<AirRescue Magazine>

化外の地

 欧州航空医療連合EHACの機関誌として、新たにAirRescue Magazineが創刊された。その中にスイス航空救助隊REGAのアンビュランス・ジェットが日本へ救急患者を迎えにゆく話が掲載されている。

 REGAは、ご存知の方も多いと思うが、スイス国内にヘリコプター救急拠点13ヵ所を置いてアグスタウェストランド・ダビンチ・ヘリコプター10機とユーロコプターEC145を6機運航している。さらに3機のチャレンジャー双発ビジネスジェットを保有、救急装備をして国外で健康を害したスイス人を助けるため、世界中どこへでも飛んで行くのが大きな特徴である。

 2010年の救急出動実績は3機で1,088件。各機が毎日1回ずつ飛んだことになる。なお、ヘリコプターの出動実績は13ヵ所で10,213件であった。

 エアレスキュー誌に掲載された記事の表題は "Air Ambulance Flight to Japan"(日本への救急飛行)。著者はREGA医療チーム所属のオリビエ・ザイラー(Olivier Seiler)、ベネデッタ・ライ(Benedetta Rei)のお2人だが、まずは、その要約をご覧いただこう。

日本への救急飛行

 3月11日、マグニチュード9.0の大地震と、それに伴う大津波が東日本を襲った。その結果、福島原子力発電所が破損し、放射能漏れがはじまった。

 この事態にあたって、スイスは日本政府の要請により、捜索と救難のために25人の専門家と9頭の犬から成る人道的救援隊を派遣した。この救援隊が日本に到着したのは3月13日で、直ちに活動を開始した。

 ところが2日後、隊員の一人が腹痛を起こした。診断の結果、結腸の憩室炎であることが判明する。この隊員は数年前にも2度、同じ病気で治療を受けたことがあるという。救援隊の医師は抗生物質による治療を始めた。しかし患者の容態は翌日急変し、腹膜炎の症状を呈し、敗血症が始まった。医師はスイス大使館と相談し、患者を帰国させることにした。

 そこで原発事故の影響を避けるために、まず患者を八戸に送り、開腹手術をした。腸に穴のあいていないことを確かめ、憩室炎も一時的に小康状態にあることを確認し、治療を施した。その後も治療を重ね、容態をみながら、手術から5日目、スイス本国のREGAと連絡し、医師同士の綿密な電話相談により、容態が落ち着き次第スイスへ搬送することになった。

 もとより日本の医療水準の高いことは分かっているが、今回は放射能の影響が心配なことと、被災地では患者の身のまわりの世話が充分にできないことが考えられたからである。そのうえ、患者が八戸にいる間に、救援隊の残りの人びとは全員任務を終えてスイスへ戻ってしまい、患者と付き添っていた救援隊の医師が日本に取り残される結果となったのである。

放射能雲の中へ

 こうした状況から、日本へ患者を迎えにゆく飛行が計画された。しかし原発事故の内容は判然とせず、放射能の影響がどうなるか明確ではなかった。REGAは20時間以上の長時間飛行を想定して、乗員の人数を増やすなどの準備を進めた。飛行計画はロシアを経由し、シベリアのスルグートで燃料補給をしたのちソウルへ向かう。そしてソウルで一泊し、翌日早く日本へ飛ぶことにしたが、もし放射能がひどい場合は日本ゆきを中止するか、日本での滞在時間をできるだけ短くするという計画であった。

 したがって、救急飛行の第2段階は、ソウルから八戸へ飛んで、患者と付き添いの医師をピックアップする。このとき八戸空港が使えなければ、米軍三沢基地を代替飛行場とする。それから、再びスルグートで燃料補給をしたのち、チューリッヒへ戻るという計画になった。

 この飛行中、REGA救急機は常に日本とコンタクトを取り、青森周辺の気象情報は当然のこと、福島原発事故の状況、ならびに青森県の放射能レベルについて確認をとり続けた。事態が悪化したときは、いつでも飛行を中止して引っ返すためである。

 

三沢基地で患者を搭載

 乗員はパイロット4人と、医師1人、看護師1人であった。スルグートで燃料を補給したREGAのチャレンジャー救急機はソウルへ向かって飛びつづけた。この間、乗員はチューリッヒのREGA本部にあるコントロール・センターと無線交信を続け、日本の上空に広がる放射能のようすをつかもうとしていた。

 最終的に八戸への着陸は断念された。理由は滑走路が短いことと、詳しい情報が入手できなかったためである。そこで、25キロ離れた三沢の米軍基地へ着陸することにした。

 ソウルを飛び立って1時間ほどたち、REGA救急機が三沢へ近づいた頃、患者は救急車で三沢基地に到着し、REGAの到着を待った。

 REGA救急機に移された患者は離陸1時間後、心肺ともに良好な状態にあった。しかし上空は湿度が少ないので点滴を続け、鼻からはチューブで酸素を送りこんでいた。また傷口の痛みを抑えるために鎮痛剤が投与された。

機体と乗員の放射能検査

 こうしてREGAの救急ジェットがチューリッヒ空港に着陸したのは3月21日の午後5時15分である。REGAの地上員たちは、機体を格納庫へ牽引するのに先だって、放射能で汚染されていないかどうかを入念に調べた。結果は異常なしであった。

 さらにチューリッヒのパウルシェラー医科学研究所の専門家チームによって、救急機に乗ってきた患者、付き添い医、乗員たちの甲状腺が特別に診断された。最後は機内に搭載されていた手荷物や医療器具の汚染状態も調べたが、幸いにして高い放射能は検出されなかった。

 これらの放射能検査は無論、汚染レベルは低いだろうという予想のもとにおこなわれた。けれども実際に確認することで疑念を晴らし、乗員たちの心理的な安心感を得るのが主要な目的であった。

 この救急飛行を振り返って、REGAの飛行計画は当初から乗員と機体の安全が最優先とされた。すなわち飛行の途中でも、日本側に何か異常が発生したときはただちに変更可能な内容で、できるだけ柔軟性をもたせた計画になっていた。

 もうひとつ乗員たちは衛星通信によって絶えずREGA本部と連絡をとった。これも計画遂行の重要な要件であった。

 最後に、乗員たちは「怖くなかったか」と聞かれて、異口同音に全員が「ノー」と答えた。「われわれの気持ちは任務達成のために一所懸命で、怖いなどと思うひまはなかった」と。 


帰国後、放射能検査を受ける乗員たち

 エアレスキュー誌の記事は、およそ以上の通りである。冒頭に述べた通り、REGAの救急ジェットは世界中どこへでも飛んで行く。むろん日本へもしばしば飛来しており、REGAの乗員にとって決して初めての飛行ではなく、困難でもない。しかし、今回は違った。放射能の雲か霧が立ちこめた地獄の中へ飛びこんでゆくような気分だったに相違ない。

 どうやら西欧の人びとにとって、原発事故を起こした日本はもはや近代的な文明国から外れ、いつ何が起こるやもしれぬ危険な野蛮国に堕してしまったようだ。上の慎重な飛行計画からも、それがうかがえる。

 地震と津波は天災である。けれども原発事故は人災にほかならない。それを防ぎえなかったばかりか、収束もできないのだから、スイスの救急機すら必死の覚悟で、いつでも引っ返せるような態勢で飛んできたのもやむをえない。

 もはや日本は、彼らの目から見れば、政治や教化の及ばない文化圏の外――昔からいう「化外の地」になってしまった。そこに棲んでいるのは人間ではなく、知能を欠いた化け物である。日本は、正常な人間の住むところではなくなってしまったのだ。


尾翼に描かれたスイスの国旗と胴体前方の赤十字のマークが対称的。
赤十字を創設したスイス人、アンリ・デュナンが国旗の色を反転して
赤十字のマークをつくったからである。
デュナンは1901年、第1回ノーベル平和賞を受賞した。

 ところで、スイスのREGAは、これまで何度か訪ねて行ったことがあるが、2001年6月の訪問は日本のドクターヘリが正式に始まった直後であった。ベルンのヘリコプター拠点を訪ねる一方、チューリッヒの本部では上の記事にも登場するビジネスジェット救急機やコントロール・センターを見せてもらった。下の2枚はそのとき撮った写真である。


格納庫の中のチャレンジャー双発ジェット救急機
彼らはこれを"Ambulance Jet"と呼ぶ。


REGA本部の広いコントロール・センター
この写真はその一角をガラス越しに撮ったもので判然としないが、
スイス国内13拠点のヘリコプターの運航すべてについて、
ここで出動要請の受付から飛行監視までおこなう。
そのうえ国外に飛ぶ3機の救急ジェットの運航管理もこなしている。
周囲の壁面には大きな世界地図が貼ってあった。

(西川 渉、2011.7.19) 

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