながら山を登って行くうしろから、大きな風呂敷包を担いだ男女と、十二、三才くらいの子供が追い越したが、これが、島に唯一戸の小屋の持主で、一行のために昼食を運んでくれたのであった。茶の入った薬罐はもとより、湯呑、飯茶碗、皿、箸等全部担ぎ上げてきている。その上、飯は一抱えもありそうな大きな櫃に一杯の白飯だ。それに魚の佃煮と蕗の味噌漬、この食事が今でも忘れ得ぬ美味として思い出されるのは不思議である。殊に蕗の味噌漬が良かった。牧野先生もしきりとその製法を家人にたずね何度もうなずいては賞味していた。

 話題のモクキリンを見たのは、この島をくだってさらに船で南に渡った四ッ浦という所であったと思う。その家の主人は名の聞こえた植物愛好家らしくて、牧野先生も先刻ご承知で、鉢に仕立てたものや、温室の中のものを丁寧に見ては解説を加えられた。モクキリンは簡単な温室の中で小さな鉢に作ってあった。これはサボテン科の植物でありながら普通の植物と同じような葉と茎を持っている。従ってサボテンらしい趣きは全くない。サボテン類が砂漠に馴化して葉を失い、茎が水を貯えて多肉となる前の原型であるという。一見普通の植物と変わらないから何の奇もないわけだが、これが現在の奇妙な形の植物の先祖であると聞かされると、大変ねうちがあるように思われた。モクキリン属(ペイレスキア属あるいはコノハサボテン属)の植物は、日本にきているのも幾種かあって、花の美しいのにウメキリンとかサクラキリンとかバラキリンなどの名がある。渡来は大正年間の終り頃だそうである。

 ついでに、正品のサボテンの渡来については、牧野氏はこれが寛永六年(一六二九)刊の筑前の貝原益軒著『大和本草』に所載されているので、寛永年間に渡来したのだろうと述べている。寛永というのは徳川家光の頃で、寛永六年は現在から三百三十三年前にあたる。その渡来の経路に関しては、多分大西洋中のマディラ諸島から渡ったもので、オランダまたはポルトガルの船が薪水補給のためにマディラ島に寄港し、そこでメキシコから伝来してすでに島の帰化植物となっていたサボテンを舶載して、日本の長崎に持ってきたものだろうというのが牧野氏の意見だ。

 私にとって思い出深いこの採集旅行の直後、牧野先生は大分県と福岡県境の英彦山に近い犬ケ岳で、岩の上から墜ち重傷を負って三ヵ月間別府で療養されることになった。昭和十五年九月のことである。

(西川 修、大塚薬報、1962年9月号)


編集子の庭、南西の隅に何気なく挿した10センチほどの苗木から
根本の直径30センチ、高さ4〜5メートルの巨木に成長したウチワサボテン。
下の写真は、そのサボテンの花と蕾。


ウチワに触れると、小さなトゲが指先に入ってものすごく痛く、なかなか取れない。
そのため電柱を越えて道路へ向かって伸びようとする枝を払うのが大変。
樹齢は30年余。

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