死の洋上夜間飛行

 

 

 7月18日付けの「ワシントン・ポスト」が、ケネディ家に次々と起こる悲劇は、まるでシェクスピアの芝居を見るようだと書いている。まさしくその通りで、またしても一族の「プリンス」と呼ばれたジョン F.ケネディJr.の飛行機事故が発生した。この新しい悲劇はどんな筋書きだったのか、どんな原因だったのであろうか。そのもようをインターネットで探ってみたい。 

考えられない急降下

 悲劇の幕開きは7月16日夕刻、ニュージャージー州フェアフィールドのエセックス・カウンティ空港に始まる。午後8時38分、東の空に向かってパイパー・サラトガU単発軽飛行機が離陸した。機内は6座席だが、乗っていたのはケネディJr.と妻のキャロリン、それに妻の姉ローレンの3人である。

 目的はここから1時間半ほど飛んだところのハイアニスポートでおこなわれるいとこの結婚式に出席するため。300人近い親戚縁者が集まって、盛大な祝賀の宴を催すことになっていた。

 離陸後のサラトガは高度5.600フィートで巡航飛行に入り、しばらくコネチカット州の南岸沿いに飛んだ。それから9時26分頃、海岸を離れて海上へ出ると、マーサズ・ビンヤード島へ向かった。この島の向こうにハイアニスポートがあり、飛行機はあと30分も飛べば目的地に到着するはずだった。

 ところが9時38分、ケネディ機はビンヤード島の手前10マイルの海上で、高度約2,200フィートを飛んでいたと思ったら、14秒後には高度1,100フィートまで突っ込み、レーダーから機影が消えたのである。

 14秒間で1,100フィートいうのは毎分4,700フィートの急降下である。7月20日付の「ロサンゼルス・タイムス」は、サラトガは高性能機だが、降下率が毎分1,500フィートを超えれば操縦はできないし、計器の目盛も毎分2,000フィートまでしかないと書いている。とすれば、ケネディ機は何故、こんな考えられないような急降下をしたのであろうか。

事故原因の推測

 原因は無論まだはっきりしない。けれども、いくつかの理由が考えられる。その一つは機材の故障である。空中分解を含めて、エンジン故障か何かトラブルがあったのではないかという推測だが、これは海底から引き揚げた機体を調べればはっきりするであろう。NTSBはまだ、機材故障に結びつくような証拠は見つけていないもようである。

 次は単純な燃料切れだが、わずか1時間ほどの飛行でなくなるような燃料しか積んでいなかったとは思えない。

 最後は法規違反による無理な飛行である。視程は5マイル以上の有視界気象状態であった。またフライト・プランは入れてなかったが、これも規則違反というわけではない。ただし違反ではないけれども、アマチュア・パイロットならば入れるべきだったと「タイム」誌(7月26日号)は書く。

 というのは、夜間の海上飛行である。万一の場合を考えて管制塔にレーダーウォッチを依頼するのが普通の自家用パイロットのやり方であろう、と。しかしケネディJrはその依頼をしていなかった。そればかりか、離陸時の一度を除いて、飛行中一度も管制塔と交信していない。

 ケネディJrが自家用の操縦資格を取ったのは1998年4月。まだ1年余りしかたっていない。そのような未熟なパイロットにとって、この日は気温と湿度が高く、したがって海面にはもやがかかって水平線が見えず、飛びにくい気象状態にあったことは確かである。

 しかも夜間であった。アマチュア・パイロットは当然のことながら、週日は本来の仕事があるから、なかなか飛行機の操縦桿をにぎる暇がない。そのため週末になると、つい無理をしてでも飛びたい気持に駆られる。金曜日の夕方ぎりぎりまで仕事をして、夜になって飛ぶ。今回のケネディJrの飛行も、まさにその典型ではなかったか、と7月19日の「ニューヨーク・タイムズ」はいう。

 水平線の見えない夜間飛行は姿勢の維持がむずかしい。したがって水平儀に頼ることになるが、ケネディJrは計器飛行の訓練を受けていなかった。おそらくは真っ暗闇の中を手探りで飛ぶような気持だったのではないだろうか。

 こうして飛びつづけること1時間。午後9時半を回って、ケネディ機はマーサズ・ビンヤード島に近づいた。あたりは夏の熱気と湿度でもやが濃くなり、海上から陸地の灯火は見えず、月の影がおぼろに照っているだけ――ここに「バーティゴ」すなわち空間識失調の生じる条件がととのったのである。

 飛行機が真っ直ぐ飛んでいるにもかかわらず、あらぬ方向へ旋回しているように感じる。それを立て直そうとして却って機体を傾け、上下左右が分からなくなる。サラトガはエンジン出力が大きく、巡航320km/hを超える高速機である。ケネディJrは、自分が正常な飛行をしていると思いつつ死のスパイラル・ダイブに入り、海面に突っ込んだのではないだろうか。

総力を挙げて捜索

 ハイアニスポートでプリンスの到着を待つ一族は、予定の10時になっても飛行機が到着しないのを知った。時間がたつにつれて心配がつのったが、慎重に待ちつづけ、すぐに騒ぎ立てるようなことはしなかった。ケネディ家の友人の1人が沿岸警備隊に電話を入れたのは、4時間ほど後の7月17日午前2時15分だった、と「ニューズウィーク」(7月26日号)は書いている。

 その通報は直ちにFAAに伝えられた。FAAはすぐに付近の空港を調べ、パイパー・サラトガがどこかに着陸していないか探した。まもなく、どこにもダイヴァートした形跡のないことを確認したFAAは、直ちに沿岸警備隊と空軍の救難本部に連絡を入れた。急報は午前7時までの間に国防省やホワイトハウスにも伝えられ、キャンプデービッドに滞在していたクリントン大統領に報告された。大統領は「あらゆる手段をつくしてケネディJrを救助するように」という指示を出した。

 こうして翌朝午前7時30分、アメリカの総力を挙げた捜索活動が、多数の飛行機とヘリコプターと艦艇を動員して始まったのである。

(西川渉、『WING』99年7月28日付掲載)

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